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ひょうごの歴史

能福寺



	<能福寺>

	延暦二十四(805)年、最澄は唐留学の帰りに和田岬へ上陸し、自作の薬師如来像を本尊として安置し「能福護国密
	寺」としたのが始まりとされる。平清盛は仁安五(1181)年当寺で剃髪したと言う。養和元(1161)年に清盛が京都
	で没した時、その遺言にのっとり、初代住職・円実法眼が遺骨を首に掛けて持ち帰り、法華堂に納めたと伝えられる
	が、その所在地は不明である。現在当寺には清盛廟がある。また清盛の弟教盛の子である忠快が、源平の合戦にて全
	焼した寺を、寿永二(1183)年に再建し、文治二(1186)年には、一ノ谷合戦の戦死者を追追悼し、千僧供養を行っ
	た。
	境内には、奈良、鎌倉に並ぶ日本三大仏の一つと称する兵庫大仏がある。胎蔵界大日如来像【毘慮舎那物】で、本体
	11m、蓮台3m、台座4m。初代は明治24(1891)年に、兵庫の豪商南条荘兵衛が寄進したもので、昭和19年、
	金属回収令で国に供出したため長い間台座だけになっていたが、平成3年5月に関係者の努力によって再建された。
	当寺にはまた、神戸事件で切腹を余儀なくされた滝善三郎の供養碑や、ジョセフ・ヒコの、寺の縁起を記した日本初
	の英文碑、新川運河開削に寄与した北風正造の顕彰碑などがある。

 

 




	<神戸事件>

	慶応4(1868)年1月11日、朝廷から摂津西宮の守備を命じられた岡山藩士の一行が、神戸の三宮神社に差しかか
	った時、一人のフランス兵がこの行列を横切ろうとした。岡山藩の大砲隊長の滝善三郎はフランス兵の背中を、傷つ
	けないように穂先を覆った槍でついた。怒ったフランス兵はいったん今までいたタバコ店に引っこんだが、手にピス
	トルを持ち再度現われた。これを見た滝善三郎は「鉄砲、鉄砲」と叫んだが、それを聞いた鉄砲隊が発砲命令だと思
	いこみ、一斉に威嚇射撃を開始した。
	当時、神戸には、外国人の生命を守るという理由でイギリスやフランスの軍艦が停泊していたが、この事件に怒った
	外国勢は神戸の町を占領してしまう。諸外国は、司令官が銃を撃つように命令した、日本の撃った銃で死者が出た、
	イギリスの国旗が撃たれたなどと、事実無根を並べ立て日本に責任を取れと要求した。出来たばかりの明治新政府は
	返事に困り、「幕府に代わって新しい政府を認めさせるには、外国の要求を受け入れた方が良い」と考え、岡山藩は、
	無実の事件に対して責任を取らされることになった。
	
	新政府に脅された岡山藩では、滝善三郎に事件の責任をとり切腹するように命じた。明治元(1868)年、2月9日午
	後11時過ぎ、神戸の永福寺にて、外国軍人の検視7名と伊藤俊介(のちの伊藤博文)ら日本人検視7名の目の前で、
	滝善三郎は、刀を腹に押し当てた瞬間に介錯人が首を落とすという当時の作法ではなく、日本古来の切腹を行い、腹
	を真一文字に切り裂いて果てた。居並んだ人々の、とりわけ外国人の驚きはすごかったという。
	そして、滝善三郎一人の犠牲によって、外国は明治新政府を日本の代表と認め、岡山藩も無事だった。岡山藩は事件
	後、善三郎の息子成太郎を、善三郎の五倍の俸禄500石にて召し抱えている。永福寺に立てられた彼の供養碑は、
	同寺の消失後、ここ能福寺に移された。




	この事件から1月余り後には、今度は同じ港町である堺にて「堺事件」が発生する。外国人の往来する港町は絶えず
	こうしたトラブルを抱えていたのであろう。堺のレポートは「我が町大阪府の文化財」コーナーの堺市に収めている
	が、事件の概要だけ、以下に転記する。堺には「とさのさむらい はらきりのはか」と彫られた石柱があり、一般に
	は「土佐十一烈士の墓」と呼ばれている。

	<堺事件>

	慶応4年(1868)2月15日、フランス軍艦デュクプレス号が堺沖に回航し、数十名が2隻のボートで上陸した。当時、
	堺の町は土佐藩の兵士が警備していた。箕浦猪之吉(みのうらいのきち)・西村左平次(にしむらさへいじ)を隊長
	とする藩兵たちは、何のために上陸してきたかわからないフランス人水兵を船に戻すべく、説得に出動した。しかし
	言葉が通じず、また水兵が店先にあった隊旗を奪うなどの行為に出たため7人を殺傷するという結果になった。これ
	は諸外国の強く抗議する所となり、下手人である隊長以下全員を斬首する事、土佐藩がフランスに15万ドルを支払
	うこと、など5項目の要求を政府に突きつけた。その結果、2月23日、箕浦・西村両隊長以下20名が妙国寺で切
	腹する事になった。
	切腹には日仏代表が立ち会ったが、順々に切腹していく者達が、フランス代表をものすごい形相でにらみつけ、中に
	は死に往きながら罵詈雑言を代表に投げかける者もおり、箕浦に至っては、割腹した腹から飛び出した内蔵を自らの
	手でつかみ、代表に投げつけるという、凄惨を極める光景となった。
	青ざめていたフランス代表は、11人が切腹したところで残りの者の助命を乞い、引き上げてしまった。のこり9名
	は口々に、「俺も殺せ!」と去るフランス代表に向かって叫び続けたと記録されている。








	上記立札の説明文。


	平清盛墓所 八棟寺殿 平相国廟

	平安の末期(養和元年、西暦一、一八一)平清盛公の薨去によって能福寺の寺領内にあった太平山八棟寺に公の墓所平
	相国廟が造立されたと云う。しかし平家滅亡と同時にことごとく破壊され、能福寺も灰燼に帰した。以後廟は再建さ
	れることなくその存在すら忘れ去られていた。
	百余年後の弘安九年(一、二八六)二月、平家一門の栄華盛衰を哀れんだ時の執権北条貞時公はその近くに一基の石塔
	を建て、清盛公の霊を弔った、と能福寺の古文書に見える。現在に伝わる清盛塚十三重石塔(県指定重文)がそれであ
	る。今、諸々の古記録文献には「京、愛宕山にて火葬荼毘にふし圓實法眼、全骨を福原に持ち来り、経ヶ島に納め……
	(又は)能福寺の東北に埋葬し……云々」等々とあるから、遷都をも決断したほど兵庫の地を愛した清盛公の遺言に依
	り全骨を福原に持ち帰った事が史実ならば、歴史上、真の墓はかつて平安末期、能福寺々領内にあった平相国廟と考
	えられる。
	奇しくも本年清盛公の八百回大遠忌を迎えるにあたり、平家物語類書にも有名な平相国廟を建立復興し、併せて圓實
	法眼寶篋印塔、忠快法眼印塔を合祀した。
	現在わが国最大の国際貿易港として繁栄する神戸港湾の基礎を作った根元としての平清盛公に対して今、報恩謝徳の
	意を込めて、ここに安らかにお眠りになる廟を造り奉る。
	願わくば日本の国土と民衆を、兵庫県民を、神戸市民を守護したまえ。
							昭和五十年二月 能福寺第二十四世貫主 弘善識






	清盛塚十三重石塔(県指定重文:上左)、と阪神・淡路大震災で落ちたと思われる仏頭(上右)。石の作り物ではある
	が、仏様の頭がこんなに無造作にうち捨てられているのは胸が痛む。











 






	散策中に、幼稚園の壁に神戸の歴史を描いた絵巻物(?)があった。幼稚園から兵庫の歴史を学べば、ふるさとに対
	する愛着も湧く事だろう。


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