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ぬりこべ地蔵・石峰寺
歴史倶楽部第71回例会



 


	【ぬりこべ地蔵】 伏見区深草石峰寺山町 ありの山墓地
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	明治3年(1870)の深草村絵図には、この場所は「ヌリコベ墓」と記入されているそうである。もとは、近くにあった摂取院の境
	外墓地の塗込めの堂宇にあった石像で、歯痛止めの信仰があった地蔵であるとも言う。江戸時代から信仰があったことは確かな
	ようだ。名前の由来は、歯の痛みを封じ込めるという意味、または土壁で塗り込まれたお堂に祀られていたので、その名になっ
	たともいわれる。歯の治療を願って今も参詣者が絶えないと説明にあって、現に花や線香が備えてある。廻りは小さな墓地のよ
	うなので、もともとは何かいわれのある墳墓だったのかもしれない。
 



	【百丈山・石峰寺】ひゃくじょうざん・せきほうじ  黄檗宗単立寺院 伏見区深草石峰寺山町 
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	住宅街の中、石段を登って行き、竜宮造りの赤門と南天並木をすぎると、本堂の背後にもう一つ赤門があり、その奥の竹林には
	鶏の絵で有名な画家、伊藤若冲が下絵を描いた五百羅漢がある。「都名所図会」によれば、この寺は平安時代中頃、源満仲が摂津
	多田郷に開いた石峰寺が起こりといい、本尊薬師如来の夢のお告げにより、慶長の頃因幡堂に移しさらに五条橋東に堂を建て石
	峰寺と号した。宝永年間(1704〜1711)に黄檗宗六世、万福寺の千呆(せんがい)和尚が信仰し、正徳3年(1713)現在地に移転し
	たと伝えられる。かっては諸堂の完備する大寺であったらしいが、度重なる火災で焼失し、現在の本堂は昭和60年(1985)に
	再建されたものである。本堂の裏山に数多くの石仏があるが、この石仏は七代の住職密山和尚とともに江戸時代の画家、伊藤若
	冲が造りあげたものである。若冲が下絵を描きそれを石工に彫らせたもので、釈迦如来を中心に十大弟子、五百羅漢、禽獣鳥類
	などを配している。




	最近また脚光を浴びだした伊藤若冲は、江戸中期(1716〜1800)の画家で、京都錦市場の青物問屋に生まれたが、禅に心を寄せ、
	生涯を独身で通しここに草庵を結んでいた。正徳六年(1716)、京都の高倉錦小路南東角にあった青物問屋「桝屋」の長男とし
	て生まれた若冲は、家が代々伊藤源左衛門を名乗っており,23歳の時父親が亡くなったために,若冲も四代目伊藤源左衛門と
	して店を継いだ。若い頃から特に絵の修行をしたというわけではないようである。20代後半になって、絵を描く事が好きだか
	らという理由で狩野派の絵を学ぶようになったという。
	最初は狩野派の画法を熱心に学び取ろうとしたが,持ち前の才能からか次第に飽き足らなくなり興味は次第に中国宋原画の模写
	に移っていく。この頃,生涯の精神的支柱となる相国寺慈雲庵の僧大典顕常と知り合い, その勧めで若冲という号を使うように
	なった。40歳の時に弟の宗厳に家督を譲り,隠居して絵を描くことに専念する。絵は写生を基礎とした動植物画が有名で,特
	に鶏の絵は画幅から今にも飛びだしそうなくらいリアルである。

 
2000年秋、京都国立博物館で開催された<江戸時代の画家伊藤若沖展>のポスターと入場券

 
	若冲は庭に鶏を多数放し、連日観察しては想を練り制作に取りかかったとされる。花鳥画のシリーズ「動植綵絵」30作を完成させ、
	現在この作品は皇室御物となっている。「写実的なあまりかえって幻想的」といわれる伊藤若冲は、風景画は嫌って描かなかった
	と伝えられている。若沖は明治時代外国で大人気となり、さかんに偽物がつくられ輸出された。


	境内に南天、千両、万両の草花が植わっており、園芸家の錦織さんが寺の女将さん(?:現住職のお母さん)を捕まえて「これは
	何ですか?」と質面責めにしている。正面に本堂があり、寺務所で入山料を払って裏山へ歩いていく。また石段、門がある。門を
	くぐると廻りは一面の竹林。至る所に石仏が見える。


	裏山の五百羅漢は、安政のなかばから天明初年まで、前後十年余をかけて完成したそうで、一体一体が表情豊かな石仏で、今で
	も石仏ファンの訪問が多い。羅漢とはもともと釈迦の説法を聞き世人より供養される者を言うのであるが、釈迦入滅後その教え
	を広めた数多の弟子達(賢者)を賛嘆する意味で使われ、宋、元時代より五百羅漢の作成が見られる。我国に於いても室町時代
	以後この五百羅漢の作成が各地に見られ、その表現は、虚飾のない表情の中に豊かな人間性を秘めている。ここでは、釈迦の弟
	子達が、若冲の磊落な筆法で石仏に彫られ,長年の風雨を得て丸み,苔寂びその風化に伴う表情や姿態に一段と趣きを深めてい
	る。

 


	一説には、天明八年(1788)正月におこった京都大火災で焼け出された若冲が、この石峰寺門前で妹と暮らすようになり、
	60歳にして石峰寺後方の山中に石像の五百羅漢を建立する事を思い立ち、絵1枚につき米一斗分の代金でみずから下絵を描き、
	石の羅漢を一体ずつ石工に彫らせ、奉納配置していったという。釈迦誕生より涅槃に至る一代記を中心とし、諸菩薩、羅漢を一
	山に安置したものである。しかし実際には、天明大火の二年前に刊行された「拾遺都名所図会」にすでに「石像五百羅漢」の記
	事があり、建立はもっと早い時期からはじまったらしい。明治以降荒廃していた羅漢山は龍潭和尚の篤志により,草を払い径を
	開き,個々の石仏の趣を見られるように整備された。若冲は晩年は寺の古庵に閑居し、清貧のうちに寛政十二年(1800)、85
	歳で没した。墓もこの寺にある。



墓は賽の河原の石仏群を下った石峰寺墓地にある。墓の表には、画一枚を米一斗に
代えたことにちなみ「斗米庵若冲居士」と刻まれている。若冲の墓は相国寺にもある。






	石峰寺石仏群は、本堂の背後の裏山の小道に沿って、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る石仏群になっているが、主役
	は羅漢ではなく、あくまでも羅漢は釈迦の一生の物語を飾る脇役である。「天上天下唯我独尊」と姿を現した釈迦誕生仏から始
	まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢群像、釈迦涅槃の場面、賽の河原と続
	いていく。「羅漢さん」は各地で造られているが、釈迦の一生を再現したような石峰寺のものは異色だそうだ。その数は寺によ
	れば約500体で、大きさは数10pから2mくらいで、表情・姿態はいずれも奇抜軽妙である。素朴でユーモラスで見る人の
	心をなごませてくれる。



 

・・・神妙であり洒脱聖俗の間の羅漢たち・・・




	横たわる釈迦を多くの者が取り囲む涅槃場。笑う顔、哀しげな顔、人間ではなさそうな者。こちらを見据えている者、腰をかが
	めている者、目を伏せている者、実に様々な羅漢が居る。半ば摩滅しているものもある。

 

小さな石像群に地蔵がたたずむ賽(さい)の河原。托鉢修行。釈迦、文殊、普賢の三尊がいる説法場。

 


		われもまた 落葉のうえに寝ころびて 羅漢の群に入りぬべきかな (吉井 勇)





 
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