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守山市立埋蔵文化財センター 歴史倶楽部 第169回例会 9月25日(日)










	タクシーを降りて、センター前の石垣に座っていたオジサンに写してもらう。結構遠くまで来たと思ったら、守山市の一番はずれまで
	来ていたのだった。隣はすぐ「野洲市」だ。乗る前に駅前で、運ちゃんにタクシー料金を聞いたら「2,360円かな」と言っていた
	が、センターに到着して驚いた。メーターはぴったり2,360円を指していたのだ。みんな驚きの声を上げたが、この分ではここへ
	相当客を運んでいるものとみえる。一人590円だ。バスより120円高い。








	このように壁が屋根を支えている住居は「壁建住居」と書かれている場合もある。弥生時代には無いようだが古墳時代になると各地で
	出現する。私見では、これなども、古墳時代人が大陸・半島から持ちこんだ技術のように思える。我々が見学したなかでは、宮崎の西
	都原古墳群の中にもあったし、確か、静岡県にもあったように思う。
	(訂正: 縄文時代にも「壁建住居」はあったようである。北海道八雲町の「栄浜1遺跡」からは屋根を持ち、壁を持った家型の石製
	     品が見つかっているし、山梨県金生村の「金生遺跡」では屋根・壁を持った住居跡が発掘されている。いずれも縄文時代で
		 ある。このHPをUPした翌日、「森浩一が語る日本の古代 第三巻 縄文時代東の文化」DVDを見ていて、この遺跡の
		 話がでた。一度見たはずなのに全く失念している。お詫びして訂正。このコメントは忘れて下さい。)










	現在、滋賀県の琵琶湖東南部の地域には、野洲川が形成した広大な沖積平野が広がっている。近年の発掘調査により、この地域で縄文
	末期から鎌倉時代にいたる遺跡が発掘され、主として弥生前期から古墳時代の遺跡・遺構は極めて大規模・広範囲にわたっており、こ
	の時代の研究にとって貴重な資料を提供している。

	服部(はっとり)遺跡では弥生前期の水田跡が多数発見され、赤野井浜(あかのいはま)遺跡では多種多様な農具や工具が出土した。
	弥生時代から、体系化された農業技術によって稲作が展開していたことがわかる。遺跡からは、琵琶湖や野洲川の支流沿いの低湿地帯
	に集落が営まれ、次第に農業が定着していった様子がみてとれる。
	弥生時代中期後半(紀元前2〜1世紀)には、直径が300mを越える環濠集落が出現する。下之郷(しものごう)遺跡は、九重の環
	濠が集落を取り囲む巨大な遺跡である。環濠の内側には柵があり、遺跡からは盾や石剣、石鏃などの武器・武具が出土しており、戦闘
	に備えたムラの姿が浮かび上がる。私はこれまで、近畿圏の環濠は水路であって防御用のものでは無いなと思っていたが、どうしてど
	うして、しっかりした防御施設である。炭化米やフナの骨、植物遺体なども出土しており、これらからは当時の人々の生活ぶりも窺え
	る。
	中期末には、二ノ畦(にのあぜ)遺跡、横枕(よこまくら)遺跡、下鈎(しもまがり)遺跡などの環濠集落が、扇状地の末端に数km
	毎に点在している。環濠集落からは鉄製品や他地方の土器なども出土しており、広い交流範囲があった事もわかる。また、弥生時代中
	期の集落遺跡周辺には大規模な墓域が形成されており、服部遺跡では360基以上の方形周溝墓が見つかっているが、その中に周溝幅
	も含めて30mを越える大きな墓も造営されていた。10m前後の墓群の中でも一際大きく、集落の首長の墓では無いかと考えられて
	いるようだ。「30mを越える墓」というのは驚きである。北九州でもあまり例がないのではなかろうか。
	吉身西(よしみにし)遺跡や酒寺(さかでら)遺跡では、方形周溝墓が二列に並んで伸びており、墓の造営に規則性があった事が判る。
	湯ノ部(ゆのべ)遺跡では墓の周辺から木偶が出土しており、弥生時代の葬送儀礼の一端が垣間見える。

	中期終末になると、大規模な環濠集落群が姿を消し、後期には小さな集落が散在するようになって、集落の景観は大きく変化していっ
	たようである。後期には、伊勢(いせ)遺跡や下鈎遺跡などで大型建物が建造され、その建物を中心として「祭り」や「儀式」が執り
	行われていたものと考えられる。これはクニとしての形が整い始めたことを示し、後期も末になるとそれらの大型建物は姿を消し、大
	岩山から24個もの銅鐸が発見され、弥生時代から古墳時代へ移っていく時代の変遷を見ることが出来る。
	伊勢遺跡の衰退とともに、境川の支流沿いに下長(しもなが)遺跡が隆盛を極めるようになる。下長遺跡では居館跡が発見されており、
	儀仗(ぎじょう)なども出土していて、古墳時代に「王」が出現したことを窺わせる。ここからは準構造船も発見され、西日本各地か
	らの土器が多数発見されるので、各地との交流・交易を通じて「王権」が確立していったものと考えられる。弥生時代から古墳時代に
	掛けての湖南地方での政治的なまとまりが、これらの遺跡群の変遷から見て取れるのである。

	【参考資料:近江歴史探訪問6「「國」淡海に建つ」滋賀県教育委員会文化財保護課発行】(上記地図も同書から転載。深謝。)











なんちゅう数や!これみんな掘ったんかいな、えぇーっ。エラいもんやなぁ。掘ってないとこ無いくらいやんか。おもろかったやろなぁ。




服部遺跡

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	服部遺跡(守山市HPより:再掲)
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	服部遺跡は、縄文時代の終わりから弥生、古墳、奈良、平安時代にかけての、日本最大級の複合遺跡である。水田跡、竪穴住居跡、墓、
	古墳、掘立柱家屋などの生活跡や琴、勾玉、銅印、貨銭、木簡、くしなどの生活用品が出土し、昔の人々の生活を知る手がかりとなっ
	た。服部遺跡は、世紀の大事業といわれた、野洲川改修工事に伴い、発見された遺跡である。昭和49年から5年をかけて行われた発
	掘調査では、延べ5万人の人員を投入して4層30万平方m以上の面積を調査し、縄文時代から平安時代にわたる数々の遺構や、百万
	点にも及ぶ膨大な遺物が発見された。
	主なものには、近畿地方で初めての発見となった弥生時代前期(約2,300年前)の水田跡、弥生時代中期(約2,100年前)の
	360基にものぼる方形周溝墓、弥生時代後期(約1,900年前)の環濠集落、100棟以上にも及ぶ古墳時代の竪穴建物、やまと
	琴や埴輪が出土した古墳、「乙貞」の銅印や和同開珎をはじめとする多量の銅銭、墨書土器(ぼくしょどき)が出土した奈良時代の集
	落などがある。































<土製品・鋳型外枠> 極めて珍しい貴重な資料として特記される。服部遺跡で、銅剣か又は銅鐸などが鋳造されていた可能性が高い。










経田遺跡



















阿比留遺跡















スポット展示 土器の変遷



















	手焙形土器

	弥生後期土器の、「受口状口縁土器」のなかで、上の写真のように鉢の上部に覆いがつき、その形が手焙り用の火鉢に似ている事から、
	「手焙形土器」と呼ばれている土器がある。煮炊きやその他で火に掛けた瓶や壺などと違って外部には煤がなく、覆いの裏側にわずか
	に煤が残っている。そのため灯りをともす光明具か、或いは後世の「香」を焚くような使い方をしたのかと考えられているが、いずれ
	にしても炊飯用具ではなさそうである。近江では竪穴住居や集落を囲む溝の中などから出土しているため、日常生活に使われた道具で
	あろうとされる。
	古墳時代前後に、この「手焙形土器」は北部九州から甲信越・関東にいたる広い範囲に波及している。出土状況を見ると、方形周溝墓
	や前方後方墳などの古墳から出土しているので、日常品から葬送具へと変貌を遂げたもののようにもみえる。しかしこの近江がその発
	祥かというとそれは違うようである。というのは、東日本の縄文遺跡からもこの形を持った土器は出土するし、東日本から西日本への
	縄文土器の流入を考えた方が正解のようだ。










下之郷遺跡

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	下之郷遺跡  国指定史跡(守山市HPより:再掲)
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	下之郷町一帯に広がる紀元前1世紀(弥生時代中期)の巨大環濠集落跡で、村の周りに九重もの環濠が巡らされている。集落内部には
	四角い囲みや大型建物跡、井戸跡などがあり、銅剣、石やじり、弓、盾などの武器・武具や、動物や魚の骨、植物の種などが見つかっ
	ている。当時の社会や生活がよくわかる、滋賀県下最大の環濠集落で、国の指定史跡となっている。




















伊勢遺跡




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	伊勢遺跡  (守山市HPより:再掲)
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	昭和56年(1981年)、滋賀県守山市伊勢町、阿村(あむら)町、栗東市野尻(のじり)にかけて、弥生時代後期の巨大な集落遺跡が広がって
	いた。その後、平成19年3月までに実施した104次にわたる発掘調査で、伊勢遺跡は東西約 700m、南北約450mの楕円形状に形成
	されていることが明らかになっている。集落が営まれた時代は、縄文時代後期から室町時代で、最も栄えた時代は弥生時代後期(紀元1
	〜2世紀)である。遺跡は、南と北にある低地に挟まれた微高地にあり、東から西にかけて傾斜する土地にある。
	弥生時代後期の建物跡には、竪穴住居と掘立柱建物の2種類の建物跡があり、竪穴住居の平面形には円形と方形そして五角形の3種類が
	ある。また、掘立柱建物の規模には大小が見られ、ここでは床面積が30u以上のものを大型建物と呼んでいる。遺跡の西半部には竪穴住
	居が広がり、東半部の大型建物跡が無くなると、その上にも竪穴住居が造られるようになる。
	遺跡の西側では、溝を挟んで方形周溝墓が築かれているが、弥生時代集落の有力者の墓域であったと推定される。遺跡の東端では、幅約
	7m、深さ2m以上もある大きな堀のような大溝があり、北側は方形周溝墓、南側は、旧河道であったと推定される。






























下長遺跡


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	下長遺跡  (守山市HPより)
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	古高町の工業団地一帯にほぼ重なるように広がる下長遺跡は、縄文時代から平安時代にかけての集落跡として知られている。遺跡は、
	中央に河川(旧河道)が東から西方向に流れていた緩やかな土地に立地すること、縄文時代中期、晩期、弥生時代中期、弥生時代後
	期から古墳時代前期、古墳時代後期、平安時代中期のおおむね6時期の集落が営まれたことが発掘調査によって判明した。
	集落域の北西部には、溝によって方形に区画されている大型の掘立柱建物と土坑群が散在する2つの区域が見つかっている。また、
	権力を象徴する威儀具や祭祀具の出土から有力者が政治やまつりを行った「首長居館」(大規模な建物)と「祭祀域」に想定できる
	場所が集落内部に備わっていたと考えられている。また、水上交通の手段である「準構造船」や他地域との交流を示す外来系土器の
	出土から、下長遺跡の古墳時代前期の集落は、琵琶湖の水運を利用した物資の流通を担っていたと考えられるようになった。更に、
	遺物の中に鋭く削られた跡の柱の根元が見つかっていることから、鉄の工具の普及が想像できる。 

	*「準構造船」とは、丸木舟に竪板などの部材を継ぎ足すことによって積載量を増大させた船のこと。 
	*「儀仗」とは、威儀具のひとつで長さは1.2m 古墳時代前期に属すものとしては国内唯一で、保存状態も良好。 




























	石杵

	縄文時代から古墳時代まで、日本では墓や装飾品に赤と黒を用いるのが好まれている。先月の例会で行った肥後の装飾古墳などは、赤と
	黒のみと言ってもいいほどだ。秦の始皇帝の墓は朱で覆われているという説もあるので、この傾向は中国から渡ってきたもののように言
	う学者もいるが、古代にはその色しか入手出来無かったと考えた方が正解であろう。青や黄色などを土器に塗る原料は無かったと思う。
	赤色の原料は、酸化鉄であるベンガラと、硫化水銀の天然化合物である朱の2種類である。ベンガラは入手も加工も簡単だが、朱は非常
	にやっかいな原料である。採取できる場所も限られ、調合するにも高度な技術を必要とする。また漆に混ぜたり、土器に彩色するには更
	に精製する必要がある。
	この石杵は、そのための道具として用いられたものと考えられる。勿論これを受ける石皿や類似の石器も必要だ。鮮やかな赤を表現する
	朱には、魔除けや不老不死、或いは防腐作用の効果もあるとされ、死者の埋葬をはじめ、祭祀に関わるものに多く使われている。その入
	手、加工、精製等の困難さを考えると、この石杵を保有していた人物は相当な権力者であったと考えざるを得ない。












イネの渡来








中島遺跡
















その他の遺跡






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	横江遺跡  (守山市HPより)
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	昭和58(1983)年から実施した発掘調査で中世の集落であることが判明した。横江遺跡は志那街道に面し、河川に挟まれ水利に適
	した土地に立地している。横江遺跡の中世集落の初現は11世紀代とみられ、12世紀から13世紀前半頃までは「家」と見られる数棟
	の建物ごとに分散居住していたようである。溝で囲まれたひとつの屋敷地が1軒の「家」に相当すると考えられ、主人が暮らす母
	屋をはじめ、副屋や倉庫などの大小の建物と井戸が作られていた。
	屋敷地を囲む溝には、川から水が引き入れられていたとみられ、村の用排水や小舟での運搬にも利用されたと思われる。当時の人
	々が使用したものとして、黒色土器碗・土師器皿・白磁・青磁・五徳・石製硯・天目茶碗・土製火鉢・箸・柄杓・下駄・へら・砥
	石・毬杖の玉などが発見されている。
















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	益須寺遺跡  (守山市HPより)
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	吉身五丁目一帯にある益須寺(やすでら)遺跡は、日本書紀にも書かれた寺院として知られている。発掘調査では昭和40(1965)年
	にセン積みの溝が確認され、昭和48(1973)年の調査では瓦が多数発見された。また、昭和60(1985)年の発掘でも瓦が大量に発見
	されていて、吉身地先には白鳳期の寺院跡のあったことは確かになっている。軒丸瓦のうち、白鳳期のものは直径が約20cm、厚み約
	3cmの大きなもの。また、軒平瓦は瓦当面の厚み8cm、長さ30pほどもあり、忍冬唐草文・均正唐草文や重弧文がある。寺跡は市街化
	が進んで土地の区画や形状が変化してきて往古の地形や起伏そして道路が不明瞭になってしまったため、場所を特定しにくくなって
	いる。 

























やまと琴を鳴らしてみる河内さん。こんな昔から琴があったとは。弥生時代に音楽はどう使われていたのだろう。





2階には民俗資料関係のパネルや展示が。


















	センター事務室。この中にも展示がある。一人で留守番していたお姉ちゃんから幾つか資料を購入する。例によって、「一人なん?」
	とか「一人じゃ寂しいやろ」とか話し掛ける。「前もって連絡頂いてれば解説員がいるんですけど。」「お姉ちゃんでええから解説し
	てくれない。」と頼むと、「私は生半可な解説をして誤解を与えるので解説したらアカンと言われてるんです。」、みんな爆笑。
	「その分じゃ、いままで相当嘘言うたな、ははは。」



西本さんのデジカメで我々を写す大隈君(上)と、その大隈君を写している私(下)。





センター前の庭には、守山市の遺跡から出た著名な出土物のモニュメントが製作・展示されている。











モニュメントの向こうには野洲川の堤防が見えている。このセンターは服部遺跡の中に建てられているのだ。




	還りもタクシーかなと思っていたら、珍しく西本さんが「タクシーはアカンわ。歩こうやぁ。」と言うので「下之郷遺跡」まで歩く
	ことにする。その後はまたそこで考えよう、という事にした。



今はもう何も無いが、ここから服部遺跡の中を歩いて下之郷遺跡を目指す。途中で昼食を取らねば。





















 
邪馬台国大研究/ 歴史倶楽部/169回例会・守山市立埋蔵文化財センター