Music: Across the Universe


万葉ミュージアム

2005.1.29 歴史倶楽部第93回例会






	「万葉ミュージアム」

	奈良県立万葉文化館は、万葉文化の総合拠点として、万葉集を中心とした日本の古代の文化の魅力を、分かりやすく
	紹介している。研究・調査と、展示、図書・情報サービスの3つの機能を備えているが、とくに展示の部分は「万葉
	ミュージアム」とも呼ばれて、いろんな工夫がなされた。当初の計画では、総事業費約131億4225万円(発掘
	調査費は約2億3000万円)、県の試算では年間約4億2700万円の赤字で、計画通り奈良県によって建設され
	ると、飛鳥池遺跡の一部は破壊され、残りは建物の下に眠ることになり、設立オープンまでには、見て頂くような多
	くの論議を呼び、文化財保護と地域開発の両面において、今後に大きな課題を残したが、とにもかくにも2001年
	9月15日にオープンした。

 

水落遺跡を見て万葉ミュージアムへ急ぐ。今回は時間がないので飛鳥寺はパス。
皆に聞いたが、まだ来たことの無い人はいなかった。






	今までこの周辺には何度も足を運んだが、この中に入った事はなかった。建設をめぐる10年以上にわたる賛否両論
	の論議を知っていたし、6百円という入場料にしてはロクなものは在るまいという思いで、今まで入場をためらって
	いたのである。考古学ファンとしては、あまたの反対を押し切って建設された博物館になど、金輪際入ってやるもの
	かという思いもあった。しかし、もう既に建ってしまっているし、どんなものなのか一度は見ておかないと賛否の論
	議にも加われまいとの考えから今回入場してみる事にした。歴史倶楽部の皆さんも大体似たような思いだったようだ。



「究極の博物館」とでも呼べそうな豪華なエントランス






	飛鳥藤原第87次調査 現地説明会資料 1998年4月26日 奈良国立文化財研究所 飛鳥藤原京跡発掘調査部
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	飛鳥池遺跡とは?

	飛鳥寺の南東の谷あいに、「飛鳥池」という、近世の築造とみられる溜池がありました。1991年にその池底を発掘し
	たところ、7世紀後半の大規模な生産工房の跡が見つかりました。これを、飛鳥池遺跡と名づけています。ここから
	は人形(ひとがた)や釘・針・ピンセットなどの銅製品、仏像や海獣葡萄鏡(かいじゅうぶどうきょう)の鋳型、釘
	や鏃(やじり)・ノミ・針などの鉄製品、金属製品を注文する際の木製の見本(雛形)、木工具、漆工具、ガラスの
	坩堝(るつぼ)や鋳型など、多種多様な遺物が大量に出土しました。この場所で、ひじょうに広範囲にわたる生産活
	動がおこなわれていたことがわかります。なかでも、炉跡やそれへの送風装置である鞴(ふいご)の羽口(はぐち)
	をはじめとして、鋳造や鍛治関係の遺構・遺物が多いのが目を引きます。また、製品の供給先・原料の提供元や出荷
	状態を示す木簡も見つかりました。これらの遺物の大半は、谷筋に厚く堆積した炭の層の中から出土したものです。
	生産時に炉で使用した大量の炭を廃棄したさいに、いっしょにいろいろなものを捨てたようすがうかがえます。
	その後、万葉ミュージアムがここに建設されることとなりました。このため、1997年1月から、事前の発掘を継続維
	続しています。去年は、北部の第84次調査区で、多くの建物のほか、石敷をもつ井戸や、方形池など、注目すべき施
	設を確認しました。「飛鳥寺」や「天皇」と書かれた木簡が出土したことも、記憶に新しいところです。一連の調査
	により、この遺跡全体の解明が進むことが期待されます。 

	飛鳥の生産工房

	今回の第87次調査地は、飛鳥池遺跡の存在が最初に明らかになった1991年の調査地の南に隣接した場所です。1991年
	の調査区は、南東と南西から流れてきた谷の合流部にあたりますので、今回は、それぞれの谷の上流部と、その中間
	の丘陵部分を発掘していることになります。調査は1997年12月から開始し、現在も継続中です。発掘面積は、約1900
	uです。今回の発掘でも、7世紀後半の天武・持統天皇の時代を中心とする生産工房の跡を確認しました。遺構が集
	中するのは、西側の浅い谷筋の部分です。北に下る斜面を何段にもわたって削り出し、整地をおこなって、ほば平坦
	に近い作業面を造成しています。そこにたくさんの炉がつくられていました。
	炉跡は、上部が削られて、底面近くをわずかに残す例がほとんどですが、基本的に、地面を浅く掘りくぼめた形態と
	思われます。同じ場所で、何度も作り替えをおこなったものもあります。炉底や炉壁は、高温の火熱を受けて、青灰
	色に固く焼けしまっています。また、炉の付近には、生産のさいに生じたカス(鉱滓)や焼土の存在も認められまし
	た。建築関係で特筆されるのは、倉庫と推定される建物1と建物2、それらが建つ空間の東と北を限る区画塀を確認し
	たことです。この2棟の建物は、方向や西側の柱筋を揃えており、同時に存在したことは確実でしょう。これまでに
	見つかっている小規模な建物とは趣を異にする、かなり立派なものです。東と北を限る区画塀も相当大型ですが、こ
	うした厳重な囲いをつくっているのも、それらの倉庫の存在と関係がありそうです。 

	大量の鋳造関係遺物

	今回の調査でも、鋳造や鍛冶関係を中心とする大量の遺物が見つかりました。鞴(ふいご)の羽口や坩堝(るつぼ)、
	仏像の鋳型や鉄釘・砥石など、北どなりの1991年調査区と共通するものが多いのが特徴です。ほかに銅の箸や、素材
	として再用したらしい、古墳時代の鏡の破片も出土しています。また、漆を入れた須恵器も見つかりました。漆工房
	で使われたものでしょう。遺物の多くは、西および東側の谷筋から出土したもので、1991年調査区と同様、とくに西
	側の谷筋に堆積した炭の層からの出土量が圧倒的です。これらは、今回の調査区と、下流にあたる1991年の調査区が、
	一連の工房を構成していたことを示しています。いずれも、直接的な生産に従事した部門ですが、それだけでも、相
	当な規模を有していたことがわかります。 

	玉類と銀製品の生産

	今回の調査でとくに注目されるのは、あらたに、琥珀(こはく)、瑪瑙(めのう)、水晶などの玉類や、緑・青・黄
	・赤などの華麗な彩りをもつ、ガラス玉の製品が見つかった点です。そして、ガラスについては、それを生産した可
	能性のある炉の存在も明らかになりました。以前から確認されていた小玉鋳型や、ガラスを融かした坩堝(るつぼ)、
	原料となる石英や鉛とあわせて、ガラス玉の製作に関わる遺物一式が出そろったことになります。
	従来、ほとんど明らかでなかった7世紀の宝飾品生産の実態を解明するうえで、きわめて重要な資料ということがで
	きます。また、今回はじめて、銀を融かした坩堝の存在を確認しました。坩堝を科学的に分析した成果です。さらに、
	微量ながら、炉跡からも銀を検出しています。1991年の発掘でも、銀と銅の合金が出土していますが、今回の成果は、
	この場所で、銀製品の生産そのものがおこなわれていたことを確定するものです。銀の製作加工を示す遺跡としては、
	国内最古の例となります。天武・持統天皇の時代は、国内ではじめて銀が産出し、史料にも銀関係の記事が多くみら
	れるようになります。それとの関連をうかがわせるものでしょう。 

	遺跡の特質と今度の課題

	今回の調査により、従来の知見以上に、高級品を含む多様な製品が、この場所で生産されていたことが明らかとなり
	ました。7世紀の総合的工房としての飛鳥池遺跡の重要性は、ますます高まったといってよいでしよう。その遺跡とし
	ての大きな特徴は、遺物以外に、炉跡などの遺構と、生産時に生じた廃棄物を捨てた堆積層が、良好に遺存している
	点にあります。このため、遺物の位置と遺構とのつながりを有機的にとらえることができ、そこから、生産の工程や、
	場所ごとの産品の違いについての復元も可能です。
	もちろん、それには、多くの手間も要します.今回微小なガラス玉や破片を含む多量の遺物をもれなく検出できたの
	は、炭と廃棄物の層を、全て持ち帰って水洗・選別したためです。その数は、土嚢(どのう)で1万袋以上に達しま
	す。水洗作業は毎日続けていますが、完了までには、なお長い時間がかかります。また、飛鳥池遺跡は、今回の調査
	地で完結するわけではありません。谷のさらに上(南)にも、炉跡の集中する作業面は続いていきますし、西側にも
	別の作業面がありそうです。今後継続していく下層部分の発掘とあわせて、遺跡の全容を解明するためには、息の長
	い調査が必要なのです。






	エントランスを入ってまっすぐ行くと、2つの棟(展示棟と研究棟)を結ぶ渡り廊下に出て、その両側の庭が飛鳥池
	遺跡である。この部分だけが保存されている。しかし上から眺めるだけで、直接遺跡面までは出れないようだった。
	下で直接見ている写真もあったのだが、一般見学者は見れないようになっているのかな。






	<飛鳥池遺跡発掘調査の経緯>

	奈良県明日香村の飛鳥寺の東南部に位置する飛鳥池が埋め立て計画のため、1991年から発掘調査が行われてきた。
	その後、この地域に 県立の”万葉文化館”という博物館・研究施設を建設することが決まり、1997年以降、急ピ
	ッチで発掘調査が進められてきた。しかしその過程で次々に重大な発見が相次ぎ、この遺跡を壊してその上に博物館
	を建てるという構想に異議が出始めた。


		<発掘調査年次と主な発表事項>

		年月		発表事項					
		91年 8月 	・「大伯皇子」と記したした「木簡」が出土
				・ガラスを溶かした「るつぼ」が出土
				・「海獣葡萄鏡の鋳型」が出土
				・「仏像の鋳型」などが出土  
		93年 5月	・鉛ガラスを製造する「最古の工房跡」と発表
		97年 4月	・工房の管理施設の「建物群」、「石敷井戸」が見つかる
		97年10月	・出土した「井戸枠から最古の落書き(性器の落書き)」見つかる
				・「飛鳥寺」と墨書した「木簡」が出土 
		98年 3月	・「天皇」、「丁丑年」、「観勒」 と記した「木簡」が見つかる
				(注)丁丑年:677年、観勒:百済の僧で暦、天文地理などを伝えた。
		98年 4月	・玉類など「宝飾品の工房跡」を確認 
		98年 9月	・「字書木簡」、「漢詩・千字文の木簡」、「寺院名の木簡」を確認
				・最古の「金銀製品の工房跡」を確認
		98年10月	・遺跡を南北に仕切る「大塀跡」を確認。南は工房、北は役所、寺院関係の建物か。
		98年12月	・飛鳥寺 「東南禅院」 の 「瓦窯跡」が出土
		99年 1月	・「富本銭」の出土を発表
 
	
	このような発掘調査の成果を見て、各方面から博物館建設の是非を問う意見がでた。1999年の主なニュースのタイト
	ルだけを列記すると、

		・飛鳥池遺跡の保存訴え 歴史3学会が現地検討会(1999.3.3)
		・「出土には、設計変更で」 県強気の議会委説明(1999.3.4)
		・現状保存要望書を知事らに 県民フォーラム実行委(1999.3.4) 
		・県に3団体が遺跡保存を改めて要望(1999.3.9) 
		・博物館建設予定地を全面発掘へ 奈良・飛鳥池遺跡(1999.3.15)
		・日本考古学協会が飛鳥池遺跡の保存要望(1999.3.26)
		・飛鳥池遺跡の調査再開される 新資料発見に期待(1999.4.3)
		・万葉ミュージアム 県に建設地変更求め決議・日本考古学協会 (1999.5.22) 
		・高まる保存の声 明日香でシンポジューム (1999.6.7) 
		・建設予定地変更に否定的 県企画部長(1999.6.9) 
		・棚田の夕日、台無し ど真ん中に建設現場事務所(1999.6.12)
		・万葉ミュージアム建設地変更要望 明日香村民の会(1999.7.9)
		・万葉ミュージアム建設促進決議 明日香村議会(1999.7.13)
		・万葉ミュージアムの建設を一部変更で進める(県方針)(1999.7.23)
		・歴史ファンため息の飛鳥池遺跡 現地説明会(1999.7.25) 
		・飛鳥池遺跡は国営歴史公園化で全面保存を!(1999.8.21) 
		・「計画見直すべき」 共産党書紀局長が飛鳥池遺跡視察(1999.8.25)
		・飛鳥池遺跡調査終了へ 遺跡の姿 消える?(1999.9.16)
		・審議を求める要望書提出 飛鳥池遺跡を考える会(1999.9.20)
		・万葉ミュージアム来週着工表明 識者ら猛反発(1999.9.28) 
		・万葉ミュージアム10月5日着工 県議会で副知事表明(1999.10.2)
		・ついに文化遺産破壊始まる 奈良明日香・飛鳥池遺跡(1999.10.7)
		・保存求め署名を知事に提出 飛鳥池遺跡を考える会(1999.10.18)


	各方面からの建設反対の意見にもかかわらず、奈良県は建設計画を続行した。地元明日香村はこの着工を大歓迎して
	いることもあって、結局、奈良県は遺跡を一部保存することにして建設は着工された。観光以外では食べて行く道が
	ない明日香村の困り果てているという現実は勿論ある。しかし、それは奈良県の多くの地域がそうだし、観光資源な
	ど持たない他府県の地方都市なども同様である。工事は、土木立国奈良県でも最大手で、これまでも贈収賄事件など
	色々と物議を醸している村本建設株式会社に発注された。

	工事:  万葉ミュージアム、
	所在地: 奈良県高市郡、
	発注者: 奈良県、
	竣工:  2001年3月、
	工事概要:SRC造・地上2階・地下1階・延床面積 10,963u、
	発注金額:不明

 






	飛鳥池遺跡の調査再開される 新資料発見に期待(1999.4.3)
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	奈良国立文化財研究所は1日、国内最古の貨幣「富本銭」が見つかった飛鳥池遺跡(明日香村飛鳥)の発掘調査を再
	開した。同遺跡では、県が計画中の「万葉ミュージアム」建設に伴う事前調査で、富本銭を鋳造した可能性のある炉
	跡約200基が今年2月までの調査で新たに出土、未発掘の管理・研究棟予定地に続くことから、県が着工を延期し
	て調査の継続を表明していた。
	新たに調査するのは富本銭が見つかった炭層の東南部約2000平方mで、造成土を取り除いて遺構面を出す作業に着手
	した。奈文研飛鳥藤原宮跡発掘調査部によると、すでにいくつかの炉跡が確認されている。調査には少なくとも半年
	かかるといい、鋳型など、富本銭の鋳造を裏付ける資料の発見が期待されている。
	万葉ミュージアムは展示棟と管理・研究棟に分かれており、延べ床面積約1万平方m。建物の地下にはパイルと呼ば
	れるコンクリート杭(長さ6〜9m)が打ち込まれる。展示棟の予定地は全面発掘されたが、管理・研究棟は試掘調
	査しか行われていなかった。県万葉ミュージアム建設室は「あくまでも建設に向けた事前調査。オープン時期(平成
	12年度秋)については詳細に検討しないと分からない」と話している。(毎日新聞)






















	飛鳥池遺跡で国内最古の貨幣出土 (1999年1月20日毎日新聞 )
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	奈良県明日香村の工房遺跡・飛鳥池遺跡(7世紀後半〜8世紀初め)で、「富夲(本)(ふほん)」の文字がある銅銭
	「富本七曜銭(富本銭)」とその破片33点が見つかった。19日発表した奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘
	調査部によると、7世紀後半の地層から出土しており、和銅元(708)年鋳造で日本初の本格的な貨幣とされる和同開
	珎(わどうかいちん)より古い、最古の鋳造貨幣としている。
	古代史の定説を覆し、日本史の教科書を書き換える第一級の発見で、貨幣史、古代経済史などの研究に大きな影響を
	与えそうだ。昨年8月、同遺跡中央部で見つかった7世紀後半の瓦窯付近から出土。6点がほぽ完形をとどめている。
	平均の直径は2.44cm、厚さ約1.5mm、重さ4.25〜4.59g。中央に約76mm四方の穴があり、上
	下に「富夲」の文字、左右に陰陽と木火土金水を表した七つの点が描かれている。瓦窯より古い地層から見つかり、
	同じ場所から「丁亥(ていがい)年」(687年)と書かれた木簡が出土していることから、7世紀後半に作られたのは
	確実という。表面に気泡があったり、ひびが入った不良品。鋳造の際、数枚をつないでいた「鋳樟(いざお)」1点
	も見つかっており、当時の「造幣局」で鋳造されたものの、使われないまま捨てられたらしい。
	富本銭はこれまで、同県の奈良市、大和郡山市、橿原市などの平城京跡、藤原京跡(西二坊坊間路・桜井市大福遺跡
	出土)と、難波宮付近で計5点が出土。和同開珎と同時期の貨幣という見方もあったが、和同開珎以降の官銭「皇朝
	十二銭」に含まれないため、まじない用の記念貨幣、厭勝銭(ようしょうせん)(「えんしょうせん」ともいう)と
	されていた。
	松村恵司・考古第2調査室長は、日本書紀の天武12(883)年の記述に「今より以後、必ず銅銭を用いよ」とあり、
	富本銭はこの銅銭と考えられる。皇朝十二銭に含まれないという理由だけで、厭勝銭とするのは不自然。当時の中国
	の貨幣「開元通宝」に形状や重量が近い。成分が、藤原京など過去に出土したものに近く、流通した形跡がある、な
	どから、日本最古の鋳造貨幣としている。富本銭は、奈良県橿原市木之本町の同調査部展示室で1999年1月25
	日〜2月10日の午前9時〜午後4時半(土、日休館)まで展示。入場料無料。
	近鉄大阪線耳成駅から南に徒歩約20分。







	飛鳥池遺跡出土の富本銭(ふほんせん) 1999年1月25日 奈良国立文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部

	富本銭って何?

	中学の歴史の教科書では、708年に初めて和同開珎(わどうかいちん)という貨幣をつくったと書かれています。
	710年に藤原京から奈良の平城京へ都が移されますが、和同開珎はこの奈良の都を建設するために、つくられた貨
	幣と考えられています。しかし、奈良時代につくられた『日本書紀』という歴史書には、683年に銅銭を使うよう
	に天武天皇が命じた記事や、694年と699年にも、貨幣鋳造(ちゅうぞう)のための役所を置いた記事がみえま
	す。この貨幣が一体何か、ながらく大きな謎でした。富本銭は1969年と1985年に平城京から発掘されていましたが、
	奈良時代のまじない銭と考えられてきました。ところが飛鳥池遺跡の発掘調査で、33枚の富本銭が発見され、7世紀
	の後半に飛鳥の中心地で富本銭がつくられていることが分かりました。これによって、富本銭が和同開弥よりも古い
	貨幣であることが明らかになり、先に見た『日本書紀』の記事と関係する可能性が高まりました。

	「富本」の意味は? 

	銅銭の上下にある「富本」とは、「国を富まし、国民を富ませる本」という意味で、貨幣そのもののことです。どう
	やって作ったのだろう?
	古代の貨幣は、銭を何枚も粘土に押しつけた裏表の鋳型(いがた)をあわせ、上からとけた銅を流しこんでつくりま
	す。飛鳥池遺跡の富本銭には、鋳造時に、銭の周囲にはみ出した鋼や、本体を切り離した跡が残っており、作ってい
	る途中で捨てられた失敗品であることが分かります。また製品を切り離した後に残った湯道(鋳樟:いざお)も出土
	しており、一度に14枚以上がつくられたようです。まるで一枚の型に流し込まれたプラモデルの部品のようですね。

	お金の価値は?

	富本銭の価値がどれくらいであったのか、残念ながら記録がないので分かりません。参考までに奈良時代の和同開珎
	は、1枚(1文)が一日分の労賃であったとされ、お米2,160cc(1升2合)が買えました。

	お金の歴史について考えよう

	富本銭は、国家を富ませ、国民を富ませる願いを込めてつくられたようです。今私たちはお金を信用して、あたりま
	えのように使っていますが、お金が私たちの生活に定着するためには、長い歴史がありました。貨幣の歴史について、
	そして貨幣の登場によって国家や国民が本当に豊かになったのか、今回展示した富本銭をみながら考えてみてはいか
	がでしょうか。 




 

 

 

 

 





 
























	特別展では、「新春の万葉日本画展」「日本画二代―美の伝承 中庭煖華・隆晴展」をやっていた。安田靫彦門下の
	俊才で、関東大震災後、奈良に身を寄せた日本画家 中庭煖華(1901−78)は法隆寺金堂壁画模写事業に参加、戦後
	は奈良の古仏を描き続けた。彼と彼の次男で現在も奈良に在住の日本画家 中庭隆晴の二代にわたる画業を紹介し、
	父子の美の伝承の跡をたどる、となっていた。
	「新春の万葉日本画展」では館蔵「万葉日本画」コレクションから、大森運夫・中路融人・長縄士郎・山中雪人らの
	15点が展示されていたが、勿論写真撮影は禁止である。
	しかしこの館は、このような既成大家による新作万葉絵画の展示というような企画だけで、ほんとに客を呼ぶ博物館
	になりえると考えていたのだろうか。誰が考えても、わざわざ交通費を使い、高いお金を出して明日香まで日本画を
	見に来る人などいやしないと思うのだが。研究施設だけなら何も遺跡の上に作る必要はサラサラなく、むしろそんな
	所に作る事には研究者自身が反対すべきである。見てきたように、ここは現在飛鳥池遺跡の一部を残し、出土した遺
	物や解説パネルで埋まっているが、もし発掘で何も出なかったら、それこそ税金の無駄使いで終わっていた事だろう。
	この考古資料があるから、まだ見に来る価値がある。いっそのこと飛鳥池遺跡全体を保存する博物館にしたほうがよ
	っぽど良かったと思う。




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