Music: think
遙かなる西安 2005年9月24日









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	兵馬俑博物館(へいばようはくぶつかん:秦の兵馬俑坑) 西安市臨潼区
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	秦の始皇帝陵の副葬坑。人間、馬と等身大の8000以上の武士と馬の俑は「世界の八番目の奇跡」と絶賛されている。西安を
	代表する観光地であり、内外の観光客で賑わう。兵馬俑坑は、兵馬俑は発掘状態の「坑」のまま体育館のような建物にくるまれ
	て、秦俑博物館と呼ばれ、始皇帝陵の東1.5kmのところにある。博物館は1号坑、2号坑、3号坑などからなり、1号坑は
	230m×62mの大きさで、深さ5mのところに約1000体の土色の兵馬が並んでいる。博物館では、今でも埋められた兵
	馬俑を少しづつ発掘中であり、見学者は上から見下ろす感じで見学できるが、残念ながら館内は撮影禁止との事である。しかし
	現在では、観光客はおかまいなしにバチバチ写しているし、警備員もそれを止めようともしない。おそらくは、あまりに多い規
	則違反者に、もう注意する気もないのだろう。(と思ったら、数年前兵馬俑坑内の撮影は全面的に許可されたのだそうだ。)
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兵馬俑公園の駐車場の脇に立つ巨大な秦の始皇帝像




	兵馬俑への道中は柘榴(ざくろ)と高粱(こうりゃん)、サトウキビの連続した畑が続く。柘榴はこの地の特産で、始皇帝陵
	を出たところで、道端のおばさんが売っているやつを買った。5個で3元(42円!)。
	入口周辺は例によって土産物店ストリートである。近郊農民の土産物売りが付きまとう。中国のオバハン・パワーは韓国の比
	ではない。館内は販売禁止なのだろう、物を隠しながらの売り子がいっぱいだ。韓国同様「1000円!1000円!(シェンエン!
	シェンエン)」と付いてくる。見学を終えての帰り、またここを通った時トラブルがあった。いやな思いをしたのだが、それ
	については、長くなりそうなのでこのHPの最後に書くことにする。




	やっと物売りのテントを抜けたと思ったら広場にでたが、どこにも建物らしきものはない。兵馬俑はどこだろうと思っている
	と張さんが、あそこに並んでくださいと言う。な、なんと、ここから電気自動車で公園内を抜けていくのである。2,3分の
	乗車だったが、とてつもない広さに感じた。






	上左の方が兵馬俑への入り口。ここで入場券を買う。電気自動車に乗った時、一人5元だったので、エラクやすいなと思って
	いたらあれは自動車の乗り賃だったのだ。ここは確か20元だったのかな?

	博物館内は1号抗、2号抗、3号抗と3つに分かれていている。下右の三角屋根の建物は総合展示館で、銅馬車はここに展示
	されている。体育館のような俑抗には、始皇帝陵を守る兵馬の大軍隊が眠っていた。「1号抗:兵馬・戦車、2号抗:射手部
	隊の俑抗」、「3号抗:司令部の人馬俑」と別れている。この他にも実は4号坑が発見されているのだが、面積が4052平
	方mもある4号坑は中が空だった。別な部隊を入れるためのものだろうと言われているが、最近では始皇帝の死と、秦王朝の
	没落で中止されたと考えられている。




	兵馬俑は3つの坑に分かれて埋められており、発掘された順に、1号坑、2号坑、3号坑と名づけられた。そのうち最も大き
	い1号坑の面積は1万4260平方mあり、その中に実物大の陶俑と陶馬約6千体が埋めてあり、いままでに武士俑1000
	余体、戦車8両、陶馬32匹が出土している。2号坑の面積は約6000平方m、陶俑と陶馬は合わせて1300余体あり、
	ほかに戦車が89両あり、歩兵、騎兵、戦車など3兵種が混合して編成されている。3号坑の面積はいちばん小さく約376.
	64平方m。地下の大軍を統帥する司令部だったと見られ、武士俑68体、戦車1両、陶馬4匹が発掘された。兵馬俑は、始
	皇帝墓の副葬品のひとつであり、世界遺産と言えば「秦の始皇帝陵」となるが、当然、兵馬俑も含まれると考えてよい。武器
	を持った兵士たちは等身大で、平均身長は1.8m。胴体は空洞で、しかも一体一体顔付きや服装が違うと言われる。全ての
	兵隊俑が手に武器を握っている。粘土を材料に形作り、彫刻を施し、最後に窯で焼いた兵隊俑は、一部まだ色彩が残っている
	ものもある。馬や戦車と一緒に始皇帝の墓を守っている。日本の埴輪がそうだったように、生きた人間を入れるかわりに作り
	物で代用したのではと言われている。



総合博物館(上左)と、兵馬俑博物館の入場券。使い捨てのカード式(上右)。



 

 


	左側の展示室には陶俑、陶馬、戦車が陳列されている。又、瓦が人骨とともに発掘時そのままの状態で展示されている。右側
	の展示室には上の写真の銅馬車が展示されている。




1980年出土実物の二分の一。銅馬車。





 







みんながやっていたので、私も禁を破ってフラッシュを炊いてみたら、えらく青ざめた写真になった。






	<銅車馬>

	2台の馬車は実物の2分の1サイズの青銅で作られ、1号銅馬車(先導車)2号銅馬車(始皇帝専用車)と呼ばれる。1号車
	は先導車で、御者は腰に剣を帯び、側に弓矢などの兵器を備えている。2号車は温涼車といって、秦の始皇帝の専用車である。
	始皇帝陵の西側20mのところから発見された。銅馬車はそれぞれ4頭立てで、 重さは2台合わせて約2.5トン、部品の総数
	は、溶接個所、接続金具を含むと8千件以上の複合体からなり、そのうちの約4千件は金銀で作られた装飾品で飾られている。
	さらに、銅馬車は至る所に金銀の象眼が施されたり、色彩による模様が描かれている。彩絵も2200年の時の流れを感じさ
	せないぐらい美しい色彩を残し、秦始皇帝時代の銅馬車の技術がいかに精巧で驚異的な高水準に達していたかがわかる。橋本
	さんはこの馬車がよほど気に入ったらしく、でっかいレプリカを買っていた。最近新築したので、たぶん玄関に飾るつもりな
	んだろう。十分それに値する最高級の美術工芸品である。









上は2号坑。3号坑はこの裏手にある。下左は今見てきた総合博物館で、下右は1号坑。

 


	最大の一号坑は長さ230m、幅62m、深さ5m、総面積14260u、兵馬俑の数が約6000体、二号坑は6000u、
	俑の数は1000体余り、三号坑は500u、俑の数は58体に過ぎず、規模が一番小さいが、地下軍団の司令部に当たる。
	一号坑は今なお発掘を続けているが、中は土掘によって区切られ、上に丸木を掛け、その上にゴザを敷き、表は2mの土によ
	って覆われている。前衛部隊と四周にたっている警備隊に守られ、主力軍は38列に分けられて、東に向かって整然と列を組
	んでいる。兵隊俑の平均身長は1.8m、胴体は空洞、下半身は詰まっていて、顔の表情はそれぞれ異なり、身分によって服
	装もまちまちであり、いずれも手に武器を握っている。一部の俑にはまだ色彩が残っている。馬の高さは1.5mで西域の大
	宛の馬に似て、足が速いと言われている。 兵馬俑はこの近くの粘土を材料にして、彫刻などの手法を施し、最後に窯に入れ
	て焼いていた。




	前衛部隊、警備隊、東に向かって整然と列を組む主力軍と見られるおびただしい数の兵馬俑が並び、始皇帝の権力を物語って
	いる。現在1号坑は、巨大な体育館のように、カマボコ型の屋根をつけて風雨を避けている。いずれの坑も、発掘現場がその
	ままの状態で見れる。

 

 




	デカい! とにかくでかい! 北京に行ったときも感じたが、どうして中国人は物をこんなにでかく作るんだろう。巨大な物
	に対する憧れは尋常ではない。

 

 


	等身大の武士俑と戦車を引く陶馬が1000体(全体は6000体余り)、方形の陣形で並んでいる。想像していた通りの
	迫力だ。体育館の5,6倍の広さに圧倒される。人馬ともにリアルである。一体ごとの顔の表情もよく見える。













下段の見学台に降りて記念撮影。できあがったら今夜ホテルへ持ってきてくれるという。





上右の、立て札がたっている場所が、農民「楊さん」が最初に陶器の破片を発見した場所。兵馬俑が世に出たところだ。








	地下軍団は陵を背にして東を向いている。前面には南北60m、幅3.45mの長い廊下があり、これと丁字型に接して2百
	mの長さの地下壕が11本、東西に並んでいる。









 

上右の写真で盛り上がった土の上に乗っているレンガが、兵馬俑を造った当時のレンガだそうである。2000年以上前のもの。




	一番奥まった所にある場所が、最新の発掘で出土した傭を整備する場所だそうである。一般人は中には入れないが、事前に申
	し込んでおけば許可されるそうだが、学術機関の人間でないといけないようだ。西欧人のグループが見学していたが、中には
	研究者とはいえないような連中もいたような。
























	干ばつの続いた1974年の3月、井戸を掘っていた地元農民が、陶器の破片を発見した。始皇帝の陵墓を守る陪葬物として
	焼かれた兵士や馬の人形(=兵馬俑)だった。この偶然の発見から発掘調査が始まり、やがて「世紀の大発見」となる。その
	発見者の農民「楊さん」は、実はその当時字が書けなかった。1998年、米国のクリントン大統領が兵馬俑坑を訪問し、発
	見者の「楊志発」老人にサインを求めた。しかし老人は字が書けない。何かブツブツ言いながら、老人は3個の○を本の2頁
	目に書いた。クリントン大統領は驚き、居合わせた中国の指導者たちは自国の文化度を恥じた。西安政府上層部の指示で、楊
	さんは当地の有名な書道家に「自分の名前」を書く練習を課せられた。練習は何ヶ月も続き、字をマスターした彼は、その後
	兵馬俑博物館の名誉館長に任命される。月給は最高で8000人民元(2005年10月のレートで 112,000円。現代中国の平均農
	家収入の約5倍。)だった。兵馬俑坑を発見してから24年後に、楊老人に訪れた大きな転機だった。クリントン訪中を契機
	に、中国の指導部がこの発見の価値を見直したのである。
	今年73歳になる揚志発老人は、今や悠々自適の生活で、時々博物館にも出勤して、博物館の売店でガイドブック購入者に、
	兵馬俑坑発見者としてサインをしている。私も購入してサインをもらった(下)が、中国人は握手も求めていた。







2号抗は4つの兵種の混成で陣容を形成し、3号抗は指揮官が立つ場所にある小さい抗である。













 

 


	陶俑のスカート(裙)の下、腕の下に文字がある。「宮彊」「咸令」「咸陽午」「得」「四」「五」「十」など。文字の多く
	は陰文の印記であるが、中には刀で刻したものがある。陶俑すべてが極彩色だったと言う。かすかに顔料の残っている部分が
	ある。陶俑は焼けこげて色彩がおちたが形はそのまま残り、2千2百年近く地下に埋もれて、現在のような茶褐色になった。
	これをもって、始皇帝の没後4年目(前206)、項羽が入関して、咸陽城を焼き陵を暴いたことの証拠とする声もある。又、
	瓦が人骨とともに、発掘時そのままの状態で展示されている。

 





















 


	陶俑すべてが極彩色だったそうで、かすかに顔料の残っている部分がある。この坑では蓆や木柱が焼けていて、はっきりと火
	災をこうむった後があったそうで、これは、始皇帝の没後4年目(前206)、項羽が入関して、咸陽城を焼き陵を暴いたと
	記録にある、その証拠ではないかと考えられている。陶俑は焼けこげて色彩がおちたが、形はそのまま残り、2千年地下に埋
	もれて、現在のような茶褐色になったのである。

 





 


	秦朝の将兵を模して造られた陶塑(泥人形)群。1号坑から3号坑まで公開されていて、3つの坑の面積の合計は2万平方メー
	トルに及ぶ。兵俑、馬俑は方形の陣形で、実戦の軍陣に基づいて並んでいる。弓や弩を持つもの、長い槍や矛を持つものなど、
	当時の兵士の姿をそのまま映し出したものである。2号坑は車陣、戦車、騎兵、歩兵の4つの兵種の混成で陣容を形成してい
	る。3号坑は戦車1台と衛兵俑64体が置かれ、1・2号坑の軍隊を統率する司令部を表すと考えられている。

 



 
















	始皇帝陵はここから1.5km離れている。この兵馬俑が陵を守る副葬品と言うことであれば、ここから陵までの1.5km
	の間、および南、北、西方面にも、もっと多くの副葬品が埋まっている可能性がある。陵を取り巻く一帯を陵圏とするならば、
	始皇帝陵圏にはまだまだ我々を驚かすようなものが眠っている可能性は大きい。しかし始皇帝陵そのものもまだ発掘されてい
	ないし、今後どんなものが出てくるのか想像もつかない。平城京や浪速宮などと同じく、今まで発掘されたものの整理だけで
	も、あと100年はかかるといわれている現状で、もう今のところ、大発見が相次ぐと対応しきれないという状態らしい。お
	そらく、私が生きている間に、この陵圏の全容が解明されることはないだろう。

	兵馬俑坑では鏃(やじり)をふくめて4万点にのぼる大量の青銅器が出土している。2、200年前のものとは思えないほど
	光沢のある金属面に驚かされる。当時、武器は戦争で人を傷つけるだけのものではなく、権力の象徴でもあった。始皇帝の死
	後、遺体は地下宮殿に収められたが、その鬼神は地上に出て生前と同じ生活を送ると考えられたのだ。












私も青銅器レプリカのみやげを買った。さすがに帰りのカバンは重かった。



秦始皇帝陵では、2005年9月に日本で初公開された石の鎧甲(よろいかぶと)も出土した。









兵馬俑の作り方


	陶製の軍団は鋳造(鋳型に入れて一体まるまる造ってしまう)ではなく、体の部位がそれぞれ個別に造られている。腕・頭部・
	胴体を別々に造って、粘土の帯で繋ぎ、脚部に接続している。目・鼻・口・髪の毛などは丁寧に掘り込まれ、どれ1つとして
	同じものはないと言う。これらの兵馬俑は始皇帝の死後の世界を守る警備兵として作られた、との考えが通説になっているよ
	うだが、それぞれのモデルになっているのは、陵墓造営にかり出された70万人の囚人たちだともいう。

 





今も毎日兵馬俑のレプリカが造られ続けている。できあがった俑陶は、モニュメントとして国内外に送られている。







 


	始皇帝陵圏に埋まっていたのは兵馬俑だけではない。生前の始皇帝に仕えていた様々な人々が、俑として地下世界で生きてい
	た。始皇帝の政治を支えた官僚姿の「文官俑」や様々な技術をもつ芸人姿の「百戯俑」が注目される。始皇帝が中国統一とい
	う大業を成し遂げられたのは、戦車千両、騎兵萬人、歩兵百万余りを持つといわれた巨大な軍事強国だったからであるが、ま
	た多くの文官、農民たちもそれに従っていたのである。


	徐州の兵馬俑 
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	徐州にも西安の兵馬俑博物館とそっくりなところがあり一見の価値ありと言う。徐州市の東にある獅子山で前漢の兵馬俑が発
	見され、その現場をそっくり博物館にした。これも西安とまったく同じ。規模は西安の兵馬俑よりはるかに小さく兵馬俑一体
	の身長は30cmぐらいだそうだ。




	<兵馬俑で物売りにひっかかった話>

	中国旅行記を読むとよく書いてある話である。わたしも事前に同様の手口にひっかかった人の話を読んだことがあって、今回
	それとまったく同じ手口にあってしまった。しかし人の話の場合は、「アホやなぁ。」とか「気ぃつけやー」とぐらいにしか
	思わなかったし、中国人の物売りにしても、どちらかといえばそうまでして売らねばならない貧しさと、その手口の幼稚さに
	幾分同情もしていたのである。しかし今回自分がその目にあって、あれは衆人監視の中で行われる強盗であると思った。

	いきさつはこうである。土でこねた兵馬俑の兵士の像が5ケくらい入った箱を持って、売店の物売りが近寄ってきた。例によ
	ってそ知らぬ顔で通り過ぎるがしつこい。後からの張さんの話では、その像は近所の農民たちが土をこね、型に入れて焼いた
	もので粗悪品だそうだ。男は「1つ100元、100元!」といいながらそばを離れず、駐車場へ向かう我々についてきた。
	途中100元が80元になり、50元になりとうとう10元まで値引いた。兵馬俑の像が5ケ入って140円なら安いかなと
	内心思ったが、それでも「いらん、いらん」と手を振ると、男はどこからかもう1箱だして、「二つで10元」と言い出した。
	あまりにしつこいし、じゃ買うかと思ったが10元がない。となりを歩いていた河原さんに「10元持ってます?」と尋ねた。
	河原さんが財布を出して広げたとたん、その中に手を入れ10元を強引に取ってしまった。無礼さに頭に着たが、早く車へ行
	きたかったので、商品を受け取ろうとすると、1つの箱を開けてその中の像1つを渡そうとする。「ははぁ、これが例の手口
	か」と思ったが、「いやその1つじゃない、その一箱全体だろ。」というゼスチャーをして箱を奪おうとするが離さない。
	「渡せ!」「これ1つ」というやりとりがだいぶん続いて、とうとう駐車場が見えてきた。みんなもどういう事になるのだろ
	うかという顔をしたまま歩いている。いいかげん頭に来て、「もういらん。金返せ」と箱から手を離し、金を戻せと言う身振
	りをしてみせるが、勿論男はしらぬふりをしている。「くそっ」と思ったが140円捨てた気で、「わかった、ほなその一つ
	の像だけでええわ」と、黒塗りの兵馬俑像1つをつかむと、男は「80元、80元」と言い出す。「ほう、そう来たか。」と
	思ったが、わたしも男もつかんだ像を離さない。周りに数人、この男の仲間らしいのも寄ってきて、しきりに男と口調を合わ
	せて「80元、80元」とか「100元、100元」と連呼する。「こいつらぁ」と思い、いっそ男をぶん殴ろうかと思って、
	隣を歩く河原さんに、「ぶん殴ってもええでしょうかね?」と小声でささやくと、河原さんは「いや、やめとき」という。
	「ええぃ、もうええ。」と、10元取られたかとあきらめて像から手を離し、男からも離れ、車の方を向いて歩き出した。

	普通なら、ここで男は10元を手にし、私はアホな物売りにだまされた日本のおっさんで終わる話なのだが、ちょっと様子が
	違っていたのである。男はまだ箱を掲げたまま、私の顔にそれを押しつけて「80元、80元」とか「100元、100元」
	とか言ってついてくる。なんだこいつは。「10元儲かったやろ、とっとと帰れ」と言うが、勿論日本語は通じない。とうと
	う駐車場の車の横まできた。先に行っていた張さんにいきさつを話すと、張さんは男に中国語で何か言ったが、男は張さんを
	手で押しのけて「やかましい!」というような仕草をする。張さんは頭に来たのか携帯でどこかへ電話をかけるが男はかまわ
	ず箱をかかげたまま「100元、100元」を連呼する。みんなは車に乗り込んで、「井上さん、行こ行こ。」と呼ぶ。再び
	張さんが中国語で男に何かどなる。どうやら「警察に電話したからすぐ警官がくるよ」と言うようなことでも言ったのだろう。
	しかし男は全く意に介さない。これはいったいどうしたことだ。この男の意図は何だと、いぶかった。いったい何をどうした
	いのか理解できなかった。おそらく警官はこないし、男もそれを知っている。しかしこの男がどうしたいのか、100元を手
	にするまでは私から離れないとでも決心しているのか、私にはとんと理解できなかった。とことんこいつと向き合って最後に
	はぶん殴りたかったが、張さんも車に乗るし、仕方なく私も男を振り切って車に乗った。

	車がでてからも男はしばらく車のほうを見ていたが、やがてきびすを返して、200mほど離れた物売りテントの方へ帰って
	いった。車中で張さんは、しきりに「申し訳ない、中国の恥です。」とか「兵馬傭の汚点です。」とか言ってわびるし、しば
	らくはみんなにいきさつを説明したりで忙しかった。その後落ち着いたので。車中で今の出来事を考えてみた。男は、おそら
	く、私が手を出してくる(殴ってくる)か、兵馬俑の箱を振り払うか捨てるかして、像が壊れるのを待っていたのではなかろ
	うか。そして弁償を要求し、法外な補償金を勝ち取ろうとかまえていたのかもしれない。そうでも考えなければ男のとった行
	動は理解しがたい。そして男は、いままで何度もそうやって金を稼いできたのではないか。それならあのしつこさと挑戦的な
	行動が理解できる。あの男はそれが生業なのだ。そして同調していた周りの連中も、おそらく同業者だろう。物売りテントの
	中の大半はまともな行商人で、一部にこういう悪徳行商人がいるのだろう。私はあやうくそれに引っかかろうとしたのではな
	いか。車中でこの考えをみんなに話すと、張さんも「そうかもしれないですね」と言っていた。

	男はその顔に知性の輝きは見えなかったし、自分のとっている行動を反省したり分析したりするような人間ではない。直感的
	に言えば「動物」に近い印象だ。目の間に見えているのは獲物だけなのに違いない。そして今の中国に、こういう人間は結構
	いるのだろう。日本も5,60年前にはこういう状態だったのだろうかと考えたが、ちょっと違うような気がする。発祥の地
	インドでも、仏教徒の宗教人口は極めて低いし、今や中国では存在しないとさえ言われる、仏教や儒教や孔子孟子の教えを具
	現化させ、生活の中に実践してきたのは一人日本人だけではないだろうか。この事件でそんな事を考えた。
	

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