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会津武家屋敷 2005.4.2(土)福島県会津若松市







	戊辰戦争で消失した武家屋敷のうち、家老西郷頼母邸を復元した観光スポット。復元された西郷頼母邸は約400坪の面
	積、35室におよぶ宏大な邸宅で昔をしのばせる。他にも旧中畑陣屋、茶室麟閣を再現した茶室領南庵や、坂本龍馬を暗
	殺した張本人ではないかとされている佐々木只三郎の墓などがある。






	ここは会津藩の家老だった西郷頼母(たのも)の屋敷を復元してあるが、もともとここにあったのではない。武家屋敷
	は若松城の周辺に固まっていて、頼母の屋敷もその中にあったらしいが、城の周辺は戊辰戦争で焼けてしまったので、
	松平家の墓所があるこの山麓に、焼け残っていた家屋を移築して復元したものらしい。しかし850円の入場料は高い。










	<西郷頼母(さいごう たのも)>  天保元年〜明治38年(1830〜1903)

	33歳で会津藩家老職に就任。田中土佐と共に、会津藩主松平容保に京都守護職辞退を進言。戊辰戦争では和議恭順を唱
	え抗戦派に命を狙われ城下を脱出。のち箱館戦争に参加する。降伏後は館林藩に幽閉。赦免後明治4年伊豆松崎に行き、
	郷学謹申学舎塾長を務めた。3年後福島に戻り棚倉の都々古別神社宮司となったが、西南の役を起こした西郷隆盛との交
	流がきっかけで解雇。以後日光東照宮禰宜職などを経て明治36年若松で没する。


















西郷頼母は容保の京都守護職就任には反対して、会津を潰す気かと京都にも陳情に行くが容保に謹慎を言い渡される。



 

 


	<西郷四郎(さいごう しろう)>  慶応2年〜大正11年(1866〜1922)

	柔術会津藩士志田貞二郎の三男。三歳の時戊辰戦争が起こり一家は若松から津川に移住し、そこで成人した。明治15年
	上京、下谷永昌寺の講道館に入門し、近代柔道の礎を築く。その間西郷頼母の養子となるが、実子だという説もある。
	小兵ながら山嵐の大業をあみ出し小説「姿三四郎」のモデルとなる。明治23年講道館を去り、後に長崎で「東洋日の出
	新聞」同人、長崎遊泳協会創設者として大きな功績を残した。大正11年に尾道で病没した。



これが家老屋敷の表玄関先。さすがに格式がある。















長屋の内部は小さな資料館になっており、会津藩、西郷家ゆかりの品々が並べられている。







 























どういう訳だか、縄文土偶や弥生土器もある。会津の歴史を説明しようとしているのか。








	●「古事記」に記された四道将軍の記事

	崇神天皇が地方平定の為4人の将軍を各地に使わしたが、そのうち大彦命(おおひこのみこと)は北陸から会津にま
	わり、その子の武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)は太平洋からまわって会津にはいった。二人がこの地で出
	会ったことから「アイヅ」という地名がおこったという。この話は神話であり、当然そのまま史実ととらえる事はで
	きないが、4世紀末には大和朝廷の力が会津にも及んでいたとする見方の有力な根拠になっている。
 


 


	<佐々木只三郎(ささき たださぶろう)> 天保4年〜明治元年(1833〜1868)

	会津藩士佐々木源八の三男として会津若松に生れる。27歳の時幕臣佐々木矢太夫の養子となると、幕府講武所にて剣術
	方師範役に任ぜらたほどの剣豪であった。攘夷派と通じた清川八郎暗殺、新選組結成に係わった。京都見廻組が結成さ
	れるとその隊長として新選組と共に京都の治安維持に努めた。のち薩長同盟の仲介役となった坂本龍馬暗殺を指揮し近
	江屋での殺害に関与したと言われている。慶応4年の鳥羽伏見の戦いに参戦し被弾して負傷、和歌山の紀三井寺まで落
	ち延びたがそこで没した。墓は紀三井寺にあったが近年会津若松市の武家屋敷に移された。 
 
 



西郷頼母は晩年を会津の長原地区で過ごした。










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