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百済大寺(吉備池廃寺)

2005.1.29 歴史倶楽部第93回例会




	<百済大寺> 草創は聖徳太子建立の熊凝村の道場に遡るという。実際の建立は、聖徳太子から後事を託された田
	村皇子、舒明天皇による。舒明天皇11年(639)に、百済川のほとりに、大宮と大寺を造営し、西の民は大宮を、
	東の民は大寺を造ったという。皇極天皇元年(642)7月27日、百済大寺の庭で、請雨のために仏菩薩四天王の像を
	飾って、大雲経を読む法会が行われた。この折に、蘇我蝦夷は、香炉を手にして法会に加わっている。
	この時には未た寺観が整っていなかったようだ。白雉元年(650)に、丈六像、脇侍、八部等の36像を表した大繍
	仏を作り始めたとあり、このころようやく諸堂に仏像を飾ることができるようになったのだろう。しかし、ようや
	く寺が完成した頃には、蝦夷・入鹿は既にこの世の入ではなくなっていた。周辺の堂塔が整備中であったはずの大
	化元年(645)、皇極天皇の目の前で、入鹿は暗殺されてしまったからである。
	日本初の国立寺院「百済大寺」とする説が有力な奈良県桜井市の吉備池廃寺(7世紀中ごろ)で、南北幅約15bの
	寺の正門「南門」の遺構が見つかり、飛鳥時代の寺院として最大級だったことが13日までに、桜井市教委の調査で
	分かった。南門跡の位置関係から、別に見つかっていた柱穴列が、寺域を囲った大垣(塀)とみられることも判明。
	寺域は東西約230b、南北290b以上の可能性が強いという。吉備池廃寺はこれまで塔や中門、回廊など主要部分の
	遺構しか見つからず、文献になり未完の寺とする見方もあったが、南門や大垣も完成し、国立寺院ならではの大規
	模な伽藍(がらん)だったと判明。同市教委は「百済大寺であることは、ほぼ確定的になった」としている。
	(平成10年3月新聞記事:エンピツ書きの字がかすれて、どこの新聞かは不明。)
 	百済大寺(くだらのおおでら)跡とみられる奈良県桜井市の吉備池廃寺で、飛鳥時代では最高層の高さ90mル級
	と推定される、巨大な塔の基壇が出土し、奈良国立文化財研究所(奈文研)と同市教委は平成10年3月、「日本
	書紀に九重塔と記された百済大寺の塔跡とみられる」と発表した。もともと、この吉備池廃寺には大きな瓦が出土
	していたため、瓦を作る窯があるのではと調査したそうなのだが、掘ってみれば、見てびっくりの結果に。




	この一帯は古くから多くの瓦の破片が発見されていたが、寺院の跡地であるというはっきりした記録や伝承が無い
	ことから、近在で寺の建築が行われた際に使用された瓦窯の有った場所ではないか、と考えられていた。しかしそ
	の後の何度かの調査で、どうやら古代寺院があった可能性が高まり、いつのころからか「吉備池廃寺跡」と呼ばれ
	るようになった。今では、舒明天皇が639年に発願して建設が始まった「百済大寺」の可能性が高いと考えられ
	ている寺院跡だが、廻りには何もない。説明板一つ立っていない。史跡指定も受けていないようだし、現在は農業
	用のため池として使用されているようで、周囲には民家が立ち並ぶ。池の築堤上を徒歩で周回することができ、そ
	この北西に、わずかに大津皇子と大伯皇女の歌碑が建っている。華々しく報道されて注目を浴びた遺跡にしては変
	だ。
	何か石碑だけでも立っていてよさそうなもんだが、どこに何があったのか皆目わからない。家へ戻ってきて調べた
	限りでは、この池の中も周囲もぐるりとこの「百済大寺」の境内だった。今から行政が土地を買収したりするのか
	もしれないが、まずもっと知名度を上げるためにも、せめて説明板や配置図くらいは置いておくべきだろう。それ
	とも、ここが「百済大寺」ではない可能性でも提示されたのだろうか。いずれにしても、変だ。





	<大津皇子> おおつのみこ  生没年 663(天智称制2)〜686(天武15) 

	系譜 天武天皇の第3皇子。母は大田皇女(天智天皇の長女)。大津の名は生地である那大津(現在の博多港)に因む
	という。または近江大津宮に因むともいわれる。同母姉に大伯皇女、異母兄に高市皇子・草壁皇子、異母弟に忍壁
	皇子らがいる。山辺皇女(天智天皇の皇女)を娶り、粟津王をもうける。

	略伝 斉明天皇の新羅遠征の際、九州に随行した大田皇女の腹に生まれる。長女の子として天智の寵愛を受けたが、
	程なく母を失う。これに伴い父大海人の正妃の地位は兄草壁皇子の母菟野皇女に移った。『懐風藻』によれば大津
	は身体容貌ともに優れ、幼少時は学問を好み、博識で詩文を得意としたが、長ずるに及び武を好み剣に秀でたとい
	う。天智崩後、672(天武1)年に壬申の乱が勃発した時は兄高市と共に近江にいた。大津はわずか10歳であったが、
	父の派遣した使者に伴われ、伊勢に逃れた父のもとへ駆けつけた。父帝の即位の後、天武8年5月の六皇子の盟約に
	草壁・高市・河嶋・志貴ら諸皇子と参加、互いに協力して逆らうこと無き誓いを交わした。翌年兄草壁が立太子す
	るが、度量広大、時の人々に人気絶大であったという大津は父からの信頼も厚かったらしく、天武12年、21歳にな
	ると初めて朝政を委ねられた。天武14年の冠位四十八階制定の際には、草壁の浄広壱に次ぎ、浄大弐に叙せられた。
	翌年8月、草壁・高市と共に封400戸を加えられた。「懐風藻」によれば、これより先、新羅僧の行心に会った際、
	その骨相人臣のものにあらず、臣下の地位に留まれば非業の死を遂げるであろうと予言され、ひそかに謀反の計画
	を練り始めたという。
	天武15年(686)9.9、父帝が崩じ、翌月2日、謀反が発覚したとして一味30余人と共に捕えられた。『懐風藻』によ
	れば謀反を密告したのは莫逆の友川嶋皇子であったという。連座者の中には伊吉連博徳、大舎人中臣臣麻呂・巨勢
	多益須(のち式部卿)、新羅沙門行心などの名が見える。翌3日、訳語田の家で死を賜う(24歳)。 妃の山辺皇女が
	殉死した。伊勢の題詞には大津皇子の屍を葛城二上山に移葬した旨見える。同月29日には連座者の処遇が決定して
	いるが、帳内1名を除き無罪とされ、新羅僧行心は飛騨国に移配するという軽い処分で済んでいる。このことから、
	大津の謀反は事実無根ではないにせよ、皇后ら草壁皇子擁立派による謀略の匂いが強いとされている。
	死に臨んでは磐余池で詠んだ歌が伝わるが、皇子に仮託した後世の作とする説もある。『日本書紀』に「詩賦の興
	ること、大津より始まる」とあり、『懐風藻』には「臨終一絶」など4篇の詩を残す。但し臨終の詩は、その原典
	が『浄名玄論略述』という天平19年以前成立の書に引用されており(小島憲之)、即ち模倣作か後世の偽作である
	ことが明らかである。万葉には他に愛人の石川郎女を巡る歌、黄葉の歌が見える。
	(ウィキペディア (Wikipedia))




	二上山、耳成山、畝傍山がここから綺麗に見えていたのだが、写真にはあまりよく写っていない。地元の伝承には
	ここが「磐余池(いわれいけ)」であるというのもある様だが、現在、磐余池はもう少し南側の地であったように
	比定されており、この伝承は誤りである可能性が強い。しかしここからも大和三山はよく見える。現在「磐余池」
	と比定されている場所にも、同じ歌の歌碑があるそうだが、今はその場所には池は跡形すらない。そして「百済大
	寺」がこの場所にあったことがほぼ確実になれば、ここに当時池があった可能性はほとんど無くなる。大津皇子が
	謀反の嫌疑をかけられて捕らえられてから処刑されるまでの間に、磐余池の畔で鴨を見ながら辞世の歌を詠む余裕
	など与えられたのかどうかかなり疑わしいという意見もあるし、そもそも、日本書紀にある大津皇子謀叛発覚から
	処刑そしてその後の関係者の処分などの記述には不自然なところもあり、この歌自体も「悲劇の皇子」の伝説に基
	づく後世の造作である、という可能性もまた否定できない。




	東側のトレンチを南から写す(下右)。幅約50cmの溝2本が東西に通っている。溝の間(幅約6m)、2本の
	溝は回廊わきに掘られた排水溝と見られている。平成12年12月4日から平成13年1月12日にかけて行われ
	た発掘調査の結果、竪穴式住居や切通し・南北溝・柱列・掘立柱建物などが検出された。これらの遺構は時期別に
	4期に分類することができるそうだが、寺に関連する遺構には、切通しと南北溝、掘立柱建物がある。切通しは東
	西方向に切られたもので、最も高い部分では約70cmの高さがあった。建物や南北溝などを構築する為に周囲を
	平らに造成したときの痕跡と考えている。建物は東側がすでに削られていたが、南北3間(6.9m)以上×東西2間
	(2.3m)以上の大きなもので、廃寺の金堂や塔・僧坊・回廊などに方位を揃えており、南北溝や切通しも同様であ
	る。この調査により、吉備池廃寺北方の丘陵上には吉備池廃寺と関連を持つ、規模のしっかりとした遺構群が広く
	展開している事が明白となった。
	【埋蔵文化財センター 発掘調査現場から(171) 広報「わかざくら」平成13年4月15日】 


 


	奈文研などの発掘調査では、現在農業用ため池となっているこの池の水を完全に干上がらせ、通常水底になってい
	る部分及び池の南側の築堤部分をかなり広い範囲に亘って発掘したことがわかる。この発掘調査の結果、吉備池廃
	寺の伽藍配置がほぼ確定し、各堂宇や塔の規模も確定的になった。当時の文献記録などと併せて、この寺がそれま
	で「幻の大寺」とよばれていた百済大寺とほぼ断定できる、と判断されたのである。

 



	吉備池廃寺、巨大回廊跡を発見 (平成10年3月25日)  最古の「法隆寺式」伽藍配置
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	高さ100m級と推定される塔の壇跡が見つかり、639年に舒明天皇が造営した「百済大寺」ではないかとされ
	る吉備池廃寺(奈良県桜井市吉備)で、金堂や塔の周囲を囲む回廊の跡が見つかったと、奈良国立文化財研究所飛
	鳥藤原宮跡発掘調査部と同市教委が24日発表した。同廃寺は左右に並んだ金堂と塔を回廊が囲む「法隆寺式」伽
	藍配置の最古の例になるという。また回廊が一辺100m以上と規模が大きいことから、同廃寺が、巨大な寺とさ
	れる百済大寺とする説が一層強まったとされる。
	今回の調査で、塔基壇の中心部から約50m南で、幅約50cmの溝2本が東西に通っているのが見つかった。溝の
	間(幅約6m)に土をつき固めた跡があり、この跡が同廃寺の南側回廊跡の一部で、2本の溝は回廊わきに掘られた
	排水溝と判断。回廊と金堂跡の中心との距離から回廊の規模は法隆寺西院伽藍の1.8倍にあたる南北112m、東
	西も16mになると推定した。日本書紀で舒明天皇の築造とされる百済大寺は「未完成の可能性もある」という説
	があるが、同調査部の猪熊兼勝部長は「回廊まであるのに、寺全体が未完成だったとは考えにくい。塔や金堂、回
	廊の発掘成果から、百済大寺は吉備池廃寺で間違いない」と話している。(平成10年3月25日奈良新聞)


 

吉備池の北東から香久山方面を望む方向にみえたはずの「百済大寺の九重の塔」(上右)。


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