Music: Baby it's You
伏見稲荷神社
歴史倶楽部第71回例会



 



 

京阪電車の「伏見稲荷駅」。ホームにもお狐さんが飾ってあり、色も真っ赤に塗ってある。

 


	【伏見稲荷大社】 
	--------------------------------------------------------------------------------
	伏見稲荷大社は毎年、明治神宮や住吉大社と並んで初詣客の訪問者人数ベスト5に入る。関西では、1、2位を住吉大社と競
	っている。伏見稲荷と言えば「狐」と「焼き鳥」である。電車を降りて大鳥居まであるく参道には、両側に焼鳥屋がズラリと
	並んでいる。しかもその焼き鳥はいわゆる居酒屋で食べる焼き鳥ではない。スズメもツグミもウズラも、姿形がそのまま残っ
	ている。最近はツグミはあまり無いようだが、スズメの姿焼きなどちょっとグロテスクで食べる気はしない。

 


	伏見稲荷大社は全国に3万社を超える稲荷社の総本宮で、宇迦之御魂(うかのみたま)大神を主神として、佐田彦大神・大宮
	能売(おおみやのめ)大神・田中大神・四大神(しのおおかみ)を総称して稲荷大神、または稲荷五社大明神として祀ってい
	る。
	京都伏見稲荷大社が誕生したのは711年とされる。渡来人であり深草の有力豪族である秦氏の子孫「伊呂具秦公(いろぐは
	たのきみ)」が、一族の鎮守神として三柱神(宇迦之御魂大神・佐田彦命・大宮女命)を伊奈利山の三ヶ峰に祀り、神社を開
	き、伊奈利山の神は宇迦之御魂大神であるとした。これによって和銅4年(711)2月初午の日に鎮座と伝えられている。

	神社の起源について「山城国風土記」の逸文に、「秦中家ノ忌寸等の遠祖、伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び
	翔けり、その留った山の峰に“稲”が生じた奇瑞によって稲成りという社名となれり」とある。「秦伊侶具が、餅を的に矢を
	射たところ、餅は白鳥となって稲荷山の山頂三ケ峰に飛び散り、それが落ちた後に稲が生えたので、そこをイナリと言うよう
	になった」というのである。
	稲荷の名は稲生(いねなり)から生じたのだ。それ以後、稲荷山の神は農業神として信仰されてきた。しかし、信仰の起源は、
	これよりも更に古くさかのぼると考えられている。そもそもは、5世紀以降、山背国を中心に近畿一帯に繁栄した渡来系氏族
	である「泰氏」がこの辺り一帯も支配しており、古来から神の宿る山として信仰されていた神体山を氏神として信仰してきた
	ものと考えられている。

 


	渡来人・秦氏
	--------------------------------------------------------------------------------
	桓武天皇が平安京に遷都した背景にも秦氏の力があったといわれるほどの、有名な渡来系の有力氏族。秦氏が大陸や半島の先
	進技術を日本に伝えたと言われ、一族は蚕(かいこ)や機織(はたおり)、つまり絹の生産や販売を得意とし、これで豪族長
	者になった一族と一般には考えられており、それにあやかりたいと人々が稲荷を信仰する様になり、今日まで続いていると言
	う。秦氏は5世紀以後、西日本一帯に広範囲に勢力を持っていたと考えられ、本拠地は山背国葛野郡(深草里)で、天武朝の
	八色(やくさ)の姓で忌寸姓となる。古くから西日本一帯に渡来し、機織や農耕に従事していた新羅系の人々が、欽明朝に朝
	廷と結びついた山背国の勢力を中心に、氏族としてまとまったものと考えられる。以後、長期にわたって朝廷を支え、一族は
	朝廷の倉の管理と関係が深い。
	推古朝には峰岡寺(広隆寺)を建立した。「日本書紀」には、推古天皇11年( 603)に聖徳太子が、所持する仏像を誰か礼
	拝する者はいないかと臣下に問うたところ、秦河勝が進み出てこれを賜り蜂岡寺を造ったとある。そして、その仏像が国宝第
	1号に指定された、有名な弥勒菩薩半跏思惟像であると言う。




	新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)
	--------------------------------------------------------------------------------
	平安時代初期に編集された「新撰姓氏録」という記録がある。弘仁5年(814)6月に奉じられたものとされ、その当時近畿に
	住んでいた氏族の姓および出自等が伝承されていた1182氏を、皇別、神別、諸蕃に分けて31巻に納めている。諸蕃(渡来およ
	び帰化系氏族)のうち約3分の1の多数を占めるのが「秦氏」であり、それによれば、中国・秦の始皇帝13世孫、孝武王の子
	孫にあたる功徳王が仲哀天皇の御代に、また融通王が応神天皇の御代に、127県の秦氏を引率して帰化した。その際に金銀
	玉帛等を献じ、仁徳天皇の御代にこの127県の秦氏を諸郡に分置して蚕を飼育させ、絹を織らせて献上させた。天皇は、こ
	れらの絹織物は肌膚(ハダ)に温かであると詔せられ、その時に「波多公」の姓を賜ったとされている。降って雄略天皇の御
	代に、秦公酒という者が、天皇の御前に絹帛をうず高く積んで献上したので、「禹都万佐(うずまさ)」という号を賜ったと
	ある。



 


	「お狐さん」を眺めながら、本殿の裏から階段を上り鳥居のトンネルをくぐって行く。我々も名を知っている様々な企業や個
	人が、真っ赤な「千本鳥居」を寄進している。「歴史倶楽部で1本寄進しようか?」「今、希望者が多くて建てて貰うには順
	番待ちらしいでっせ。」「えぇーホンマ!」「1本なんぼくらいするんやろうねぇ。」などと話しながら歩いていると、途中
	に「おもかる石」と呼ばれる石が鎮座していた。願い事をしながら抱きかかげ、その時重く感じたら願いは叶わず、軽ければ
	願いがかなうと言われている。私も抱いてみたが結構重かった。

 




	平安時代には教王護国寺(束寺)の鎮守として、その勢力を背景に広く崇拝され稲荷信仰が広まったものとみられる。中世か
	ら近世には、商業経済の発達にともない、農耕神から商売繁盛の神として各地に勧請された。信仰内容は多面的で一様ではな
	いが、穀霊神の性格が強く、関束・束北地方では、稲荷を屋敷神として祀るところが多い。室町時代の応仁の乱では、稲荷山
	が戦場となって社殿が焼失した。その後、豊臣秀吉が伏見城を築城し、稲荷大神に信仰を寄せて本格的な修復をおこない、こ
	の時代に稲荷信仰も飛躍的に全国に広がった。




	【東丸神社】(あずままろじんじゃ) 
	--------------------------------------------------------------------------------
	伏見稲荷大社外拝殿の南にあるこの神社は稲荷社祠官羽倉家に生まれた、荷田春満(東丸:かだのあずままろ)(1669〜1736)
	を祀っている。春満は寛文9年(1669)、伏見稲荷社の御殿預主膳信詮の次男として生まれた。生家でもある、平家建書院造
	りの荷田春満旧宅の一部が楼門の南側、この神社の西側に保存されている(国指定史跡)。関西では、天満宮と並び受験の神
	様として有名で、我が倶楽部の西本さんも何度となくお参りしたそうである。「霊験あらたかでしたよ。」という。阪大に通
	ってるからそうだろうな。
		
	荷田春満は、僧契沖に始まる近世国学を発展させて、「万葉集」「古事記」「日本書紀」研究の基礎を作り、門下に賀茂真淵、
	その門下の本居宣長、そのまた門下(宣長死後)の平田篤胤と続く、国學の四大人と言われている。

 

東丸神社の脇を抜けて「ぬりこべ地蔵」・石峰神社方面へ向かう。


 
  邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 / 伏見を歩く