Music: think
遙かなる西安 興教寺 2005年9月24日






	
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	興教寺(コウキョウジ)  
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	興教寺は西安から東へ約25km離れた、長安県の小陵原にある。長安城の東南に位置する。近くに樊川を望み、神禾原を
	隔てて、遠く終南山を眺望する高台にあり、あたりには広々とした高粱畑、唐黍畑が続いている。この寺は、高僧玄奘法師
	(三蔵法師)の遺骨を葬っている寺として有名である。唐の第3代皇帝高宗によって、総章2年(669)に建立された。
	墓塔の塔額に、粛宗(在位756〜762)筆の「興教」の2字があるので、興教寺と言われる。到着した頃からパラパラ
	と小雨が降ってきた。乾いた大地には雨は心地よい。



降る雨の中、天然パ−マの狛犬が我々を迎える。





大雄宝殿の本尊「釈迦如来坐像」。この金銅仏像は清代のもの。台座は3種の千体仏でできている。

	
	13歳で出家21歳で受戒した玄奘は、27歳の時煩悶の末、仏法、経典を求めてインドに旅たった。以来苦節17年、西
	域諸国(約5500km)を巡り、経典75部、1335巻を携えて長安に戻り、太宗李世民の大歓迎を受ける。その後、
	弟子たちと経典の翻訳や執筆に打ち込み、唐の麟徳元年(664)に入寂(逝去)した。当時、玄奘の遺骨は西安東郊外の
	東鹿原に埋葬されていたがあまりにもみすぼらしく、見るたびに心を痛めていた高宗皇帝は、総章2年になって樊川少陵原
	のこの地に改葬した。その後、唐の粛宗皇帝李亨がこの寺に参拝した際に「興教」という題字を書いて掲げたので、以来、
	この寺は興教寺と呼ばれるようになった。境内には玄奘三蔵の墓塔を中央に、その高弟の窮基の墓塔と円測(朝鮮人:新羅
	の出身)の墓塔が左右に立っている。二人の高弟の塔は、恩師に会釈するかのように少し前傾しているそうだ。







	
	この寺はこの三基の舎利塔があるため有名で、また、樊川八大寺院としても知られる。当時は境内に立派な塔、殿、堂、楼
	などが建立されて美しい寺だった。しかし唐代の後、伽藍は荒廃し、寺も荒れ果てて放置されていた。しかも清の同治年間
	(1862〜1874)に戦火にかかって焼失してまう。三基の塔を残して他の堂、殿などはすべて焼失した。その際、粛宗の書い
	た「興教」の扁額も焼失した。その後、再度にわたる修理が行われ、清の光緒帝時代の政治家であった「康有為」が書いた、
	「興教寺」の扁額が掲げられて今日に至っている。唐代の建築物としては、慈恩塔院内の3つの塔のみが現存している。



江沢民やシュバイツァーも来たのだろうか? 



中庭は落ち着いた感じで静かだった。霧のような小雨が旅情をかき立てる。西遊記で有名な三蔵法師だが、ここに眠っていたのか。







	
	今日、木立に囲まれた静寂な境内に高さ23mの玄奘舎利塔をはじめ、大雄宝殿、法堂、蔵経楼、慈恩塔院などの伽藍があ
	り、訪れたこの日は霧雨が降っていて、静かで美しい佇まいを見せていた。大雄宝殿には本尊釈迦如来坐像があり、この金
	銅仏像は清代のものだそうで、台座は3種の千体仏でできた珍しいものであるという。また、この中に多くの仏像が祀られ
	ている。法銅の須弥壇には、本尊の前に安置されている高さ30cmの小さな清代の白玉仏がある。釈迦三尊は上下2段が
	あり、上段は明代のもので、この寺で最も古い像である。その2階には、宋代に印刷された一万巻近くの大蔵経などの仏典
	が納められている。 







玄奘三蔵の高弟の「窮基」と「円測」の墓塔。



	
	遺骨が埋葬されている「慈恩塔院内の唐三蔵塔」。塔は高さ35m、5階建ての正方形で、北側には玄奘の生涯が記された、
	「唐三蔵大遍覚法師塔銘並序の碑」がはめ込まれている。仏教の経典作である蔵経、大蔵経、貝葉経も寺内に収められてい
	る。慈恩塔院の中央にある、最も高い5層の塔が玄奘の舎利塔で、左右のものは玄奘の高窺基と円測の墓塔である。いずれ
	も石刻の塔銘と泥塑像がある。









	
	西安の市街地どまんなかにある、鐘楼(しょうろう、鼓楼(ころう)の脇を通って今晩の夕食の店へ行く。でかい料理店に
	はいった。日本からのツアー客も大勢居て、あちこちで日本語が飛び交っていた。日本人の団体は必ず最初に「ビール」と
	注文するのですぐわかる。







	
	今晩の夕食は「餃子定食」。炎はすごいが、中身は何かしょうもない餃子のようなものだった。もっとうまい料理を期待し
	ていたのに残念だった。ツアー二人分くらいの料金を払ってるのになぁと思ったが、これでもごちそうなのかもしれない。



	
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	鐘楼(しょうろう) 西安市城内鐘鼓楼 
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	西安市の中心街からは、東・西・南・北に4つの大通りが走っている。その4つの大街が外から西安へ入ってきて交差する、
	交差点のど真ん中にある木造建築が、この鐘楼である。明の洪武17年(1384)に、現在の西大街の広済街口に建立された。
	明の太祖朱元璋が、西から長安に向かって飛ぶ龍の夢を見て、その龍は巨大なライバルの出現を意味すると占いに出たこと
	から、龍を鎮めるために建てられたという。基台は耐火煉瓦で築かれ、35.5m四方の方形で、高さは8.6m。四面に
	高さ・幅とも6mのアーチ形の通路が通じている。地上から楼頂までの高さは36mである。屋根が三重の構造になってい
	るので外側からみると三階建てだが、中に入ると木造二階建てという構造で、釘を一本も使わず、一本木で建てられている
	のが特徴という。当時は、鼓楼と東西にあい並び建っていたが、万暦10年(1582)に改修し、現在の位置に移された。
	鼓楼とともに、「晨(朝)鐘暮鼓」の言葉通りに、それぞれ時を告げていた。鳴り響く大鐘が朝を告げ、その鐘の音を聴き
	ながら、役人たちは宮廷へ向かったという。現在では、夜になると美しくライトアップされ、訪れる人々を楽しませている。
	この裏にある料理屋で、今晩の夕食「餃子定食」を食べた。
 


	
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	鼓楼(ころう) 西安市西大街北院南端
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	太鼓の音が響き渡る、鐘楼と並ぶもうひとつのシンボルが鼓楼である。西安市西大街の北側にあり、市の中心部から西北に
	300m。鐘楼の西側に立つ、もうひとつの古代木造建築物である。夕方になると大きな太鼓を叩いて時刻を知らせたこと
	から、鼓楼と名づけられた。同じく明代、鐘楼に先立つ4年前の洪武13年(1380)に建てられた、高さ34m、面積19
	平方mの堂々たる建物である。楼閣を支える基台は青い耐火煉瓦で築かれ、幅38m、奥行き52.6m、高さ7.7mで
	ある。数回の地震を経験しても形が崩れなかったという。鐘楼と違ってこちらは南北のみに、高さ・幅とも同じく6mのア
	ーチ形通路がある。楼閣は長方形で、表から見れば三階建てに見えるところは鐘楼と同じである。内部は重縁式の二階建て
	で、周りには回廊があり、美しい金張りと色彩絵で飾られているそうだ。中には、買い物ができるshopもあるという。
	清の康煕13年(1674)と乾隆5年(1740)に改修されたが、楼身は建立時の特徴をそのまま留めていて、現在、陜西省の
	重要文化財産に指定されている。



ライトアップが美しい、街の重要建築物。


	
	食事の後は、今夜もカラオケになった。今夜は宿泊しているホテルの別棟にある、同じようなカラオケ店だった。昨夜と
	違って今夜は5人とも日本語がペラペラだった。モンゴル系、上海系と中国のあちこちから来た女の子たちで、若いのに
	日本語は結構うまくてたいしたものである。私のそばについた女の子はピーター似の陽気な子だったが、あちこち触って
	くるのには参った。「xxx頂戴。」とかいうような言葉を知っているということは、もうさんざんそういうことをした
	日本人がいるということだろう。複雑な思いがした。

	夜もツアーのほうが時間はつぶせる。ツアーだと雑技団や京劇などの観劇がコースに入っていて、2,3時間はすごせる。
	われわれは男ばかり6人なので、あえてそういうスケジュールははずしてあるのだろうか。だとしたら旅行社はもうかっ
	たやろなぁ。






2005.10.25 薬師寺「玄奘三蔵院」



	
	奈良の薬師寺に「玄奘三蔵院」げんじょうさんぞういん)という建物がある。西ノ京の、薬師寺本伽藍から北へ少し離れ
	た所に、高僧玄奘三蔵を祀った院がある。孫悟空物語のモデルと言われる玄奘三蔵は、隋の時代(602年)に生まれ、
	僧となり研鑽するも教義に多くの疑義を持ち、国(当時唐)の禁を犯し苦難の旅の末、天竺(インド)に渡り、当地で教
	義の原典に接し、唯識論等の奥義を窮め17年後に帰国。一転、唐の帝の大歓迎を受け、持ち帰った原典の翻訳に余生を
	捧げた。今、宗派を超え広く唱えられている般若心経も玄奘三蔵の訳した経典の一つである。玄奘塔には、玄奘三蔵の遺
	骨が真身舎利として安置され、須弥壇には玄奘三蔵訳経像が祀られている。ちなみに、玄奘の死後遺骨の一部は日本にも
	運ばれ、現在岩槻市の慈恩寺(境内ではなく近くの丘)と薬師寺にある。
 






	
	玄奘は陳家の四人兄弟の末子で、彼が10歳のときに父が亡くなり、翌年洛陽に出て出家していた次兄のもとに引き取ら
	れた。13歳のときに僧に選ばれ、法名を玄奘といった。25,6歳ころまで、仏法と高僧の教えを求めて、中国各地を
	巡歴した。修行が深まるにつれて教えに疑念を懐き、漢訳経典にその答えを求めるが、各地の高僧名僧も異なる自説をふ
	りまわして、玄装の疑問を解くにはいたらなかった。このうえは、天竺におもむき、教義の原典に接し、かの地の高僧論
	師に直接の解義を得るしかほかに途はないと思い立ったのである。当時、唐は鎖国政策をとっており、他国への出入りを
	禁止していた。何度も嘆願書を出したが許可されず、ついに玄奘は決心して、貞観3年(629)27歳のとき、国禁を
	犯して出国する。そして、苦難の旅の末17年後の貞観19年(645)に長安へ戻ってきた。この年は、日本では、中
	大兄皇子(天智天皇)が中臣鎌足らと謀って、蘇我蝦夷・入鹿親子を減ぼした「大化の改新」の年にあたる。



	
	玄奘のインド・西域求法の旅は、通過した国が128国、歩行距離は実に3万キロに及ぶ、壮大な紀行であった。玄奘は
	帰国のとき44歳になっていた。密出国の出発時と違って、彼の帰還は時の唐の帝・太宗の大歓迎を受ける。太宗は、国
	境近くまで出迎えの使者を出すほどであった。自らで迎えたという説もあるほどだ。玄奘は帰国後、持ち帰った仏典の翻
	訳に残りの生涯を賭ける。皇帝からは政事に参画することを求められたが、仏典漢訳に余生を集中することの理解をえて、
	翻訳事業に対して帝の全面的な支援を受けている。玄奘の翻訳方針はそれまでとは異なり、あまり意訳しないところに特
	徴があるといわれる。インドから経典を運んだ僧侶はたくさんいて、名前が明確な人だけでも150人程といわれている
	が、玄奘三蔵法師は質、量ともに記録的なものである。また経典のみならず、旅行中に記録した地理のようすや風俗、天
	文、数学、医学的な分野のものまで含まれている。



	
	いまでは、三蔵法師といえば玄奘三蔵のことを指すようになっているが、もともとは釈迦の教えの「経」、仏教者の守る
	べき戒律の「律」、経と律を研究した「論」の三つを究めた僧を三蔵といい、普通名詞なのである。したがって大勢の三
	蔵法師がいたが、なかでも玄奘はきわめて優れていたので、三蔵法師といえば玄奘のこととなった。
	麟徳元年(664)に、玄奘三蔵は62歳で没するが、訳業19年、死の間際まで漢訳への翻訳に打ちこんだが、それでも、
	持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったという。西安市の大慈恩寺に大雁塔が建てられ、ここに完成した翻訳本が
	納められたが、唐が滅びてからは、戦乱等で散逸してしまっている。







	
	玄奘三蔵の最も究めたかった事は、「瑜伽唯識[ゆがゆいしき]」の教えだった。その教えの流れを継承している宗派が
	法相宗[ほっそうしゅう]である。現在、薬師寺と興福寺が法相宗の大本山で、玄奘三蔵は法相宗の始祖に当たる。昭和
	17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が、土中から玄奘三蔵の頂骨を発見した。その一部が昭和19年(1944)
	に全日本仏教会にも分骨されたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市の慈恩寺に奉安され、その後頂骨を祀る石塔が建てら
	れた。薬師寺も、玄奘の遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)に分骨を拝受し、平成3年(1991)玄
	奘三蔵院伽藍を建立した。



	
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	玄奘三蔵像
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	玄奘三蔵院の玄奘塔に祀られている玄奘三蔵像は、大川逞一仏師の手によって作成されたもの。右手には筆を、左手には
	貝葉(インドのお経)を手にしており、天竺からの帰国後、経典の翻訳作業中の玄奘三蔵の姿をモデルにしたものとされ
	る。
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	ここ玄奘三蔵院には、日本画壇の重鎮である平山郁夫による大壁画がある。平成12年12月31日に完成した。画伯は
	30年をかけて唐西域壁画と248枚の天井絵を描き奉納した。高さ2.2m、長さ49mの大壁画が納入されている。
	この壁画を 納入する為に、平成3年に建立された大唐西域壁画殿の天井は、75cm角の天井板 が248枚ならぶ格天
	井になっているが、この天井もすべて画伯の手による彩色が施されている。一般公開は期間を限定して(春・秋の2回)
	行われる。平成17年度の公開日程は、次のとおり。

     一般公開    春季 3月20日(祝)〜6月15日(水)
             秋季 9月16日(金)〜11月25日(金) 午前9時〜午後4時 
     一般公開以外  毎月5日の玄奘会(正午より午後2時)

	西安でわれわれは見なかったが「大雁塔」の絵もあった。玄奘三蔵の長安からインドへの求法の行程が描かれた壮大なも
	のでなかなか見ごたえがある。







	
	平山郁夫(ひらやま・いくお
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	広島県・生口島生まれ。15歳で被爆。前・東京芸術大学学長。世界の文化財の保存・修復を図る「世界文化財赤十字構
	想」を提唱し、私財を投じている。
	










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