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ひょうごの歴史

清盛塚から新川運河へ







	清盛塚のほうへ戻る。橋の上からみんなが川を眺めていた。でっかいボラの群れが泳いでいる。「これ、小骨が多うて
	おいしないんよね。」「へぇー、そう」「でも、大きいねぇ」とか、オバサン連中が話している。





	<清盛塚(きよもりづか)>

	切戸町の南端にある「清盛塚」とよばれる十三重石塔は、高さ約8.5mの石塔で「弘安9年(1286年)2月」の年号が
	刻まれている。延宝八(1680)年の書物「福原びんかがみ」に北条貞時が建立したと記されている。もともとは現在よ
	り南西11mの場所にあったが、 大正12年に旧神戸市電の道路拡張工事に伴い移転された。そのときの調査で遺骨
	は発見されず、墓ではなく供養塔であることが判明した。現在、石塔の隣には、昭和和47年に、柳原義達氏の作にな
	る平清盛像が立てられた。また隣には、清盛の長男で琵琶の名手だった、平経正(つねまさ)にちなんだ「琵琶塚」碑
	が建てられている。ここは、もともとは前方後円墳であったようである。













	<兵庫住吉神社>
	祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后である。いずれも航海安全や交通安全に関係する神である。明
	治の初め、新川運河掘削の併せて、大阪の住吉神社から分霊されたもの。清盛塚・琵琶塚はこの神社の境内にある。






兵庫運河と新川運河。下が新川運河である。




	<人をつなぐ「運河」と「兵庫津の道」>

	2003年6月、奈良時代の港であった「大輪田泊(おおわだのとまり)」の遺跡が発見された兵庫区の南部地域(北
	分校の南部)一帯には、多くの史跡や文化財が点在している。古くから海陸の交通の要所として栄え、初代兵庫県庁も
	この地に置かれた。また、この地域は明治時代に完成した兵庫運河・新川運河があることでも有名である。さまざまな
	企業活動に利用されてきたこの日本最大級の運河も、地域の誇る貴重な財産となっている。




	以下、青字は神戸市HPより。


	<兵庫運河の開削>

	水面積が約34haと日本最大級の規模を誇る兵庫運河。奈良時代以来,兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ港を中心に栄え
	てきましたが,和田岬が船の難所で船の被害が大きかったことから,兵庫出在家町の豪商・神田兵右衛門によって兵庫
	運河の築造が計画されました。1874(明治7)年に着工しましたが工事は難航し,1876(明治9)年に船舶の避難地とし
	て新川運河だけが完成しました。
	その後,八尾善四郎などの尽力により,和田岬を迂回するバイパスとして1896(明治29)年に着工され,1899(明治32)
	年12月に兵庫運河全体が完成しました。このように,幾多の苦難を乗り越えて,民間活力によりこの一大事業が成し遂
	げられたのです。開削から100年余りが経った兵庫運河は,それ自体が貴重な歴史資源でもあるのです。 
 
	<兵庫運河の現状>

	兵庫運河は,3つの運河から成り立っており,兵庫・新川・苅藻という3つの運河の総称です。水面積は合計約34haと,
	日本最大級です。しかし,大正から昭和初期の頃にかつてあった運河周辺の一大商工業地域としてのにぎわいと活力は
	現在なく,川崎重工業をはじめ27社の企業(平成14年10月現在)が運河とその沿岸を利用するにとどまっています。  
	平成5年には,市民に親しまれる運河沿いの空間,散策道として「新川運河キャナルプロムナード」が神戸市により整
	備されました。延長約350m,水上広場やベンチ,植栽などがあり,市民の憩いの場となっています。兵庫運河は,当初
	開削された時の目的から,大きくその機能転換を図ろうとしています。 

 

 


	<兵庫運河周辺の歴史>

	一方で,兵庫運河が位置する兵庫区南部には,神戸市の中で最も古い,奈良時代以来の由緒ある歴史があります。
	平清盛の時代には,中国・宋との貿易拠点として,現在の中之島あたりに位置する港の大修築工事が行われ,福原には
	一時都が置かれたこともあります。後に,兵庫のまちは「兵庫津」と呼ばれ,海陸要衝の地として発展していきました。
	室町時代には,中国・明との交易,江戸時代には,瀬戸内海有数の港町としてにぎわいをみせます。司馬遼太郎の歴史
	小説『菜の花の沖』では,近世兵庫津繁栄の時代が生き生きと描かれています。
	そして,江戸から明治への転換期,慶応3年(1968年1月)に兵庫港(神戸)が開港すると,明治元年には,最初の県庁が
	この地に置かれました。県名にも兵庫の名が採用され,伊藤博文が初代知事となりました。以来,明治22年4月の神戸市
	誕生をはさみ,市街地の急拡大と今日の神戸港発展を支えてきたのです。
	しかし,太平洋戦争では空襲で大きな被害を受け,また平成7年1月の阪神・淡路大震災を経て,市街地の家屋・施設と
	ともに,多くの史跡や文化財が被災しました。

	<これからのまちづくり>

	運河周辺の歴史的遺産を保存・復元し,後世に継承していこうと,兵庫区南部では住民の活動が活発に行われています。
	「兵庫津の道」沿いなどの史跡を紹介する案内看板や説明板が地元の手で整備されています。
	関西電力神戸電力所柳原変電所の壁面には,地元小中学生により兵庫津の歴史を表した壁画が描かれています。兵庫津
	には,地下鉄海岸線や神戸ウイングスタジアムなど新しいまちの施設も登場しています。新しいものを取り入れる玄関
	口であった「みなと」兵庫津の歴史を活かして,新旧のものが融合し発展していくまちづくりを進めていきたいと思い
	ます。 








上左をクリックして貰えば、運河のパノラマ画面になります。




	<兵庫城跡>
	平清盛が福原京、大輪田泊を築き、繁栄したこの地域は、その後、一の谷の合戦、生田の戦いなどで、戦火の被害を
	受けたが、近世、兵庫城築により平和をとりもどし、その後港町として繁栄した。兵庫城は、織田信長の命により、
	池田信輝、輝政父子が天正9(1581)年、花隈城・天守閣などの用材を加えて築城したものである。兵庫津に近く、
	海陸の要所に築かれた城は防御のため、延長1364mの半円形の高い土堤を築き、外側に幅3.6mの掘をめぐら
	した。この土堤内に寺を集め寺町とし、民衆を集めて城下町とした。これにより、当地は室町幕府、東大寺、興福寺
	の権力を離れることになった。
	江戸時代には、元和三(1617)年に尼崎藩の陣屋となり、さらに明和六(1769)年に幕府領となってからは大阪町奉
	行所の与力や同心の勤場所として明治になるまで続いた。






	明治新政府は、慶応四(1868)年1月22日に、この城跡の一部に兵庫鎮台を設け、後、2月2日に兵庫裁判所と名
	前を変えた。5月23日には兵庫県が設置され、ここに兵庫県庁が設けられた。そして初代県知事として27才の伊
	藤博文が着任した。その後、県庁は同年9月18日(9月8日より明治と改元)に現在の神戸地方裁判所の地に移り、
	さらに明治六(1873)年現在地に移転した。




	明治8(1875)年、兵庫城内を貫くかたちで兵庫新川(運河)が造られ、近代化が進むなか兵庫城の痕跡はほとんど
	失われてしまった。天守閣のあった辺りは、今は運河となり、城を囲む土塀や堀も取壊された。中之島の県庁跡に建
	てられた、神戸で最も古い組織化された学校であった「明親館」も今や運河の底となった。湊口、長沢口、三川口、
	門口、柳原口などの地名は、土塀・堀から城内への門口であったという当時の名残である。
	兵庫城は、名城・姫路城を築いた池田輝政が父と共に造り、大阪城のモデルともなった立派な城だったのである。






	本日例会の午前の部はここでいったん終了し、各自食事の後、三宮で再集合である。神戸市営地下鉄海岸線に乗って
	三宮へ向かう。神戸市営地下鉄・海岸線の中央市場前駅まで2,3分だが、この駅より山側一帯が、かって兵庫城の
	あった地域である。


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