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会津白虎隊・飯盛山 2005.4.2(土)福島県会津若松市







	会津と言えば戊辰戦争、と言うほど会津が全国に知られているのは、ここが、日本最後の内戦である幕末の戊辰戦争の舞台
	になったからであり、その際に10代の若者達が切腹して果てた「白虎隊」の悲劇があるからである。後に誤解だったこと
	が分かるのだが、城から上がる煙をみて落城と思った若者達が、「もはやこれまで」と死に急いだ悲劇は、いかに封建社会
	の出来事とはいえ、その若さゆえに現代でも涙を誘う。
	黒船来襲に端を発した幕末の動乱期。戊辰戦争は1868年・鳥羽伏見の戦いから始まった日本最後の内戦で、旧幕府軍と薩長
	を中心とした新政府軍が激しく戦った戦(いくさ)であった。会津は旧幕府軍として最後まで抵抗したが、最後には降伏す
	ることになる。













 

飯盛山の両側には土産物屋が立ち並ぶ。




	嘉永5年(1852)会津藩8代藩主容敬が死去し、養子容保が9代目藩主となった。文久2年(1862)8月に容保は京都守護
	職を命じられ、家老西郷頼母、田中土佐らはその就任に反対したが、結局容保は幕府の命ずるままに守護職を引き受ける。
	ここで会津が幕府を見限り、新政府側に同調していればという見方もあるが、幕藩体制の中で頑なに武士の魂を磨いてきた
	会津藩には、それは無理な相談だった。




	9代藩主の松平容保は、美濃国高須藩主の6男として生まれた。8代藩主容敬に男子のなかったことから、12歳で養嗣子
	に迎えられ、嘉永5年(1852)18歳で藩主になった。当時の会津藩は、田中玄宰(土佐)による実学尊重の精神が藩祖正
	之以来の保守的な学風へもどりつつあり、正之の残した家訓の第1条「大君の義 一心大切に忠勤に存ずべく」とある徳川
	本家への忠誠心は不可侵のものになっていたのである。このような家風に押されて、12月に容保は江戸を出発し、晦日近
	くには京都に着いて黒谷に陣を構えた。
	それまでにも会津藩は数々の幕命を受けてきた。名家老田中玄宰の藩政改革によって経済改革を成し遂げた会津藩は、幕末
	の動乱期における幕藩体制の主要な担い手だったのである。最初は北辺警備で、ロシア侵攻に備えるため樺太、蝦夷地に出
	兵し、ついで江戸湾の警備にあたり、黒船に備えて房総半島、三浦半島、品川沖に砲台を築いた。そして容保の京都守護職
	就任だった。



白虎隊ただ一人の生き残り、飯沼貞吉翁を紹介した説明版。

 






	幕府は尊皇攘夷派が横行する京都の状況に手を焼き、会津藩を京都守護職とした。有名な新撰組もこの会津藩の庇護の元、
	京都の治安維持に努めたのである。文久2年(1862)容保が千名の精鋭を引き連れて、京都黒谷の金戒光明寺に本陣を構え
	た後、容保の実弟で、桑名松平家11万石(三重県)を継いだ定敬が京都所司代を命じられた。京都は、会桑両藩の兄弟に
	よる治安維持がはじまったが、兄弟は尊重攘夷派の恨みを一身に受けることになった。そんな中、容保は生来の謹直さから
	孝明天皇の厚い信任をうけるようになる。そして容保は「公武合体」の夢へ突き進むが、慶応2年(1866)孝明天皇の急逝
	により、一転して悲劇の道を進むことになるのである。






 


	元治元年(1864)7月19日未明、尊王攘夷派 の京都での勢力を盛り返そうと伏見を発した長州兵と、伏見近辺の守備に
	ついていた大垣藩兵が銃火をまじえ「禁門の変」が勃発する。その大最激戦地だったのが蛤御門(はまぐりごもん)で、と
	くにこの戦いは「蛤御門の変」と呼ばれている。

	伏見での大垣藩と長州勢の戦闘の情報が朝廷に届き、京都御所の九つの門は全て閉じられ、守護職会津藩・所司代桑名藩を
	始めとする諸藩の兵が戦闘配置についた。長州勢との戦闘はこの御門をめぐる攻防となった。禁裏御守衛総督で、徳川幕府
	第15代将軍の慶喜は、公卿からの和睦の提議を退け、会津・桑名に命じて、長州勢の潜伏する鷹司邸ほかの諸邸に放火さ
	せた。長州勢は火から逃れ出るところを諸藩の兵に追撃され、多数の死傷者を出して敗走した。この時鷹司邸にいた長州の
	久坂義助(玄瑞)・寺島忠三郎は逃れきれないものと自刃した。
	火は折からの北風にあおられて,南へ拡大。晴天続きで乾燥状態にあった京都の町は,たちまち火の海となった。堀川と鴨
	川の間、一条通と七条通の間の3分の2が焼き尽くされた。この戦いはわずか一日で終わったが、戦火は三日に渡って燃え
	続け、その被害は、町家家屋4万2千、土蔵1500、寺社塔頭480、武家屋敷600に及んだといわれる。

	この時新選組は九条河原に陣を置いていたが、最初伏見に向かったが既に戦闘が終了しており、次に蛤御門に向かうとそち
	らでも戦いは終わっていた。鷹司邸を攻撃したのは会津の坂本隊や彦根兵で、鷹司邸から敗走する長州兵を追撃したのも彦
	根兵だった。






	慶応3年(1867)11月、薩長両藩を中心とする倒幕派が攻勢に転じると、15代将軍慶喜は大政奉還し、徳川家を中心
	とする天皇親政を目指す。しかし倒幕派の策に敗れ、それが実現しないとわかると一転して大坂より兵を進め、慶応4年
	(1868)1月3日、鳥羽伏見で「戊辰戦争」が火蓋を切った。だが、戦意にあふれ兵装を近代化した新政府軍の前に幕軍は
	大敗し、徳川慶喜は大坂に幕軍を残して一人海路で江戸へ逃げ帰る。鳥羽伏見の戦いを制した倒幕軍は、東へ向かう。
	そして有名な、西郷隆盛と勝海舟との江戸開城によって、遂にここに、徳川三百年の歴史は終わりを告げた。




	弟定敬ともども朝敵の筆頭にあげられた容保にとって、これからが悪夢のはじまりだった。容保は会津に帰って謹慎して
	いたが、主戦派に後押しされた容保は、恭順を主張する家老神保修理を切腹させ、軍制を改革して、朱雀・青龍・玄武・
	白虎の諸隊を設け、洋式銃を買い集めるなど、来るべき新政府軍との戦いに備えはじめた。奥羽越の諸藩と5月には奥羽
	越列藩同盟が成立して、新潟から東北にかけての諸藩は、新政府軍との武力衝突をはじめたのである。
	初戦では新政府軍の兵力不足もあって列藩同盟は善戦するが、越後長岡城(新潟県)や二本松城の落城のころから戦雲は急
	速に傾き、8月20日には新政府軍に会津攻撃の勅命が下った。福島へ通じる街道の母成峠から会津に侵入してきた新政
	府軍は、白虎隊などの予備兵の抵抗を蹴散らし、8月23日には鶴ヶ城を囲んだ。この時、白虎隊士中二番隊や西郷頼母
	一族の自刃など、幾多の悲劇が生まれた。




	孤立無援の中で容保は籠城した。蒲生氏郷が築き、加藤明成が改修した鶴ヶ城はさすがに名城で、1ヶ月にもおよぶ戦闘
	に耐え続けた。しかし、援軍も見込まれない中、昼夜に及ぶ砲撃にさらされ、ついに9月22日、容保は降伏を決意する。
	この日容保父子は、三千の家臣に別れを告げ、妙国寺で謹慎した。藩主以下の将兵は、猪苗代や塩川などに謹慎して敗戦
	処理を待った。その結果、家老萱野権兵衛の切腹によって会津松平家の断絶はまぬがれ、容保の子容大に斗南藩3万石
	(青森県東北部)が与えられた。北辺の酷烈な地を目指し、山川浩をはじめとする沢山の会津藩士とその家族が会津を去
	っていった。



ここからが白虎隊の話となる。当時、会津藩の男子は、10歳になると藩校・日新館に入学するきまりになっていた。






	日新館は寛政11年(1799)4月から5年の歳月を費やして文化元年(1804)に完成した、当時としては立派な学校で、
	鶴ヶ城の西側にあった。内部は、孔子をまつった大成殿を中心として素読所、講釈所をはじめ、多くの校舎が並び、また
	天文台、開版方と呼ばれた印刷出版所、文庫、水練場まであるという、全国でもまれにみる学校であった。








	6歳から9歳までの子供達は 別組みとして集まり、「お話の什(じゅう)」または「あそびの什(じゅう)」といわれていた。
	会津武士の子としての心がまえを学び、「お話」が終わると「遊び」の時間がもうけられていた。「ならぬことは ならぬもの
	です」という言葉は有名である。  




















	日新館は後に諸藩から「会津の日新館にしくものなし」と言われた。優秀な生徒は、卒業すると藩から江戸や長崎へ留学できた
	ので、生徒は競って学問に励んだと言う。会津藩が青少年教育にいかに熱心であったかが分かるが、同じような状況は九州の佐
	賀藩にも言える。設備は日新館ほどではなかったが、生徒の猛勉強振りは世間に知れ渡っていて、優秀な生徒が多かった。








	しかし幕末、佐賀藩は薩長土肥の一端を担い、多くの優秀な藩士達が明治の重鎮となっていったのに対し、会津藩士の多くは、
	辺境の地・斗南藩で果てた。官軍と賊軍の立場によって、同じように学んだ生徒達の命運はおおきく別れたのである。  



今でも会津には上のような看板が立っている。


	さて白虎隊であるが、

	慶応4年(1868)4月の大政奉還後に新政府軍は、会津藩をはじめとする東北各藩の連合を許さず、会津討伐の勅命をも
	って会津へ大軍を進めて来た。会津は幕府側の最大の勢力と見なされていたので、新政府にとってはその存続はとうてい
	容認できるものではなかったのである。ここに至り、会津藩も新政府軍との戦いを決断せざるを得なかった。
	会津藩では、鳥羽伏見の戦いの反省から、前述したように軍制の改革にとりかかっていた。いままでの古い戦法を新しく
	フランス式に直し、精神論ではなくあくまで戦力に重きをおいて、次のように年齢によって組織を改め、武器や弾薬の買
	い入れにも力を注いでいた。

	

	1、玄武隊(げんぶたい):50歳以上
	1、青龍隊(せいりゅうたい):49歳以下、36歳まで
	1、朱雀隊(すざくたい):35歳以下、18歳まで
	1、白虎隊(びゃっこたい):17歳以下15歳まで※のちに16歳まで
	他に、幼少組:15歳、14歳)

	

	

	当然最強は朱雀隊である。これを主力として第1線に配置し、それに続く青龍隊に国境を護らせ、玄武隊、白虎隊、幼少
	隊は その予備に廻るという布陣であった。しかし2万人に満たない兵力では、14万と言われる新政府軍を相手に当然
	勝ち目はなかった。
	白虎隊は予備兵であったが、実際の戦闘に駆り出される予定はなかった。しかし彼らは閉鎖された学校の代わりに軍事教
	練を続け、自らも戦いたいという出陣の嘆願書を家老にさしだしていた。戦闘が激しさを増してきた8月になると、白虎
	隊は、学校奉行の手から軍事奉行の監督下に移り、今までの後備えの部隊から戦闘部隊に属すことになった。



2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」の主人公、山本(新島)八重は会津藩での鉄砲の名手であった。







	8月には新政府軍は、白河口、日光口、越後口、二本松口と会津の国境に迫った。二本松城を攻め落とした新政府軍は、
	8月20日、会津軍の一番手薄な磐梯熱海から石筵を通って母成峠(ぼなりとうげ)にかかる石筵口(いしむしろぐち)
	を3000人に近い兵力で攻めた。守っていた会津兵は僅かに6〜700名で到底防げるものではなかった。

	母成峠が敗られたという報告が鶴ヶ城に入ったのは21日の早朝だった。老人と少年たちしか残っていない城中の驚きは
	大変なものであったが、しかしすぐに対抗策が練られ、22日朝、士中白虎隊二番中隊に、藩主に従って出陣するという
	回文が回った。母成峠を越えた新政府軍は、一斉に会津領内へなだれ込み、22日には早くも猪苗代城を陥れ、息もつか
	ず鶴ヶ城に迫って来た。第1の防御地点としては、猪苗代湖から流れる出る日橋川に架けられた十六橋を落として新政府
	軍をくいとめなければならない。早朝から石橋を壊しにかかったが、壊し終わらないうちに新政府軍は東岸の戸の口集落
	まで迫った為、ついにそこは放棄して夕やみの中、戸の口原まで退いた。
	白虎隊の少年たちは22日の午後、主君に従って城下町の北東にある滝沢本陣に着いたが、やがて先に戸の口に向かった
	一隊から本陣へ援兵の要請が来た。しかし本陣には白虎隊の少年たちの他にはもはや一兵も残っていなかった。
	こうして、白虎隊の悲劇が始まった。少年たちは戦場に出発したのである。

 

 

  







ウォーナー博士は会津も救っていたのか。京都奈良だけかと思っていた。




	主君に別れを告げ、少年たちは、滝沢峠を登って行った。朝から雨模様の空は本降りとなり、風もでてきて遠慮なく少年
	達の顔に吹き付ける。ぬかるみの中を戸の口原の陣地についたのは、午後5時を過ぎていた。廻りは暗く、時折遠方から
	銃声がきこえてくる。陣地では食事の炊き出しが行われていた。さっそく少年たちもこの大きな握り飯を食べたが、この
	握りめしが少年たちにとっては最後の晩餐となった。  
	まんじりともしない夜がふけ、明け方、俄かに大砲が轟き、激しい銃声が聞こえた。すでに夜は明けかかっていた。班隊
	頭・原田克吉の指揮の元、白虎隊は銃声をたよりに苗代街道をまっすぐ進んで、道の南にある小高い丘に陣をとった。
	原田は少年7名とともに探索のため戸の口村にでかけた。
	まもなく、流れる霧の間から猪苗代街道を会津城下へ進む人馬の姿が見えてきた。新政府軍である。少年たちは木の繁み
	に隠れて散開した。白虎隊は一斉に射撃を開始した。新政府軍も激しく応戦した。次第に、数多い新政府軍の銃火に押さ
	れ、倒れる者も出てきた。包囲網を狭められる危機から逃れるため、篠田少年は隊長にか代わって退却の命令をくだした。




	少年たちは負傷者を支えながら広い湿地帯に入った。いつのまにか総員ばらばらになったが、それでも篠田少年の廻りに
	は20人ちかくの隊士が一団となって固まっていた。少年たちは崖をよじのぼり、谷間を下り、追われるようにして戦場
	から退いていった。新政府軍を避けながら新堀の洞門をくぐり抜け、やっとのことで飯盛山の中腹にある、厳島神社の境
	内までたどりつきた。いつか雨も止み雲の切れ間から日の光がもれていた。











 







 









 







写真左中央の木立の中に鶴ケ城が見えている。白虎隊の少年達もこの光景を見たのである。











城を仰ぎ見る少年の姿の銅像のようだったが、修復のためかビニール袋がかぶせてあった。





上が修復後の少年像。




	城の方からはまだ盛んに砲声がきこえて来る。篠田少年は皆が揃うのを待って、疲れた足をひきずりながら、新堀に沿っ
	て歩いた。飯盛山の中腹に松林があり、見晴らしのきく場所で少年たちは身を休めた。始めて経験する凄まじい戦闘と、
	敗走、睡眠不足と少年たちは疲れ切っていた。






	そして、高台からみた鶴ヶ城は黒い煙につつまれ、五層の天守閣の白壁には赤い炎が燃えさかっているようにみえた。
	また、火の海となった城下からは、絶え間なく砲声と銃声がとどろいている。少年たちは予想もしなかった光景に息をの
	んだ。命とたのむ鶴ヶ城ももはや落城している。しばらくの談合の後、敵の手に掛かることを拒み、最後まで会津の武士
	らしくあろうとした少年たちは、遥かに鶴ケ城を臨むと姿勢を正し、一礼してから次々に自刃した。










	自決した飯沼少年は、死にきれずにいる所を、通りかかった別隊の者に見つけられ手当された。そして城はまだ落ちてい
	ないと告げられるのである。生還した彼は明治政府に仕え、通信技師としての一生を全うした。白虎隊の話は、生還した
	彼によって世間に知られる事となった。




	何時の世も、夭折する若者の姿は痛ましい。16,7才という年齢を考えたとき、どうしても今の日本と対比してしま
	う。勿論、封建時代のお家大事という考えは否定されるが、しかし日本の教育は今のままでいいのかと、こういう場所
	に来ると強く考えてしまう。人間には時代を超えて、距離を超えて、何か大事なものがあるのではないか。それを今、
	我々はどんどん捨て去っているような気がして仕方がない。




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