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会津・大塚山古墳 2005.4.2(土)福島県会津若松市








 

 


	飯盛山の白虎隊士の墓の前で、地元のおじさん二人と知り合った。話しかけたら色々と教えてくれて、私が大坂から
	来たというと、興味を持ったのか一緒に滝沢本陣も案内してくれて、次は何処に行くのかと聞くので大塚山古墳だと
	言うと、「歩いて10分位だけど、一緒に案内してあげよう。」とここまで連れてきてくれた。古墳は、飯盛山から
	歩き出すとすぐ、遠くに小さく見えている。歩いている道の途中に「墓料」の集落があった。「墓料遺跡」のあった
	ところだ。二人は散歩が日課のようで、日によってコースを決めて歩いているようだった。歩きながら会津の町につ
	いて色々教えてくれた。おじさん達、ありがとうございました。





	古墳の東側一帯は今墓園になっている。古墳からすぐの所に一箕(いっき)公民館があり、そのなかの市民センター
	の一画に、墓料(ぼりょう)遺跡から出た出土物の一部が陳列してあると、会津若松市教育委員会の金子さんから電
	話で聞いていたので寄ってみた。入り口すぐのガラスケースのなかに土器が陳列してあった。対応してくれたおじさ
	んに大塚山古墳への昇り道を聞いたら、「墓園の中をまっすぐ横切って昇っていくんだけど、相当あるよ。」と言わ
	れて若干ビビった。しかし、ここまで来たのだからと勇んで歩き出したが、昇ってみれば大した事はなかった。


墓園のなかをまっすぐ昇っていくと後円部の端に出る。













 



石棺の蓋らしき石造物が墳頂に置いてある。



 





上3枚の写真は、宮城県多賀城市の「東北歴史博物館」にある、この古墳の木棺の模型である。










	ここから見ると、確かにこの古墳が前方後円墳なのが分かる。大きさと言い、出土物の豊富さと言い、ここに葬られ
	た人物は相当な権力者だったことも分かる。冒頭の写真で見たように、ここにこれだけの古墳群があると言うことは、
	このあたりは、渡来してきた古墳時代人たちが東へ東へ進んできた、最終的な到達点だったのかもしれない。解説で
	は、この近くの堂ケ作山古墳群が4世紀中頃の築造と考えられ、初期大和朝廷の勢力拡大の時期であるとなっている
	ので、あるいは大和政権下の勢力による領土拡大の一翼を担った人々の墓なのだろうか。「会津」という地名の興り
	も、中央から派遣された四道将軍の故事に基づくとされている。
	しかし私見では、4,5世紀というのはまだ大和朝廷は完全には成立していなかったと考えるので、ここへ来た人々
	は渡来してきた古墳時代人、或いはその子孫なのではないだろうか。機会さえ在れば天皇にもなれる勢力を持ってい
	たかもしれない。しかしやがては、統一なった近畿の天皇家の支配下におかれ、その系統に組み込まれていったのだ
	ろうと思われる。










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