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安部文殊院
2005.1.29 歴史倶楽部第93回例会
安部文殊院: 大化元年(西紀645)、大化改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはし
まろ)が安倍一族の氏寺として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)。永禄六年(1563)全山を焼く兵
火にあい、現在の本堂は寛文5年(1665)に再建されたもので、人母屋造本瓦茸七間四面の建物で前に礼堂(能楽
舞台)を従えている。奈良説に従えば、ここが平安時代に活躍した希代の天才陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)
の生まれ故郷ということになる。
<安部文殊院概略記>
孝徳天皇の勅願によって大化改新の時に、左大臣となった安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)が安倍一族の氏寺
として建立したのが「安倍山崇敬寺文殊院」(安倍寺)である。しかし一般的には古来より、日本三文殊の第一霊
場(京都府・天の橋立切戸の文殊、山形県・奥州亀岡の文殊)「大和安倍の文殊さん」として名高い。大化元年
(645)倉梯麻呂が創建した安倍寺(崇敬寺)は、現在の寺の南西300メートルの地に法隆寺式伽藍配置による
大寺院として栄えていた。(東大寺要録末寺章)(現在「安倍寺」跡は国指定の史跡公園として保存されている。)
鎌倉時代現地に移転後も、大和十五大寺の一として栄え嘉吉元年(144)この興福寺官務牒疏には当時なお二十
八坊の存在が記されており、寺運はなかなか隆盛であったが、永禄六年(1563)二月松永弾正の為に兵火に会
い一山ほとんど鳥有に帰する災を受け、その後寛文五年(1665)四月に到って本堂(文殊堂)と礼堂を再建さ
れたのである。現在の本堂は即ちこれで、人母屋造本瓦茸七間四面の建物で前に礼堂(能楽舞台)を従えている。
本堂の右に釈迦堂、左に大師堂、本坊、庫裡が並ぴ庭園を隔てて方丈客殿につらなっている。千三百余年の星霜を
経ているが常に一般道俗の信仰をあつめ、由緒も深く寺勢も盛んであった事ば寺伝の由来記に載せるところであり、
日本最大の文殊菩薩を本尊とする安倍文殊こそ俚謡そのままのある五台山として、仏徒の巡拝すべき道場である。
【安部文殊院HPより】





境内には古墳時代後期の文殊院西古墳があり、完成度の高い切石で作られた横穴式石室の中には、願掛け不動があ
り、なんと石室の中へ入ってお参りすることができるが、この石組みはどうもうさんくさい。まるでインカの石組
みのように、ピッタリと組み合わさった巨石が整然と並んだ古墳である。私も数多く古墳を見てきたが、こんな綺
麗な石組みの古墳は見たことがない。どうみても後世の石組み方法で積んだとしか思えない。この寺の境内には、
他にも巨石を積んだ閼伽井(あかい)古墳というのがあるそうだが、そっちは見なかった。またこの古墳には、安
倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の墓であるという伝承も残っている。


この石組みを見て古墳時代とはちょっと思えない。あまり気になったので、後日、桜井市の埋蔵文化財センターへ
電話して聞いてみた。応対してくれた清水課長さんは親切で、以下のようなことを教えてくれた。
「あれは飛鳥時代の物で、多武峰の花崗岩を使った物としては終末期に当る時期の物です。あれ以降くらいから、
(壬申の乱以降くらい)奈良の古墳は二上山の凝灰岩が用いられるようになります。7世紀中頃という事で、大化
の改新の6年後(651年)に亡くなったこの辺りの豪族「安倍倉梯麻呂」の墓と考えるのが一番妥当だろうと思
っています。と言うのも、安部氏一族で一番出世したのは倉梯麻呂ですし、なんと言っても左大臣ですからね。実
権は中大兄皇子が握っていたとしても、今で言えば総理大臣クラスの人ですから、臣下が立派な墓を造ろうとして、
あのような墓になったのではないでしょうか。」
「と言うことは、計って切ったようなあの石組みは本物の古墳と言うことですか?」「そうですね飛鳥時代のまま
ですよ。」「えぇーっ、いや、私は全国いろんな古墳を見てきましたが、あんなインカの石組みのような古墳は初
めてですが。」「そうですね。全国でも一番綺麗な石室かもしれませんね。」「えぇーっ、そうだったんですか。
いや知りませんでした。ありがとうございました。」「いえいえ、近鉄明日香駅の前の古墳にもっと小降りで、表
面を研磨したような古墳がありますけどね。花崗岩であれだけ大きいのはあれくらいですね。」
「いや、驚きました。」

清水さんの話では、文殊院に残る室町時代の古文書ではもう古墳の入り口は開いていたそうで、少なくとも室町以
後は今の格好だったらしい。さらに、それ以前は羨道がもっと長く池の所まで続いていたようだが、道が狭いので
羨道をすこし削ったようで、その時の岩板が境内に放置してあるそうです、とも教えてくれた。それにしてもこの
石組みの見事さはどうだろう。ここまでするとは。以前、清水さんが近所の石屋さん(石工さん)をつれてこの古
墳に入ったそうである。その時石屋さんは、「こりゃ江戸時代ですかね。」といい、飛鳥時代だと聞くと、私と同
じように「ヒェーツ」と驚いていたそうである。誰が見てもこりゃ驚く。

<晴明堂について>
晴明堂は、日本における占いの開祖として名高い平安時代の陰陽師。安倍晴明公を祭るお堂です。晴明公は当山出
生の「天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも」の歌で有名な安倍仲麻呂公と同じく、当山出
生のお一人です。この晴明堂が建立された展望台の場所は、晴明公が天文観測を行ない吉凶を占った地として古来
より伝承されています。当山には古来より晴明公の御遺徳を偲ぶ晴明堂がありましたが、幾星霜を経てその御堂も
廃絶してしまいました。この度西暦二〇〇四年に晴明公壱千回忌を迎えるに当たり二百年ぶりに晴明堂の再建が成
されました。晴明堂の正面には「如意宝珠」の玉石が据えられています。この「如意宝珠」とは仏教の経典におい
て説かれている玉で、あらゆる願いを自在に叶えてくださるありがたい玉の事です。この玉石を当山に秘伝として
伝来してきた方位除災のまつり方を模刻した石版の上に安置し、御参拝の皆様に触れていただき、諸願の成就を祈
念して頂きたいと念じております。 【安部文殊院HPより】
安倍晴明物語が有名になったのは、「和泉の国の信太(しのだ)の森の白狐」を母とする信太伝説が浄瑠璃として
古くから上演されていたためであろうと思われる。
これによれば、和泉の阿倍野に住んでいた安倍保名(晴明の父)は安倍家の興隆を念じ信太明神に熱心に参詣して
いた。ある日参詣の折、狩猟に追われて保名の元へ逃げ込んできた白狐を救う。白狐を助け山門を出ると、そこで
保名は絶世の美女、葛の葉(くずのは)と言う女性に出あう。一目惚れした保名はその美女を自宅に伴い結婚する。
この女性こそ保名に助けられた白狐が変身した姿であった。
そしてまもなく二人の間に男の子が生まれ童子丸と名づけられた。その後数年親子は仲睦まじく暮らすのであるが、
ある秋の日、母親の葛の葉は庭の菊の香りの素晴らしさに酔いしれて、白狐の本性を童子丸の前にさらけ出してし
まった。これを恥じた葛の葉は障子に、「恋しくば訪ね来て見よ和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」の歌を書き残
し家を去る。
帰宅した保名は、障子に書き残された歌と童子丸の話から総てを悟り、翌朝、童子丸を伴い信太の森に出向き葛の
葉を求めてさ迷い歩く。すると葛の葉が姿を現し保名に告げるのだった。一度白狐の姿を見せた限りは、最早人間
界へは戻れない、その代わり可愛い我が子の童子丸に霊力を授けましょう、と告げたのであった。こうして霊力を
得た童子丸はこの後数々の霊能力を発揮し、朝廷の陰陽博士にまで出世するという話である。

史実に残る安倍晴明とはいかなる人物であったのか。晴明は少年時代に当時陰陽道の第一人者であった加茂忠行に
弟子入りをしている。
彼は少年時代から超能力を備えた秀才であったようで、師匠の忠行はその能力を見込み陰陽道の極意を忠行の息子
の加茂保憲と共に総てを伝授したといわれている。「今昔物語」によれば「此ノ道ヲ教フル事瓶ノ水ヲウツスガ如
シ」とある。つまり瓶の中の水を他の容器に移すように、一滴も洩れることのない程に教えたとある。若き日の晴
明が、歴史的に存在が確実視されている陰陽道の師は、この加茂忠行とその息子である加茂保憲の父子である。
加茂忠行は当時肩を並べる者無き人物で、公私にわたり尊い者として取りたてられた、とあり、また加茂保憲も当
時の記録によれば「当朝は、保憲をもって陰陽の規模となす」とあり、二人ともいかに当時の陰陽道の第一人者で
あったかが窺える。晴明はこうした親子二代にわたる陰陽道の第一人者である師から伝授を受け、加えて天才的才
能が加わった事で、陰陽師としての実力が開花したと言えるだろう。こうして安倍晴明は平安時代における陰陽師
としてその第一人者の地位を得、朝廷においても彼の陰陽の判断無くしては、天皇や高官の政治的決断がままなら
ぬほどに大きな影響を与えたとされているのである。
この寺は知恵を授けることで有名で、毎年受験生が数多く合格祈願に訪れるそうであるが、近年は、年寄りの味方
「ぼけ封じの霊場」として、ぼけたくない初老の人たちの参詣が増えているそうである。私は今日お参りしたので、
もうボケなくて済むだろうか? 既にボケているという声も聞こえそうだが。
今年は「安部晴明」の1000回忌にあたるそうで、その前に、2000年に建てられた晴明堂が建つ境内に、ウ
ォーナー博士記念塔というのがあった。博士は、第二次世界大戦時アメリカ政府と軍の上層部に、奈良と京都の文
化価値について説得、戦災から両都市を守った人である。



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