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藤森神社
歴史倶楽部第71回例会






	【藤森神社】 ふじのもりじんじゃ
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	京阪電鉄墨染駅から歩いて5分の所に、馬と勝負の神様と言われる「藤森神社」があり、競馬関係者がよく参詣しているそうで
	ある。勝負は菖蒲に通じ、菖蒲の節句はここが発祥と云われており、宝物館には鎧兜や鉄砲など、また、日本、外国の馬の玩具、
	ミニチュア、武豊などの写真が多数展示されていて、まさしく「馬の博物館」だ。
	神社の歴史は古く、日本書紀によれば、約1800年前、神功皇后が凱旋したときに山城の国深草の里藤森に「いくさ旗」を立
	てて兵具を納め、塚を作り神として祀ったとあり、これをもって神社発祥と言う。(社務所発行:縁起略史)

 


	本殿(中座)には素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇が、東殿(東座)には天武天皇、舎
	人親王が、西殿(西座)には早良親王、伊豫親王、井上内親王が祀られている。日本書紀の編者であり、日本最初の学者である
	舎人親王を祭神として祀ってある事から学問の神としての信仰も深い。本殿は、御所賢所(かしこどころ)の建物を正徳2年
	(1712)に後水尾天皇より賜ったもので、現存する賢所としては最古のものと言われる。毎年5月5日に藤森祭が行われ、この
	祭が菖蒲の節句発祥の祭と言われる。この時の武者行列が、菖蒲の節句の武者人形のルーツなのだ。一度見たことがあるという
	西本さんの話では。「そりゃ、りっぱな行列でっせ。」と言う。またこの日には駆馬の神事も行われる。6月中旬から7月のは
	じめにかけては紫陽花が有名で、季節にはたくさんの花好きが訪れる。境内の紫陽花園には3500株が植えられている。大名
	行列もここを通過するときには敬意を表して槍を横に倒して通ったと言う。

 


	ここで昼食を取った後のんびりとする。今日は午前中に結構歩いたので、午後はスケジュールが楽である。思い思いに附近をぶ
	らぶらする。神社入り口を入ったところ左手に、「蒙古塚」というのがあった。なんでこんな所にあるのか不思議だったが詳し
	い説明はない。元寇の時捕虜となった蒙古兵達は鎌倉へ送られたはずだが、一部京の都で処刑された者もいたのだろうか。後で
	社務所に聞こうと思っていたが忘れてしまって、未だにこの存在は不明である。

 

 


	この一帯を、古代「秦氏」が治めていたのは前述した。しかしそれ以前、蘇我氏の権勢全盛の時代、この地を本拠としていたの
	は「紀氏」朝臣家だという。そして新興勢力の「秦氏」も臣下に置いていたようである。紀氏は自家系図では素盞嗚尊から出た
	となっており、ここの祭神に素盞嗚尊がいるのもその名残と言われる。つまり紀氏の祖神を祀っているのである。
	だが「大化の改新」で蘇我氏の勢いが低下していく中、紀氏の勢いも当然下降線を辿る事になる。やがて、この一帯は秦氏の支
	配する所となり、かっては藤森神社の社域であった伏見山には稲荷神が勧請された。藤森神社は社地をかすめ取られたわけであ
	る。西本さんが境内の説明版を見て、「そうなんよねぇ、昔から藤森神社と伏見稲荷は仲が悪いんよねぇ。」と言っていたわけ
	がわかった。真実は不明だが、その頃の事跡が千年以上伝承されており、今でも権力争いは続いているのだ。その証拠に、現在
	でも伏見稲荷神社の近辺の住人の氏神は藤森神社である。 





 


	ここに、宇治の中ノ島に建っている「十三重の石塔」の五番目の石というのが置いてあった。みんなついこの前宇治に行ってき
	たばかりだったので感慨もひとしおで、「へぇー」とか「ホンマかいな」とけんけん諤々。石川五右衛門というのは眉唾だとし
	ても、石の形は石塔のものとそっくりで、向こうの説明には、洪水で何度か流されその度に拾い集めて再建したと書いてあった
	ので、これがあの塔のものだという可能性は高い。おそらく本物なのだろうが、宇治から深草までよくまぁ運んできたもんだ。

 




	この神社も「式年遷宮」をやっている。いくつかの神社でこの「式年遷宮」は行われているが、いずれも資金難で、実際に拝殿
	を移動することはないようだ。社務所の話では、ここも若干手直しをするだけで、別段拝殿をごっそり移し替える事はないらし
	い。伊勢神宮に端を発すると思われるこの制度は、その由緒・言われについて確とした定説はないが、一説では天武朝の頃から
	始まったとも言うし、いったいどんな意味があったのか実に興味深い。

 


	藤森神社由緒(神社庁) 菖蒲の節句発祥の地 勝運と学問の神社

	京都洛南深草の里に、平安遷都以前より祀られている古社にて、古来、朝廷より庶民までの崇敬厚く、歴史ある社である。
	本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に賜ったもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮
	社大将軍社等の建造物がある。藤森祭は、毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家
	に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。菖蒲は尚武に通じ尚武は勝負に通じるといわれ、勝運をよぶ神とし
	て信仰を集めている。

	本殿(中座)
	素盞鳴命、別雷命、日本武命、応神天皇、神功皇后、武内宿禰、仁徳天皇(以上7柱)。東殿(東座)天武天皇、舎人親王(以
	上2柱)。 
	西殿(西座)
	早良親王、伊豫親王、井上内親王(以上3柱)。 



宝物殿 −馬の博物館−


	藤森神社宝物殿
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	この神社は、平安建都のはるか以前の西暦203年、神功皇后が境内の地に軍旗を立て、塚を造って兵器を納めたのが起こりとされ、
	またヤマタノオロチを征伐した素盞嗚尊を祭神としており、古くから武人の信仰を集めてきたため、重文の鎧をはじめ、武具や
	刀、鉄砲などが館内に並ぶ。展示品は同神社に伝わる社宝に、藤森信正宮司が集めた武具を加えた百数十点となっており、馬の
	神社というだけあって馬に関する資料もごそっと並んでいる。








	この馬のコレクションはどうだろう。武運の神というより、競馬の神を祀っていると言ったほうがいいかもしれない。競馬ファ
	ンのみならや馬主や騎手らの参拝も多く、有名な騎手の写真もたくさん掲示してある。馬に関するコレクションは、古くから同
	神社に伝わる鞍(くら)や鐙(あぶみ)に加えて、数年前にオープンした「馬の博物館」も併設されていて、その郷土がん具
	をはじめ東西の馬の置物や、おもちゃなど約300点が並べられている。



 


	ほかにも日本刀や火縄銃、短銃、なぎなた、やりなど古今の武具が並ぶ。なかには銃身の短い馬上銃、一貫目玉を打ち出す大筒、
	鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が使った大砲など珍しい武具もある。砲身が8本ある「八連式の火縄銃」など、実際に使われたのかど
	うか疑問な武器もある。戦前の伏見は陸軍の第16師団が置かれるなど軍都として栄えたので、「戦中は武運長久を祈願する兵
	士たちが大勢参拝に来た」そうである。



 


	下は国の重要文化財に指定されている紫絲威(むらさきいとおどし)大鎧である。南北朝時代の鎧で、その格調の高さから高貴
	な武将が用いたものと推定されている。かつては東京国立博物館に展示されていたが、1989年の宝物殿開館に合わせ里帰りした。 

 

 

下は「藤森祭禮絵巻。こんなものがあるくらい、相当昔からおこなわれていた祭りなのだ。





解説にもあるように、こんなものがほんとに8発も一斉に弾を飛ばすだろうかという気がする。(下)



下が、鳥羽伏見の戦いで薩摩藩が使ったという大砲。この大きさは大砲ではなく小砲だ。まるでおもちゃである。



 

 


	神社の起源というのは、ハッキリ分からないだけにまた、歴史研究家たちの興味を引くようである。古い寺社であればあるほど、
	地域の歴史と住民が辿ってきた道も曖昧模糊としており、探求していく価値があると言うもののようだ。特に、古代豪族達が闊
	歩していた近畿圏を中心とした西日本においては、神社の歴史を追いかけていく事で、古代社会の成り立ちも究明できるという
	可能性が高く、神社を訪ねて歩く研究会のようなものもある。神社築造と、そこに祭神を奉るという行為の中に、日本人の源流
	を探ろうという試みも行われている。


 
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