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歴史倶楽部 第165回例会 4月24日
山背大兄皇子の墓


	
	「伝」山背大兄皇子の墓だから勿論確証は無い。しかし宮内庁は、発掘を恐れてかはやばやと「陵墓参考地」に指定してしまって
	いる。場所的には「岡の原」という小山であり、地元ではここが山背大兄王墓であるという伝承が根強い、という。(地元の人に
	は聴いていない。そう書いてあったものを読んだだけです。)



	
	山背大兄王	出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

	山背大兄王(やましろのおおえのおう、生年不詳 - 皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))は、『日本書紀』によれば7世紀前半
	の皇族。『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。

	『日本書紀』皇極紀に拠ると、推古天皇が病没した後にその後継問題が発生し、蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。
	その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子らと皇位を争う。だが、蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあっ
	て皇位は田村皇子が継承することとなり、629年に即位(舒明天皇)する。
	蘇我蝦夷が山背大兄王を避けた理由については、山背大兄王がまだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説
	と、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためとい
	う説がある。
	だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、
	その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、王と蘇我氏の関係は決定的に悪化する。



	
	皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮の山背大兄王
	を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪
	君逆の孫)、舎人田目連とその娘、莵田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、
	「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄
	王は戦闘を望まず、
	「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈
	夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」
	(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせ
	じ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)
	と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。



	
	結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害
	し、上宮王家はここに絶えることとなる。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。なお墓は不詳であるが、
	法輪寺近郊にある「岡の原」という小山が山背大兄王墓であるという伝承がある。



	
	当時の天皇は長男による世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇
	や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったため
	である。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子)と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。



	
	更に山背大兄王の暗殺には、多数の皇族が加わっていたと言われており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における
	優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ出来た事件であろう。
	当時の後継者選びの基準が上宮王家一族を悲劇へと追い込んだのである。




白昼夢




	後から来た橋爪君と栗本さんが、小高い盛り土の側に誰か立っているのを発見! 「あ、あれは山背大兄王では?」「え、え、え?」
	「な、なんと、まさしくあれは、」「な、な、なんか言いたそうでっせ」「ほんまやね、話し聴いたろか?」「やめときまひょな、
	わ、儂、入鹿とちゃいまっせ、ちゃいますぅ!」



それを見た乾さんは、「ひぇーっ」と叫んで大急ぎで杉本さんの後を追います。



郭公さんもどうやらそのお姿を見たらしく、入口に立って手を合わせ、ただひたすらに、「なまんだぶ、なまんだぶ」と唱えていました。



こういう事があるので、決して一人では御陵やお墓に詣ってはいけませんと、宮内庁が「立ち入り禁止」に。

	ははは、白日夢でした。
	でも、一人で天皇陵巡りをしていた時、今晩こういう夢を見るのでは無いかという気になった事が多々あります。ヤブやマムシはさ
	ほど怖くもありませんが、誰一人いない山の中で、背中に人の気配を感じたときほど怖いものはありません。仁和寺の脇から1時間
	ばかり登ってゆく「宇多天皇」の御陵に行ったときがそうでした。だんだん薄暗くなってきて、相当な山の中に一人きり、「そうか、
	ここは墓なんだ」と思ったとき、木々がざわめいて、今にも宇多天皇がふーっと現れそうな気がして、大慌てで嵯峨野へ逃げ帰った
	ものです。皆さん、御陵(霊)巡りは必ず二人以上で行(生)きましょう。



葡萄でもなく梨畑でも無く、どうやら梅畑のようですね。



命からがら逃げてきて、道の向こう側にある案内板を読む皆さん










	
	<史料に見える山背大兄王>

	・上宮聖徳法王帝説
	『上宮聖徳法王帝説』では、厩戸豊聰耳聖徳法王、聖王の児、山代大兄王(此王有賢尊之心棄身命而愛人民也、後人与父聖王相濫非
	也)とされ、母は、蘇我馬古叔尼大臣娘の刀自古郎女、妻は舂米王、子どもは難波麻呂古王、麻呂古王、弓削王、佐々女王、三嶋女
	王、甲可王、尾治王が生まれたとされる。

	飛鳥天皇御世 癸卯年10月14日に、蘇我豊浦毛人大臣兄入鹿臣□□林太郎が伊加留加宮にいた山代大兄とその昆第等、合15王子等こと
	ごとく滅すなり(「飛鳥天皇御世 癸卯年十月十四日 蘇我豊浦毛人大臣児入鹿臣□□林太郎 坐於伊加留加宮 山代大兄及其昆第等 
	合十五王子等悉滅之也」)と記述されている。(□は欠字)

	<筑前・・・「林太郎」というのは蘇我入鹿の別名である。昨年の「風の中へ」にこの□欠字に、「天皇」といれたらどうなるかと
	 いう一考を書いたが、皆さん記憶していますか?「上宮聖徳法王帝説」には林太郎前後が何故が欠落文字□となっている。>


	・聖徳太子伝補闕記
	『聖徳太子伝補闕記』には、

	癸卯年十一月十一日丙戌亥時 宗我大臣并林臣入鹿 致奴王子兒名輕王 巨勢コ太古臣 大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人 
	發惡逆至計太子子孫 男女廿三王無罪被害 (今見計名有廿五王)山代大兄王蘇、殖栗王、茨田王、乎末呂王、菅手古女王 舂米女王
	膳 近代王 桑田女王 礒部女王 三枝末呂古王膳 財王蘇 日置王蘇 片岳女王蘇 白髪部王橘 手嶋女王橘 難波王 末呂古王膳 弓削王 佐
	保女王 佐々王 三嶋女王 甲可王 尾張王 于時王等皆入山中 經六箇日 辛卯辰時 弓削王在斑鳩寺 大狛法師手殺此王

	とある。 癸卯年11月11日(643年12月30日)丙戌亥時に太子子孫を宗我大臣并林臣入鹿が殺し、6日後の 辛卯辰時に大狛法師が事件
	後6日後に斑鳩寺にいた山背大兄王の息子弓削王を殺したと記述されている。



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