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早春の淡路島をゆく

洲本市立淡路文化史料館 兵庫県淡路島 2005.2.27







	洲本市立淡路文化史料館 (0799−24−3331)

	当館は、洲本バスセンター洲本から南に歩いて15分、洲本城(下の城)跡にあります。淡路島の歴史と文化を一堂に
	あつめ、淡路島の代表的な博物館として、昭和57年に開館しました。展示資料には考古・歴史資料のほか、国指定重
	要無形民俗文化財である淡路人形浄瑠璃や、全国的にも著名なa平焼、島の人と風土が生みだした美術工芸品や文芸作
	品などがあります。併設の直原玉 青記念美術館には、わが国南画界の最高峰である画伯の作品や、禅と俳句関係のコ
	レクションを展示しており、愛好家にとっては見逃せないものです。【同館HPより。】

	淡路島はかって「淡路国」と呼ばれていたが、豊臣秀吉の時代には洲本(すもと)藩が興る。その後徳川家康の時代に
	なると洲本藩は廃藩され阿波国(徳島県)の一部となり、阿波国領主である蜂須賀氏が治めるようになり、その家臣で
	ある稲田氏が淡路に移り住んだ。












	海門渦潮 Kaimonkachou
	この壮大な渦潮の絵は昭和57年、日中合同美術展に出品された直原画伯の超大作。幼少年期を洲本で育った南画の大
	家直原玉青画伯は作品とそのコレクションを当館に寄贈し、館内に「直原玉青記念美術館」がつくられた。禅宗黄檗宗
	の僧でもあり、また、俳人でもある画伯のコレクションには、南画関係資料のほか、禅の高僧や俳人子規、虚子、井泉
	水の書跡など貴重な資料が集められていて多彩。



	神話の島淡路島

	わが国最古の史書「古事記」「日本書紀」の冒頭をかざる神々の物語。その一つ、いざなぎ・いざなみの夫婦神による
	日本国土創生の物語(国生み神話)は淡路島から始まり、古代の淡路の海人族の伝承であるともいわれる。







	天地初發之時 於高天原成~名 天之御中主~【訓高下天云阿麻下效此】次高御産巣日~ 次~産巣日~ 
	此三柱~者 並獨~成坐而 隱身也
	次國稚如浮脂而 久羅下那洲多陀用幣琉之時【琉字以上十字以音】如葦牙因萌騰之物而 成~名 宇摩志
	阿斯訶備比古遲~【此~名以音】次天之常立~【訓常云登許訓立云多知】此二柱~亦獨~成坐而 隱身也

	  上件五柱~者 別天~ 

	次成~名 國之常立~【訓常立亦如上】次豐雲上野~ 此二柱~亦獨~成坐而 隱身也 次成~名 宇比
	地邇上~ 次妹須比智邇去~【此二~名以音】次角杙~ 次妹活杙~【二柱】次意富斗能地~ 次妹大斗
	乃辨~【此二~名亦以音】次淤母陀流~ 次妹阿夜上訶志古泥~【此二~名皆以音】次伊邪那岐~ 次妹
	伊邪那美~【此二~名亦以音如上】

	上件自國之常立~以下 伊邪那美~以前 并稱~世七代【上二柱獨~各云一代 次雙十~各合二~云一代也】 

	於是天~諸命以 詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱~ 修理固成是多陀用幣流之國 賜天沼矛而 言依賜也 
	故二柱~立【訓立云多多志】天浮橋而 指下其沼矛以畫者 鹽許袁呂許袁呂邇【此七字以音】畫鳴【訓鳴
	云那志】而 引上時 自其矛末垂落之鹽 累積成嶋 是淤能碁呂嶋【自淤以下四字以音】

	於其嶋天降坐而 見立天之御柱 見立八尋殿 於是問其妹伊邪那美命曰 汝身者如何成 答曰吾身者成成
	不成合處一處在 爾伊邪那岐命詔 我身者 成成而成餘處一處在 故以此吾身成餘處 刺塞汝身不成合處
	而 爲生成國土生奈何【訓生云宇牟下效此】伊邪那美命答曰然善 爾伊邪那岐命詔 然者吾與汝行迴逢是
	天之御柱而 爲美斗能麻具波比【此七字以音】如此云期乃詔 汝者自右迴逢 我者自左迴逢 約竟以迴時
	伊邪那美命先言 阿那邇夜志愛上袁登古袁【此十字以音下效此】 後伊邪那岐命言 阿那邇夜志愛上袁登
	賣袁 各言竟之後 告其妹曰 女人先言不良 雖然久美度邇【此四字以音】興而 生子水蛭子 此子者入
	葦船而流去 次生淡嶋 是亦不入子之例


	天地(あめつち)初めて發(おこ)りし時、高天原(たかあまのはら)に成りし~の名は、天之御中主
	(あめのみなかぬし)の~【高の下の天を訓(よ)みて阿(あ)麻(ま)と云う。下(しも)、此(こ)
	れに效(なら)え】。 次に高御産巣日(たかみむすひ)の~。 次に~産巣日(かむむすひ)の~。 
	此の三柱(みはしら)の~はみな獨~(ひとりがみ)と成り坐(まし)て、身を隱しき。

	次に國稚(わか)く浮かべる脂(あぶら)の如くして久(く)羅(ら)下(げ)那(な)洲(す)多
	(た)陀(だ)用(よ)幣(へ)琉(る)時【琉の字より上(かみ)の十字は音を以ちてす】に、葦牙
	(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因(よ)りて成りし~の名は、宇摩志阿斯訶備比古遲(うま
	しあしかびひこぢ)の~【此の~の名は音を以ちてす】。 次に天之常立(あめのとこたち)の~【常
	を訓みて登(と)許(こ)と云い、立を訓みて多(た)知(ち)と云う】。 此の二柱の~も、みな獨
	~と成り坐(まし)て身を隱しき。

     上(かみ)の件(くだり)の五柱(いつはしら)の~は、別(こと)天(あま)つ~。 

	次に成りし~の名は、國之常立(くにのとこたち)の~【常・立を訓むことまた上の如し】。 次に豐
	雲野(とよくもの)の~。 此の二柱の~もまた獨~と成り坐(まし)て身を隱しき。 次に成りし~
	の名は、宇比地邇(うひぢに)の~、次に妹(いも)須比智邇(すひぢに)の~【此の二はしらの~の
	名は音を以ちてす】。 次に角杙(つのぐい)の~、次に妹(いも)活杙(いくぐい)の~【二柱】。
	次に意富斗能地(おほとのぢ)の~、次に妹(いも)大斗乃辨(おおとのべ)の~【此の二はしらの~
	の名もまた音を以ちてす】。次に淤母陀流(おもだる)の~、次に妹(いも)阿夜訶志古泥(あやかし
	こね)の~【此の二はしらの~の名は皆音を以ちてす】。 次に伊邪那岐(いざなき)の~、次に妹
	(いも)伊邪那美(いざなみ)の~【此の二はしらの~の名も音を以ちてするはまた上の如し】。

	上(かみ)の件(くだり)の國之常立の~より下(しも)、伊邪那美の~より前(さき)を并(あわ)
	せて~世七代(かみよななよ)と稱(い)う。【上の二柱の獨~はおのおの一代(ひとよ)と云う。次
	に雙(たぐ)える十はしらの~はおのおの二はしらの~を合せて一代と云う】 

	是に天つ~の諸(もろもろ)の命(みことのり)以ちて、伊邪那岐(いざなき)の命・伊邪那美(いざ
	なみ)の命、二た柱の~に、「是の多(た)陀(だ)用(よ)幣(へ)流(る)國を修理(つくろ)い
	固め成せ」と詔(の)りて、天の沼矛(ぬぼこ)を賜(たま)いて言依(ことよ)さし賜いき。 故
	(かれ)、二柱の~、天の浮橋に立【立を訓みて多(た)多(た)志(し)と云う】て、其の沼矛を指
	し下して畫(か)かせば、鹽(しお)許(こ)袁(お)呂(ろ)許(こ)袁(お)呂(ろ)邇(に)
	【此の七字は音を以ちてす】畫(か)き鳴【鳴を訓みて那(な)志(し)と云う】て引き上げる時に、
	其の矛の末より垂(したた)り落つる鹽の累(かさな)り積もれる嶋と成りき。 是、淤能碁呂(おの
	ごろ)嶋ぞ【淤より下の四字は音を以ちてす】。

	其の嶋に天降(あまくだ)り坐(ま)して天の御柱(みはしら)を見立て、八尋殿(やひろどの)を見
	立てき。 是に其の妹、伊邪那美の命に問いて曰く、「汝(な)が身は如何にか成りつる」。 答えて
	「吾(あ)が身は成り成りて成り合わざる處一處在り」と白(もう)しき。 爾(しか)くして伊邪那
	岐の命、「我(あれ)が身は成り成りて成り餘れる處一處在り。 故、此の吾(あ)が身の成り餘れる
	處を以ちて、汝(な)が身の成り合わざる處に刺し塞ぎて國土(くに)を生み成さんとおもう。 生む
	こと奈何(いかに)【生を訓みて宇(う)牟(む)と云う。下、此れに效え】」と、詔(の)りき。 
	伊邪那美の命、答えて曰(いわ)く、「然(しか)善(え)けむ」。  爾くして伊邪那岐の命、「然
	あらば吾(あ)と汝(な)と是の天の御柱を行き迴(めぐ)り逢いて美(み)斗(と)能(の)麻(ま)
	具(ぐ)波(は)比(ひ)【此の七字は音を以ちてす】せん」と詔りき。 かく期(ちぎ)りて乃ち、
	「汝(な)は右より迴(めぐ)り逢え、我(あれ)は左より迴り逢わん」と詔らして、約(ちぎ)り竟
	(お)えて迴る時に、伊邪那美の命先(ま)ず「阿(あ)那(な)邇(に)夜(や)志(し)愛(え)
	袁(お)登(と)古(こ)袁(お)【此の十字は音を以ちてす。下、此れに效え】」と言い、後に伊邪
	那岐の命「阿(あ)那(な)邇(に)夜(や)志(し)愛(え)袁(お)登(と)賣(め)袁(お)」
	と言い、各(おのおの)言い竟(お)えし後に其の妹に告げて曰く、「女人(おみな)先に言えるは良
	からず」。 しかれども久(く)美(み)度(ど)邇(に)【此の四字は音を以ちてす】興(おこ)し
	て生みし子は水蛭子(ひるこ)。 此の子は葦船に入れて流し去(う)てき。 次に淡嶋(あわしま)
	を生む。 是もまた子の例(たぐい)に入れず。
























	三角縁神獣鏡 Sankakubuchi Shinjuukyou

	鏡の外縁の断面が三角形で内に神と獣が描かれていることから三角縁神獣鏡と呼ばれている。これは淡路唯一の三
	角縁神獣鏡である。〔洲本市下加茂コヤダニ古墳出土〕






















	木簡 Mokkan

	奈良時代に税として奈良の都に送られた米や塩に付けられた荷札である。木簡は当時の 地名、住人の氏名、生産
	品目などを知ることのできる貴重な資料。












	鉄造宝塔(県指定文化財) Tetsuzou Houtou

	鋳鉄製の宝塔の身部の残欠。本来は方形の台座に乗って九輪の付いた宝形造りの屋根を備えていた。鎌倉
	末期の文保2年〔1318〕の銘があり鋳鉄製の宝塔としては国内最古級のもの。





 



 

 
















	矢羽根紋衝立 Yabanemon Tsuitate

	丸に矢羽根の紋所は徳島藩の筆頭家老であり洲本城代・洲本仕置を勤めた稲田氏の家紋である。けやきの一枚板
	に家紋を浮き彫りにしたこの衝立は、大名格の1万4500石もの家禄を受けていた稲田家の屋敷の玄関を飾る
	にふさわしい堂々としたもの。











	庚午事変(稲田騒動) 
	--------------------------------------------------------------------------------
	明治3年5月13日の早朝、徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折、蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩
	青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸
	や益習館(稲田家の学問所)、宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、火を放
	った。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、別邸や益習館などが焼失
	と多数に及んだ。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。 
	ことの起こりは、明治維新に伴なう禄制改革で稲田氏の家臣を士族とするか卒族とするかという、武士の身分問
	題、そして経済問題であった。 
	江戸時代の淡路は、阿波の蜂須賀氏の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。この稲田氏は単
	なる家老ではなく、蜂須賀氏との間には次のようないきさつがあったといわれる。蜂須賀氏の祖である小六正勝
	と稲田氏の祖の植元の間には義兄弟の約束が結ばれ、ともに豊臣秀吉のために戦った。蜂須賀氏が龍野5万3千
	石の領主になったとき、稲田氏にも河内2万石を与えようという話もあったが、稲田氏は客分として蜂須賀氏に
	とどまったという。このため蜂須賀氏が、阿波・淡路の領主になると、1万4千5百石という大名並みの知行地
	をもらい、多数の家来を抱えて、洲本城代や淡路仕置職に度々任じられた。 

	稲田氏は、豊かな経済力をもち、また公卿とも縁組みをするなど、その地位は高かった。幕末には、蜂須賀氏が
	公武合体派であったのに対し、稲田氏とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。このようなこ
	とから稲田氏の家臣は、蜂須賀氏の家臣から陪臣として軽蔑されながらも、一種の誇りをもっていた。 
	明治政府は、明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすこととした。稲田家当
	主は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家家臣は陪臣のため卒族にされることとなった。卒族で
	は藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかった。また、稲田家との主従
	関係が断ち切られることに対する不満も強かった。 
	稲田家臣は、三田昂馬を中心として、士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。 
	このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら
	洲本在住の一部過激派の決起となったのである。 
	阿波でもその日、本藩藩士の不穏な動きがあったので、脇町近辺在住の家臣の中には高松藩領へ逃げ込んだ者も
	多かった。 
	この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく、徳島藩側主謀者10人がうち首(のちに切腹)、八
	丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。 
	一方、稲田家側は、10月15日、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返
	上、現北方領土)への移住開拓が申しされ、翌年日高国静内へと移っていった。今日名馬の産地として有名な静
	内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられている。 
	【洲本市HPより転載】




	どうして淡路島には鉄道が無いのだろうと思っていたが、かってあったのだ。してみると採算に合わない人口なの
	だろう。ツーカーホンに勤める西本さんが言っていたが、洲本ではSHOPを1軒だすには人口が足り無かったと言う
	し、鉄道も、作っては見たがおそらく乗客が足りなかったものと思われる。



そのかわり航路は今もたくさんある。これらの航路の大半は今でも運行していると言う。



 


	「船だんじり」

	舟の形をした引きだんじりで江戸後期の貴重なもの。かつては島の浦々にあったが、今は数台しか残っていない。
	淡路の引きだんじりは屋根に破風のついた屋台だんじりが一般的である。舁きだんじりはふとん状の屋根を重ねた
	ふとんだんじりが一般的。

 







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