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早春の淡路島をゆく

常隆寺・早良親王墓 兵庫県淡路島 2005.2.27





	<桓武天皇勅願寺 常隆寺>  所在地 津名郡北淡町久野々154

	瀬戸内海国立公園 栗山村常隆寺 桓武天皇勅願所 早良親王霊安寺 淡路西国三十一霊場 



	<常隆寺縁起>

	通称「じょうれっさん」標高515.3メートル。北淡路第一級の高山に建てられた高野山真言宗の寺である。764
	(天平宝字八)年に廃位となり淡路に流された淳仁天皇が父の舎人親王のために創建し、住僧常隆法師の名をとって常
	隆寺としたものと伝えられる。
	延暦年間(782〜806)に桓武天皇が皇太子早良親王のために増建し、勅願寺となったという。境内に「桓武天皇
	勅願所」の碑がある。本尊の木造十一面観世音菩薩像は行基の作と伝えられる。頂上は伊勢の森と呼ばれ、そこからの
	展望は極めて良いとされ、瀬戸内海国立公園に指定されている。山の周囲は椎・杉を主木とする原生林で覆われている。
	境内に自生するスタジイ・アカガシ・モチノキ・ヤマボウシの群落は県指定の天然記念物になっている。 

	桓武天皇の世、延暦四年(785)早良親王が皇位継承紛争の渦中に皇子で、そのため廃太子となり淡路に配流される
	途中逝去し、遺骸のまま流された。当時、都では天変地異、悪疫蔓延、これらは親王の霊魂の祟りであるとして、その
	霊を鎮めるため、延暦十九年七月(800)崇道天皇と追号、また延暦二十四年正月二十四日(805)桓武天皇は勅
	使を当山に派遣して勅願寺とし、七堂伽藍を建立、本尊を安置し佛事信心を怠らず、故に当山は隆盛した。
	700年余後、永禄年中(1058)戦国時代の兵火により堂塔僧坊残らず焼失したが、御本尊十一面千手観世音菩薩
	は焼失からまぬがれた。




	<早良親王(さわらのみこ)>  生没年 750(天平勝宝2)〜785(延暦4) 

	光仁天皇の皇子。母は高野新笠。能登内親王・桓武天皇の同母弟。妻子がいたという記録はない。立太子以前親王禅師
	と称され、死後崇道(すどう)天皇と尊称された。761(天平宝字5)年、11歳のとき出家し、東大寺等定僧都を師とし、羂
	索院に寄住。768(神護景雲2)年、東大寺より大安寺東院に移住。770(宝亀1)年、21歳のとき登壇受戒。同年父白壁王が
	即位し(光仁天皇)、以後親王禅師と呼ばれた。この頃東大寺運営の主導権を握ったとも言われ、宝亀2年には実忠に命
	じて大仏殿副柱を構立している。781(天応1)年4月、兄山部親王が即位する(桓武天皇)と、皇太弟に立てられた。この
	時32歳。仏教界に重きを置き人望もあった早良親王を父光仁が推輓したものかという。同年4.14、藤原田麻呂が東宮傳、
	大伴家持が春宮大夫、林稲麻呂が春宮亮となる。一説に、この頃家持が集めた歌集が早良皇太子に献上され、後の万葉
	集勅撰の契機となったともいう。




	延暦3年(784)、桓武帝は長岡へ都を遷した。ここで事件が起こった。785(延暦4)年9.23夜、長岡京造営工事を検分中
	の藤原種継が賊に弓で射られ翌日死亡したのである。当時の朝廷は、新興貴族の藤原氏と、旧勢力の大伴家持(おおと
	もやかもち)一族が反目しており、また、皇室内も桓武天皇の子安殿(あて)親王と、光仁天皇(桓武天皇の父)の遺
	志で皇太子に立てられた早良親王との、皇位継承の問題が微妙な時であった。種継の暗殺されたことを知って長岡に戻
	った桓武天皇は徹底的に追求。とり調べの結果、家持・五百枝王・紀白麻呂・大伴継人・大伴永主・林稲麻呂らによる
	皇太子早良親王を担いだ謀反であると断定される。桓武天皇は、反目勢力の大伴継人をはじめ、その関係者の数十人を
	わずか一日で処刑してしまった。





	親王は乙訓寺(現長岡市今里)に幽閉され、淡路へ配流されることになった。親王は無実であることを訴え、自ら食を断
	った。そして10日余りが経ち、宮内卿、石川恒守らが淡路へ移送する途中、高瀬橋頭(河内国、淀川の橋)で絶命し
	た。恒守は、そのまま早良親王の遺体を淡路へ運んで葬った。

	異変が連続して起こったのは、それからである。桓武帝の妻の藤原旅子が死に、ついで母の高野新笠、皇后藤原乙牟漏
	が次々と他界。さらに皇太子安殿の病気が長びいているのを占ったところ、皇位を廃された早良親王の祟りとでた。朝
	廷はさっそく諸陵頭調使王(しょりょうかみずしおう)らを淡路国へ遺わし、奉謝を行った。連続する天変地異、天皇
	の周辺に連続して起こる近親者の死。早良祟る、の思いは桓武帝をはじめ為政者たち共通の思いであった。延暦19年
	(800)7月、桓武帝はついに早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈り、遺骨を淡路から運び、墳墓を大和国添山郡八島陵
	に改葬した。そして更なる祟りを恐れ、平城京から遷都した「長岡京」も、わずか10年間という短命の都となり、平安
	京が誕生する。



常隆寺の住職さんに、早良親王の墓への道を教えて貰い、車で5,6分走る。田圃の隅にこんもりとした森が見えてきた。



上左に見えているのが、早良親王の墓、地元では天王(天皇)の森などと呼ばれているそうだ。



墓側からみた光景。眼前に池がある。見えている車が我々の乗った8人乗り日産レンタカー。




	早良親王を廃したことは、おそらく桓武天皇にとって心の負担となり、さらに絶食して死に至らしめたという罪悪感は、
	その後の怨霊騒ぎの素地を造っていたとも言える。桓武天皇の近親者に続く不幸に加え、延暦10年8月には、伊勢神宮
	の正殿などが盗賊に放火されるという異変が起こっている。延暦11年には皇太子に立てた安殿親王が原因不明の重病に
	陥る。こうした凶事は早良の怨霊が祟りを起こしていると陰陽師に言われ、天皇もそれを信じたのである。早良親王を
	乙訓寺に幽閉し死に至らしめたことは、桓武天皇にとって逃れられない罰を背負ったも同然であった。



 


	延暦13年(794)10月22日、都が平安京へ移されて、長岡京はわずか10年たらずの都としてその歴史の幕を閉じたが、早
	良親王の怨霊が平安京遷都の要因の一つとなったことは今日ほぼ定説となっている。親王の怨霊に対する天皇の恐れは
	平安京に移った後も治まらず、延暦16年5月に僧侶二人を淡路に行かせ、墓前に金剛般若経を転読させている。さらに
	18年2月にも春宮亮大伴是成(とうぐうのすけおおともこれなり)と、一人の僧を淡路島へ派遣し供養している。天皇
	の心の負担は想像以上のものであったのだろう。翌19年7月に早良親王に祟道(すどう)天皇の尊号を追贈。再び春宮
	亮を淡路に派遣して墓前に奉告させ“祟り”を避けようとしている。



ここに一旦埋葬され、その後掘り返されて奈良へ運ばれた。思えば桓武天皇は、
怨霊の祟りから逃れるためにだけ生きたような一生を送っている。






	やはり、平成になってから作られた城のようで、瀬戸内を見下ろす北淡の丘陵地に、民間業者が1万坪以上の敷地の中
	に日本庭園を囲むように、天守閣や集古館、美術館を配置して近代的に整備された施設。多くの美術品が展示されてい
	るそうなので、そこの美術品は見る価値があるかもしれない。入場料800円。



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