Music: chinese song 7


遥かなるシルクロード 莫高窟
















	月牙泉からそう遠くない。今日も「紅旗」で砂漠の中を走るのだ。巨大な岩山に刻まれたという仏像や、洞窟の壁一面に描かれ
	た壁画が残る洞窟群である莫高窟(ばっこうくつ)。今回の旅の前に、井上靖のシルクロード紀行記を読んできたが、彼の莫高
	窟に関する文章は少し感傷的過ぎるような気がした。確かに偉大な人類の遺産であるのは認めるが、人生を左右するような感動
	は受けなかった。仏教や仏教画などに親しんでいない我々との世代の違いなのか、それとも大作家との感性の違いによるものな
	のか。








	「莫高窟」

	世界文化遺産に指定されている石窟寺院・莫高窟は、敦煌市街から東南へ25km、砂れきのゴビ砂漠(灘:たん)のただ中に
	ある。鳴沙山の大砂丘が東西40kmにわたって横たわるその東の端である。人里離れた砂丘の絶壁に無数の洞穴が開いていて、
	そこに、膨大な量の仏像と仏画が残されている。絶壁に何十となくうがたれた岩穴に居ならぶ阿弥陀仏や菩薩らの仏像群、また
	壁、天井に彩色豊かに乱舞する飛天(天人)、麒麟、鳳凰の絵、そして天をつく高さにそびえる巨大な摩崖仏(まがいぶつ)な
	どなど。残念ながら洞窟内は撮影禁止で照明もない。そのため観光客は、ガイドの照らす懐中電灯の明かりで内部を見物するこ
	とになる。勿論持っている人は自分で照らせばいいが、説明を聞かないともう色や線もかすれて、いったい何の絵なのかわから
	ないものも多い。





上右が入場券販売所。売店や休憩所、トイレなどもある。





 

 


	ふもとに、祁連(きれん)山脈の雪解け水が流れとなった大泉河(だいせんが)という名のか細い川が流れ、緑のポプラ林があ
	る。こぢんまりしたオアシスが形成されているのだ。雪解けの時だけ本格的に水が流れる。普段はこの様に乾ひからびており、
	所々に水溜りがある。

 



エントランスの広場には、この莫高窟の保存に尽力した人々(らしい)の肖像が張り出してあるが、江沢民などの政治家の写真が多かった。



壁画には空を飛ぶ天女、すなわち「飛天」が多く描かれており、上左はそれをイメージした彫像だ。








	砂丘の突端に造られた莫高窟。赤い柱の北大仏殿は最初唐代に4層の楼閣として建てられ、その後少しずつ高くなり、現在の9
	層は中華民国時代の1930年の建築。高さ50mを超える岩壁に4段、5段に掘られた石窟は約600あまり。それが1.6
	kmも連なっている。




	唐代の記録によると、最初の石窟が開さくされたのは4世紀半ばのこと。旅の僧がたまたまこの地にやってきたところ、金色の
	光が見え、千の仏がいるようだった。そこで仏を入れる石窟を一つ造ったのが始まりだという。複数の異民族が、中国の北半分
	の支配を激しく争った五胡十六国時代。インドからパミール高原を越えて伝わった仏教が、敦煌を入り口にして河西回廊に興隆
	していく時期だった。莫高窟の地理環境を考えると、仏の道を求める僧にとって格好の聖地であったのだろう。




	記録では中国最古とされるこの石窟寺院は、以後14世紀の元朝末まで千年にわたって石窟が掘られ栄えた。建築、壁画、塑像、
	文書、世界に例を見ない規模で仏教美術の宝庫を残した。現在、莫高窟の各窟の入口周辺は塗り固められ、内部の壁画、塑像な
	どは厳格に保護されている。しかし、なかには覆いきれない壁画などもあって、長年の風化にさらされたままのものもある。




	ガイドの話では、近年になってロシア革命時に国境を越えて逃げてきたロシア人(主に兵士たち)がここに住み着き、洞窟内を
	荒らしたので、その際にも多くの壁画・彫像が失われたという。






	ここから入場するのだが、解説にもあるように、カメラ・ヴィデオの類はおろか、バッグも中へは持ち込めない。全て入場口に
	おいていくか、中へは入らない旅行社のガイドに預けていくしかない。我々も黄さんに預かって貰った。ガイドは背の高い三十
	才くらいの女性で、梶芽衣子に似た美人だった。日本語は堪能で、スラリとスタイルも良かった。残念な事に、旨のpocketに入
	るコンパクト・デジカメを持っていったが、正面からは写せなかった。

 

 











 



 

 



 


	莫高窟のパンフには、「蔵経洞(ぞうきょうどう)の珍宝はかつてたびたび略奪に遭い、奪われた文書は数万件に上った。・・
	貴重な文物は大量に海外に流出し、世界十数カ国の博物館などに分散している」と記述されている。
	仏教美術の宝庫である莫高窟は、19世紀末から20世紀初頭にかけ、列強の研究者、探検家たちにとって絶好の標的となった
	のだった。発端は1900年だった。道教の道士・王円□(おうえんろく:ろくは、「たけかんむり」に録)が現在第17窟と
	呼ばれる石窟(蔵経洞)で千年以上前の大量の経典、絵画、公私文書を発見した。1907年、英国の考古学者オーレル・スタ
	インが敦煌を訪れ、かなりの部分を王道士から買い取る。これが世にいう「敦煌文書」であり、ここから「敦煌学」が始まった。

	翌年、フランスの東洋学者ポール・ペリオが同じ石窟から大量の文書、絵画などを購入した。中国語の達人であるペリオの収集
	はとくに逸品ぞろいとなった。さらに、1911年、日本の浄土真宗本願寺派(西本願寺)法主・大谷光瑞(こうずい)が派遣
	した探検隊も敦煌に到達し、王道士から文書を買い入れた。ペリオは収集品の一部を北京で公開する。中国の研究者はもちろん、
	清国政府も貴重な文物の国外流出に驚愕した。直ちに保護の指示が発せられたが、これはあまりにも遅すぎる措置だった。英、
	仏、日に前後してロシア、ドイツ、米国の探検隊、研究者も莫高窟から文物を持ち帰った。


クリックすれば「北面・壁画窟」の全景が見れます。

 



こっちの方は調査はされているが、保存処理や整備は全く手つかずだ。早く保存しないと風化してしまうのではなかろうか。



デジタルズームではなかなか鮮明には写らない。やっぱり一眼レフ・デジカメが要るなぁ。





以下は「google-earth」の映像。国分寺友の会の久保田さんが、掲示板に
投稿してくれたものを転載した。しかし航空写真はなかなか判別が難しい。









昼飯を食べた店の壁に描いてあった「飛天」と、壁一面に展開していた印の模様。
何と書いてあるのかわからないが、どうも福を呼ぶ文句のようだ。







2008.1.3 NHK 莫高窟
































 
邪馬台国大研究 / 敦煌/ 莫高窟