Music:  End of the World



私が安部公房の「榎本武揚」を読んだのは一体いつのことだったろうか。本棚から取り出してきて奥付を見ると、「昭和46年11月25日十版」とあるので、20〜21才の頃だと思われる。そういえばこの頃はむさぼるように本を読んでいた時期だ。
勿論榎本武揚という名前は知っていたと思うが、歴史的な興味から読んだのでは無いことは確かだ。この本のどこに私は惹かれたのだろうか? 函館の五稜郭で負けた幕府軍の囚人300人が脱走して、厚岸(あっけし)の海岸から上陸し、山の奥深くへ消えていった、という地元の伝承をもとにそれを追う男の話しだったと思うが、おそらく私は、榎本が作ろうとした「蝦夷共和国」というとんでもない構想に魅力を感じてこの本を購入したに違いない。奥付にはその頃使用していた「無学書士」という自作の落款が押してあり、定価530円である。
今回五稜郭を訪れたので、引っ張り出してきてまた読み始めている。20代で読んだ本を50代で再び読み返すというのは、また違う興味があっておもしろそうである。


北の備え −松前城−
幕藩体制下にあった当時の日本では、外国船に対する各沿岸の守備は、その地の大名・旗本・代官が分担しておこなった。天明5年(1785)ロシアの蝦夷地接近を知った徳川幕府は、東西蝦夷地の探索を開始する。北方に対する危機感から、以降蝦夷地の経営に直接乗り出すことになる。文政4年(1821)幕府は松前藩を蝦夷地に復領させ蝦夷地の厳重警戒を命じる。松前藩は松前に6ケ所、函館に4ケ所、江差、白神、吉岡、矢不来、汐首に台場を設ける。さらに嘉永3年(1850)には外国船に備えて幕府から築城を命じられた藩主松前崇広は、軍学者市川一学に設計を依頼して安政元年(1854)新松前城を完成させる。松前城は本丸、二の丸、三の丸等から成る伝統的な縄張り(設計建築方法)で作られた最後の城郭となったが、海に面した丘陵を利用し、最前列となる三の丸には7門の砲台が備えられていた。

北辺防備と東北諸藩 −戸切地陣屋−
徳川幕府が東北諸藩に対して蝦夷地の警護を命じたのは、寛政10年(1798)弘前藩に対して、函館警護のため津軽藩兵500人を配置したことに始まる。以来、東北諸藩と弘前藩は北辺の警護に携わることになる。 安政元年(1854)、幕府は函館奉行を再置する。さらに安政2年には防備に対する不安から、蝦夷地の大半を幕府の直轄地とし、蝦夷地の防備を弘前・盛岡・仙台・南部・松前の5藩に担当させる。弘前藩は千代ケ岱、盛岡藩は函館の水元に元陣屋を設置し、松前藩も有川の奥にあたる戸切地に陣屋を配置する。 戸切地陣屋は藤原主馬の設計によるもので、4つの突出した保塁と東側には菱形の保塁を組み合わせ、6門の砲座がある砲台部と陣屋本体を組み合わせた縄張りが採用されていた。品川台場同様、急速に浸透した西洋式築城法を採用した稜保型城郭(四稜郭)であったが、明治元年(1868)の函館戦争(五稜郭戦争)の際、松前藩自らの手で消滅する。



函館市 2001.6.30(土)

定山渓温泉を発って、北海道西部を一路南下する。長万部を過ぎた頃から噴火湾(内浦湾)を左に見て5号線で函館方面を目指す。
下左は羊蹄山(1898m)、ここの麓で九州の実家へメロンを送った。下右は、横津岳(1167m)と袴腰岳(1108m)ここを超えればもう函館だ。

 

南茅部町の「大船C遺跡」を目指すルート脇に、榎本武揚軍が上陸した森町鷲ノ木(わしのき)がある。
記念碑が建っていて公園になっている。資料館もあるが、カギが掛かっていて中には入れなかった。



 

下左の墓地にも、榎本軍戦没者が葬られていると説明があった。

 

   

榎本軍は、貿易港函館をさけてこの地に上陸する。函館を戦禍から守るためにと一般には解説されているが、
実のところどうしてここを選んだのかについては分かっていない。暴風雨の中、積雪30cm人口800人のこの地に、
2000人が集結したのである。上右の噴火湾には旧幕府軍の軍艦・輸送鑑が浮かんでいたのだ。


 

 



資料館の窓の中に内縁があって、そこに幾つかの資料が展示してある。進攻ルートや使われた銃器・砲弾などである。

 

 



 

 



南部藩陣屋跡。東北諸藩の蝦夷地の守りのひとつである。榎本軍上陸時にはすでに引き払われていたようだ。

 



 



この後「大船C遺跡」を見て、今夜の宿「湯ノ川温泉」へ。旅館ビル屋上の、露天風呂から見た函館空港の夜景がきれいだった。





函館・五稜郭を訪ねるにあたっての事前知識

	五稜郭建造の背景 −函(箱)館開港−
	嘉永6年(1853)ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開港と条約締結を求めてきた。
	翌年の3月幕府はアメリカと日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の開港が決定される。開港の期日は、
	下田が調印の日から、函館が安政2年(1855)3月となった。日米和親条約の締結を受けて、諸外国も一様に条約締結を
	幕府に求め、抗しきれない幕府はイギリス、オランダ、ロシアとも条約を締結した。
	この時の開港は貿易が主目的ではなく、あくまでも外国船の燃料や食料の補給のための寄港・難破漂流民の救助のみに
	限られていた。貿易を目的とした開港は、安政6年(1859)以降に各国との間で結ばれた修好通商条約締結の後となる。
	日米和親条約締結後ペリー艦隊は函館に向けて出航し、4月15日函館に寄港した。函館で様々な交渉や調査を行った後、
	5月8日に出航したが、ペリー艦隊を迎えた函館の町は騒然となった。






	五稜郭築造のきっかけ −函館奉行−
	函館開港が決定したことによって、安政1年(1854)6月幕府は函館とその周辺を直轄することにし、
	再び奉行を置くことを決定した。函館奉行は最初が竹内保徳(たけうちやすのり)、ついで掘利熙(ほりとしひろ)、
	さらに村垣範正(むらがきのりまさ)が選任され、3人体制がとられた。奉行達は、函館が防衛上不利であることを知り、
	函館山の麓にある簡素な役所を移転すること、函館周辺の砲台を整備することを幕府に要求する。数回におよぶ交渉の結果
	これが受け入れられ、安政3年(1856)から砲台(弁天岬台場)の工事、翌年から役所の工事が開始される。
	この役所が五稜郭である。奉行達は防衛のみならず、周辺の農業・工業などの産業育成にも力をそそいだ。




	五稜郭築造 −設計と工事−
	設計は、伊予(愛媛県)大洲藩士で緒方洪庵の適塾などで学んだ武田斐三郎、工事を請け負ったのは、函館在住商人の佐藤半兵衛
	・山田寿兵衛・杉浦嘉七、越後の松川弁之助、江戸の中川伝蔵、備前の石工喜三郎である。
	五稜郭は従来の日本式築造ではなく、ヨーロッパなどみ見られる城塞都市モデルとしている、日本では数少ない様式築造である。
	初期の五稜郭の設計図と現在の五稜郭を比較するとその構造は異なっていて、工期と予算の関係から初期の設計よりも大分縮小
	されたようである。元治1年(1864)年一応完成し、函館奉行小出秀実(こいでひでざね)が五稜郭に移った。五稜郭の外には
	役人達の住居が建てられ、人家も少なかった五稜郭周辺が急速に開けていった。




	五稜郭の役割 −函館奉行所−
	五稜郭はヨーロッパなどで見られる城塞都市とは違い、なかに建てられたのは「函館奉行所」
	(正式には「函館御役所」)という役所である。築造方式は様式だが、建物は和式の木造建築だった。函館奉行所で行われる業務は、
	松前藩の領地を除く蝦夷地全体に及ぶ管理であった。函館奉行配下の役人は、安政5年(1858)頃で400人ほどいたが、函館に常駐して
	いたのはそのうち半分程である。
	7年の歳月を掛けて建設された五稜郭だったが、明治元年(1868)江戸幕府が崩壊し、奉行所としての機能は4年ほどで終了した。
	その後、明治4年(1871)には開拓使によって奉行所は取り壊され、その姿を消した。




	函館の守り −弁天岬砲台−
	開港に伴い函館の防衛上の不備が函館奉行により指摘されると、各方面の整備が進められる事になった。
	当初の計画によると、函館周辺に幾つかの砲台を設置する予定だったようだが、予算上の問題で実際に設置されたのは弁天岬砲台
	のみであった。建設された場所は、現在の函館ドッグのある辺りである。規模は五稜郭よりは小さかったが、石垣作りのなかなか
	堅固なものだったようだ。五稜郭には大砲は設置されなかったが、弁天岬砲台にはロシアから寄贈された大砲24門が設置された。
	外敵を排斥するための守りを、外敵(の一つ)から寄贈されている。外夷を意識して作られた砲台だったが、これが外敵に向けて
	使われることはなく、その砲門は函館戦争で使用され、明治29年(1896)、港湾改良工事のため取り壊された。





いよいよ明日は函館・五稜郭である。私の好きな明治の逸材「榎本武揚」が、徳川幕府最後の踏ん張りを見せた場所。
明治政府の役人としても再びこの地を踏むことになった場所。新撰組最後のサムライ土方歳三がその命を散らした場所。

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