Sound: 討ち入り前夜
赤穂城址
2004.5.1
2001年12月15日、歴史倶楽部の例会で赤穂に行った。そのときは帰りに神戸でルミナリエを見るために焦って
いて、その時既に赤穂城本丸跡がいくらか復元されていたのに気づかず、ここを見忘れたままだった。それが心残りで、
いつか必ず見に来るぞと決心して2年半が過ぎ、今回の連休でやっと再訪問できた。
播州赤穂までは結構遠い。姫路で乗り換え、相生(あいおい)で乗り換え、2時間位かかってやっと附く。
赤穂駅の中から見た駅前広場。
大石内蔵助や浅野内匠頭の辞世の句、仮名手本忠臣蔵の47士像なども健在だった。
赤穂藩は成立当初より上水道を完備し、整然とした町屋が造られたがこの古い町並みは今も良く残されている。
花岳寺からまっすぐ行って、掘に掛かる最初の門は、城跡に通じる門ではなく、大石内蔵助の屋敷跡(大石神社)に通
じる門である。城跡は大石神社より更に左手奥へ歩く。外堀もあり、その周辺も発掘作業中で、やがて、浅野時代の往
事の姿がそのまま蘇る事だろう。赤穂城跡地は石垣で四方を囲まれており、内部は、当時の建物跡が、コンクリートの
床に区分けされている。庭園・天守台も復元されており、縁側に座って庭園を眺めるのも落ち着くし、天守台からも眺
めも抜群である。赤穂城跡は、まだまだ復元段階であり、城跡周辺の発掘が全て終了した段階で、この城の全貌も明ら
かになるのだろう。
赤穂市立歴史郷土館の土蔵風建物が遠くに見える。前回はここを見て本丸跡を見逃したのだ。
<赤穂城址>
赤穂浅野家の藩祖長直が、慶安元年(1648)から13年の歳月を費やして築城した、近世城郭史上非常に珍しい変形輪
郭式の海岸平城である。赤穂の海に突き出した砂浜の海岸に作られた海城で、星型の敷地を持つ本丸を中心に二ノ丸・
三ノ丸が周囲を囲む変形輪郭式の縄張りとなっている。二ノ丸は直接海岸に面しており、満潮時には石垣が海水に接し
ていた。
浅野長直が常陸国(茨城県)笠間から正保2年(1645)、5万3500石で赤穂へ転封された当時、徳川幕府成立から
50年近い歳月が過ぎ、武家諸法度により新城建設は禁じられていたが、特例として幕府から赤穂城建築が許可された。
基本設計は甲州流軍学者の近藤正純が行ったが、5年後の承応2年からは、当時の軍学の権威であった山鹿素行(やま
がそこう)が築城に参加した。長直の孫長矩のとき、忠臣蔵で有名な、殿中刃傷事件が起こり浅野氏は改易となる。
浅野家断絶後は、永井家、森家の藩主の居城となり、現在、石垣、大手門や隅櫓のほか、本丸門が平成8年に復元され、
順次整備が進められている。
周りはまだずいぶんと発掘調査中だった。赤穂市は、浅野時代の城の全体を復元するつもりのようである。
発掘現場のタンポポ。久しぶりに沢山のタンポポを見た。
浅野城は、赤穂藩士達がお家再興のために開城した後、永井家が3万3000石で入封する。その後宝永3年(1706)
には永井家に代わり森家が2万石で赤穂城に入る。森家は備中西江原からの転封で、以後160年は森家の城として明
治を迎えた。維新後は廃城となり、城郭建造物は全て破却されてしまったが、三ノ丸武家屋敷地域には大石良雄邸の長
屋門と近藤源八邸の長屋遺構が残されている。大石邸長屋門は国指定史跡、近藤邸長屋は赤穂市指定文化財になってい
る。
「一打ち、二打ち、三流れ・・・」(だったかな?)という「山鹿流の陣太鼓」は、山鹿素行が伝えたのか。
<本丸門>
石垣に囲まれた本丸門は復元整備工事が完了し、真新しい本丸門として蘇っている。しかし新しすぎて、忠臣蔵の苦渋
に満ちた赤穂藩士達の思いは全くこもっていない気がして、少し寂しい気もする。
<本丸御殿跡>
台座のみがコンクリートで復元され、そこに間取りが細かく記入されている。復元は永井家時代の図面を元にしている
という。
天守台からみた庭園内の全景。今は空間が多くて見応えがあるが、元禄当時はここに建物がひしめいていたのだ。
天守台の上。綺麗なお姉さんが一人じゃないか、と思ったら、下で彼氏が手を振っていた。
今発掘中の場所は、やがてこのような庭園になる。また新たな観光資源の誕生だ。
三の丸にある大石神社は、大正元年(1912)に建立され、大石内蔵助良雄を始め47義士と、中折の烈士萱野三平を主神
に祀っている。境内には、大石良雄宅跡(長屋門・庭園)、義士木像奉安殿、義士宝物館などがある。
ここでの資料の一部は、赤穂市教育委員会発行の「国史跡赤穂城祉 本丸庭園」から転載した。記して謝意を表す。
邪馬台国大研究・ホームページ / 日本の城と城下町 /himiko@zeus.eonet.ne.jp