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早春の淡路島をゆく

洲本城 兵庫県淡路島 2005.2.27







	洲本城 淡路三熊山(兵庫県洲本市小路谷1272-2)

	瀬戸内海の東域に浮かぶ淡路島の中央南東部に位置し、大阪湾、紀淡海峡、紀伊水道に面し、神戸・大阪まで約60
	kmの距離にある。また、瀬戸内海型気候に属し、温暖で暮らしやすい気候である。市域の中心部を洲本川が大阪
	湾に流れ込み、下流域には城下町を基盤とする中心市街地が形成されている。大浜公園、三熊山、成ヶ島(淡路橋
	立)などは瀬戸内海国立公園の指定地域であり、景勝地の宝庫でもある。

 



 

 






	洲本城には約500年の歴史があり、永正年間(1500年)頃、和歌山県の紀伊熊野安宅庄を拠点にしていた熊野水軍
	の安宅(あたぎ)氏が、大阪湾付近の要として大永6年(1526)三熊山に築城したのが始まりである。
	天正9年11月(1581)織田信長の命により、羽柴秀吉が淡路を攻めた。洲本城は土塁と堀により砦を守る、典型
	的な中世の山城で、しょせん織田軍の鉄砲隊の敵ではなかった。安宅清康は開城し信長を安土に訪れるが、帰国後
	病死し、これにより淡路安宅氏は滅亡した。

 




	天正10年(15826月)、山崎の合戦に向かう秀吉は、武将の仙石権兵衛、石井与次兵衛を洲本に差し向け、洲本
	城を占拠させる。8月には仙石権兵衛秀久が洲本城主となり、四国攻めの準備で洲本城を修築、水軍を強化し始め
	る。天正13年(1585)秀吉の四国攻めがはじまり、11月、脇坂甚内安治(中務少輔)が洲本城主となる。これ
	から洲本城の本格的な修築がはじまる。現在の遺構は殆どが脇坂氏在城中に修築したものである。








	関ヶ原の戦いでは、洲本城は東軍へ寝返り、家康側で奮戦したが戦後は放置された。慶長16年(1610) 池田輝
	政の三男忠雄が淡路国の領主となり、洲本城は廃城になり、由良城山城に居城した。元和元年(1615)、徳島藩主蜂
	須賀至鎮が淡路城主となり、寛永8年(1631)、由良は淡路の東南隅にあり、土地も矮小で城下の経営も出来ない
	ことを理由に、幕府に申請して、洲本の地に城地を移転した。移転作業は、寛永12年まで続き、山上の城郭は使
	用せず、山裾に居館、石垣をを設けて城郭とした。以後洲本が淡路の中心となる。しかし修築がなったころは世は
	すっかり太平のムードであった。そこで、三熊山の麓に館を設け、平常の生活はこの麓で営まれ、至鎮は、この洲
	本城に猛将稲田九郎兵衛示誠を城代にした。その後代々稲田氏が居城したが、寛永19年(1642)に至り、三熊山の
	城を廃し、麓の館をもって藩庁にした。












	城下町は、洲本川・千草川の地形を利用し、本格的に縄張りされていおり、この状態が明治5年(1872)の廃藩置
	県まで続いた。山頂付近、北斜面は公園地として洲本町へ払い下げられ、山麓の城地は裁判所、検察庁、拘置所、
	淡路文化資料館となっている。「淡路文化資料館」へ行けば詳しい資料と説明があり、遺物も展示されている。




	なお洲本では、1870年「庚午事変(稲田騒動)」が勃発しその結果、翌年、稲田邦植以下家臣全員が北海道静内郡
	と色丹島への開拓移住を命じられた。北海道静内町と洲本とは、その縁で姉妹都市となっている。


	庚午事変(稲田騒動) 
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	明治3年5月13日の早朝、徳島県知事、稲田九郎兵衛邦植とともに上京の折、蜂須賀家臣ら洲本在住の徳島藩
	青年武士800人、銃士100人と銃卒4個大隊、砲4門からなる部隊が、洲本下屋敷町の家老稲田邦植の別邸
	や益習館(稲田家の学問所)、宇山の稲田武山邸や市中の稲田家臣の屋敷を襲い、無抵抗の者を殺傷し、火を放
	った。これによる稲田家側の被害は、自決2人、即死15人、重傷6人、軽傷14人、別邸や益習館などが焼失
	と多数に及んだ。この年は庚午の年であったことから、庚午事変とも呼ばれている。 
	ことの起こりは、明治維新に伴なう禄制改革で稲田氏の家臣を士族とするか卒族とするかという、武士の身分問
	題、そして経済問題であった。 
	江戸時代の淡路は、阿波の蜂須賀氏の支配下にあり、洲本には家老の稲田氏が派遣されていた。この稲田氏は単
	なる家老ではなく、蜂須賀氏との間には次のようないきさつがあったといわれる。蜂須賀氏の祖である小六正勝
	と稲田氏の祖の植元の間には義兄弟の約束が結ばれ、ともに豊臣秀吉のために戦った。蜂須賀氏が龍野5万3千
	石の領主になったとき、稲田氏にも河内2万石を与えようという話もあったが、稲田氏は客分として蜂須賀氏に
	とどまったという。このため蜂須賀氏が、阿波・淡路の領主になると、1万4千5百石という大名並みの知行地
	をもらい、多数の家来を抱えて、洲本城代や淡路仕置職に度々任じられた。 

	稲田氏は、豊かな経済力をもち、また公卿とも縁組みをするなど、その地位は高かった。幕末には、蜂須賀氏が
	公武合体派であったのに対し、稲田氏とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。このようなこ
	とから稲田氏の家臣は、蜂須賀氏の家臣から陪臣として軽蔑されながらも、一種の誇りをもっていた。 
	明治政府は、明治2年に武士の身分を士族と卒族に分け、禄高もこの身分に応じて減らすこととした。稲田家当
	主は、一等士族として最高の千石給与となったが、稲田家家臣は陪臣のため卒族にされることとなった。卒族で
	は藩から僅かな手当てが与えられるだけなので、将来の生活に対する不安は大きかった。また、稲田家との主従
	関係が断ち切られることに対する不満も強かった。 
	稲田家臣は、三田昂馬を中心として、士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。 
	このような稲田家の動きが、蜂須賀本藩一部の家臣の激しい怒りをかい、平瀬伊右衛門・大村純安・多田禎吾ら
	洲本在住の一部過激派の決起となったのである。 
	阿波でもその日、本藩藩士の不穏な動きがあったので、脇町近辺在住の家臣の中には高松藩領へ逃げ込んだ者も
	多かった。 
	この事件に対する中央政府からの処分は予想以上に厳しく、徳島藩側主謀者10人がうち首(のちに切腹)、八
	丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に至るに及んだ。 
	一方、稲田家側は、10月15日、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返
	上、現北方領土)への移住開拓が申しされ、翌年日高国静内へと移っていった。今日名馬の産地として有名な静
	内の丘の上には開拓100年を記念して彼らの苦闘を語る大きい記念碑が建てられている。 
	【洲本市HPより転載】







	洲本城は別名三熊城ともいい、標高133m、三熊山(高熊山)の山頂にある。現在の3層の天守閣は1928年
	(昭和3年)に模擬天守として築かれた鉄筋コンクリート製である。御大典を記念して、鉄筋コンクリート造り工
	費一万円で築かれたもので、鉄筋コンクリート模擬天守閣としては、第一号であった。内部に入る事ができ、洲本
	市街地から大阪湾、紀淡海峡をはさんで和歌山までを見渡す事の出来る、洲本八景にも選ばれている素晴らしい眺
	望が楽しめる。






	洲本城は、三熊山山頂の山城(上城)と、北山麓に蜂須賀氏によって政庁として築かれた御殿(下城・平城)の二つ
	から構成されている。東西800m 、南北600mに及ぶ広大堅固な西日本最大の要塞といわれていたが、現在
	では石垣や石段しか残っていない。三熊山は原生林に覆われた自然公園で、世界唯一の木であるシロミノヤブムラ
	サキをはじめ、貴重な植物が自生する美しい山である。



 










	皆様おつかれ様でした。「早春賦」の世界をかいま見た、春の息吹が感じられる例会でしたね。やはり南国の春は
	早いなと思いました。河内さん、長時間の運転ありがとうございました。また宜しくお願いします。



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