Sound: A Taste of Honey

箸墓古墳 歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)






	【箸墓古墳】 倭迹迹日百襲姫尊命(やまとととひももそひめのみこと)陵 大市墓(箸大墓)

	三輪山の麓、「纒向遺跡」の南端の桜井市大字箸中に所在する前方後円墳。全長282m、後円部径157m、高さ22m、
	前方部幅125m、高さ13mを測る。後円部周辺の東南部地一帯は6世紀代の旧巻向川の氾濫によって大きく削り取られ
	ていたが、茸石を伴った渡り堤、周濠、外堤状の高まりなどが確認されている。周囲にも周濠がめぐらされていたと推測さ
	れるが、現存しているのは北側の溜池だけで、これは後世拡張されている。東側・南側は埋め立てられているが、西側は不
	明である。前方部の周辺では過去に5回の発掘調査が行われており、茸石や周濠状の落ち込み、盛り土による堤、古墳築造
	時の土取り跡などが確認され、出土土器の検討により前方部が布留0(ゼロ)式期(4世紀初め)の築造であるとされる。

	この古墳は、北側の溜池拡張や東側の国鉄桜井線や県道工事、または民家築造によって相当変形され、平面的にはやや均整
	を失なっているが、大きさでは全国で11番目、奈良県下では3番目の規模を持つ。前方部が撥(ばち)形に開く墳形を持ち、
	一般の円筒埴輪が見られず、吉備地方に源を発する特殊器台形埴輪・特殊壺形土器を持つなど、古式古墳の特徴を持ってい
	る。しかしながら、これまでに墳丘から採集した円筒埴輪片などわずかな遺物が公表されているのみで、実態はあまり明ら
	かになっていない。桜井市教育委員会では隣接する土地を部分的に調査している。また、周囲には陪塚があたかも主墳を護
	衛するように並んでいたと推測されているが、いま残存し面影をとどめているものは数基である。今年3月に最古の前方後
	円墳と注目を集めたホケノ山古墳はここから東約200mに位置している。



巻向古墳群の中を南下していくと、次第に箸墓古墳の姿が大きくなってくる。

 


	この古墳墓は「令義解」に、「帝王墳墓、如山如陵、故謂山陵」と書かれていて、当時、既に大規模な古墳だったことが窺
	える。記紀によれば、第7代孝霊天皇の皇女で、大物主神(大神神社の祭神)の妻とされている倭迹迹日百襲姫命(やまとと
	とひももそひめのみこと)の墓とされており、現在は宮内庁が陵墓参考地として管理している。日本書紀には「昼は人が造
	り、夜は神が造った」との記述も残る。崇神天皇十年の条に、倭迹迹日百襲姫命が死んだので大市に葬り、この墓を箸墓
	(はしのみはか)とよんだ。ところがこの墓は昼は人間が築き、夜は神が造った。しかもこの墓を築造するのに多くの人が
	大坂山から箸墓まで相並んで手送り式にして石を運んだという。この大坂山とは現在二上山麓の香芝市逢坂(旧下田村)と
	考えられている。この記述は、果たして記録としてどの程度の信頼性があるかは疑問だが,古墳築造の様子が記述されてい
	るまれなケースとしても注目される。
	またこの古墳は、邪馬台国の女王「卑弥呼」の墓であると言う、いわゆる邪馬台国近畿説でも有名である。






	畿内大和説で、卑弥呼の墓が具体的に提示されているのはここ箸墓古墳だけである。しかし従来、その年代の違いから考古
	学的には否定する見方が強かった。箸墓古墳は従来、3世紀末から4世紀前半の築造と言われていた。卑弥呼が死んだのは
	3世紀前半( 248年)であるから」、50年から100年のズレがあったわけである。ところが近年、平成7年2月に奈良
	県立橿原考古学研究所が箸墓古墳の築造を3世紀後半と発表し、また平成8年12月には奈良県桜井市教育委員会が「纏向
	石塚古墳」の築造を3世紀初頭と発表したことで、がぜん、邪馬台国畿内(大和)説の有力な根拠として、新聞紙上を賑わ
	せたのである。畿内説は、3世紀には日本は九州から畿内の広い範囲で既に統一され、初期大和政権の首都纒向遺跡の支配
	は西日本各地に及んでいた、と主張した。橿原考古学研究所附属博物館の館長河上邦彦氏は、「前方後円墳は3世紀の大和
	古墳群(箸中古墳群、柳本古墳群を含む)で発生する。「径百余歩=約145m」もある「卑弥呼の墓」は、発生期の前方
	後円墳に相違ないから、邪馬台国はやはりここにあったのだろう。」という。




	魏志倭人伝には、卑弥呼の墓の記事が、「大作冢、徑百餘歩、[犬旬]葬者奴婢百餘人。」(大いに冢を作る、径は百余歩、
	旬葬する者は奴婢百余人。)と書かれている。「歩」を約1.4mとすれば、百歩は約140mになる。つまり卑弥呼の墓
	は、直径約140mの塚という事になる。箸墓は、後円部の直径が156m、高さ30m、前方部が長さ126m、前方部
	の前端で幅132m、高さ16mである。箸墓の主体部である後円部の直径156mは110歩となり、つまり、卑弥呼の
	墓の塚の直径百余歩と一致するわけである。ところが、この古墳は前方後円墳である。卑弥呼の墓は明らかに円墳だろうと
	考えられるので、前方後円墳では具合が悪い、前出の河上氏は、「箸墓はもともと円墳かも知れない。後円部と前方部は、
	微妙に築造の様式が違うので、前方部は後から継ぎ足した可能性もある。」などと、幾つかの講演会で述べていた。

 



	
	そしてもう一つ、出土した土器のなかに、「布留0式」と言われる様式の土器が含まれている。布留0式期が西暦で何年頃
	にあたるのかは当面確定しようもないが、おおかたの意見では3世紀後半から4世紀にかけて使われたという意見が強い。
	これを無理矢理3世紀前半にも使われていたという人もいるが、これこそ我田引水である。つまり、箸墓古墳が卑弥呼の墓
	だとすると、3世紀前半に死んだ卑弥呼と供に、4世紀の土器が埋葬されているという事になるのである。

	箸墓は現在、宮内庁による「陵墓参考地」としての指定を受けており、詳細な発掘調査は不可能であるが、いつの日か詳細
	な調査が実施された時には、これらの疑問も明らかになるのではないかと思う。更なる疑問がわき起こる可能性もあるが。

 



 



 



	
	倭迹迹日百襲姫命大市墓(やまとととひももそひめのみことおおいちばか)
	
	孝霊天皇の皇女であった倭迹迹日百襲姫が御諸山(三輪山)の神である大物主神の妻となったとする、有名な神婚伝承を伝
	える。倭迹迹日百襲姫は箸で下腹部を突いて薨じ、大市に葬られたが、人々はその墓を名付けて箸墓と呼んだとされている。
	崇神天皇の祖父孝元天皇の妹、倭迹迹日百襲姫命は大物主命の妻となった、だがこの神は夜にばかり通ってきて姿を見せな
	いので姫はまだお姿を見たことがありません、どうか夜の明けるまで居て美しいお姿を見せて下さいと願った、神は「明朝
	お前の櫛箱の中に入っていようと答えた。姫は朝のくるのを待って櫛箱をあけると中に美しい小蛇がいたので驚いて泣きだ
	すと神は人の姿に戻り「よくも私に恥ずかしい思いをさせてくれた」といって三輪山に帰ってしまった、姫はたいへん後悔
	しそのはずみに箸で陰処(ほと)を突いて死んでしまった。そこで人々はその墓を箸の墓と呼んだ。

 

 






	箸墓古墳をめぐる邪馬台国近畿説とその反論については、前項で記述したのでこれ以上繰り返さないが、思うに奈良やこの
	桜井に生まれ育った人々にとっては、邪馬台国近畿説というのは、もう殆ど信仰に近いのだろうと思う。私も九州福岡の産
	で、安本美典教授の「邪馬台国=甘木・朝倉説」のそのままの地、甘木市に生まれ育ったので、この説には心情的に否定し
	たくないものがあった。しかしここ数年、各地の古墳や遺跡を巡って、必ずしも甘木朝倉でなくてもかまわないではないか、
	という気になっている。ではあるが、極力心情的なものを排して、出来るだけ Logicalに考えてみても、やはり邪馬台国は
	北九州のどこかであろうと思う。そして前項で述べたように、その国は、押し寄せた、騎馬を伴った「渡来民族」に征服さ
	れ、彼らが近畿圏に覇を唱え、最終的には奈良に大和朝廷の礎を築いたと思う。それはここ纒向だったかもしれないし、現
	在の堺を含む大阪平野だったかも知れないが、最終的には橿原に地に居を構えたのであろう。



	
	以下は、(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会が、平成10年9月13日、桜井市民会館で行った「緊急報告 箸墓
	古墳発掘調査報告会」の資料内容の要約である。
	
	--------------------------------------------------------------------------------
	箸墓古墳発掘調査資料 纒向遺跡第109次発掘調査資料
	(財)桜井市文化財協会、桜井市教育委員会 1998年9月13日

	U.調査の概要

	○渡り堤 東西方向に約8mに亙って検出されている。調査区の関係上、後円部との接続部分は確認できなかったが、堤の
	南北に丁寧な茸石を施した立派な造り。堤の高さは周濠底より約1.3m、基底幅約4.8m、堤上面の通路幅は約2mと
	墳丘に比べて小規模なもの。葺石は北面と南面の葺き方に違いが見られ、北面は比較的小型の石材を急な勾配で積み上げて
	いるのに対し、南は面を意識しつつ大型の石材を緩やかな勾配を持たせて葺き上げている。裏込めの手順にも南と北では工
	程に大きな違いが見られる。北側は基底から頂部にかけて裏込めの土と栗石を入れた後に化粧石を葺き、基底から一気に立
	ち上げているのに対し、南側は基底石を置いた後、裏込めの土と栗石を水平に入れ、この上に裏込め土、栗石、化粧石を葺
	くといった2ステップの作業工程を踏んでいた。また、渡り堤の上面には堤に直交して幅約1.6m、深さ約25cmの溝
	が掘られていた。溝の正確な用途は不明だが、北の濠から南の濠へと水を落とすための掘り込みと考えている。

	○周濠 渡り堤の南と北の両方で確認されている。周濠は推定で幅約12m、推積は上・下層と大きく2層に分かれる。下
	層は周濠が機能していた頃の堆積層で、粘土や粘質土で構成され、上層は最終の埋没段階である植物の堆積によってできた
	腐植層。この周濠は前方部の南側や北側で行われたいずれの調査でも確認されており、古墳の周囲に幅10m程度の周濠が
	墳丘に沿う様な形で巡っていた可能性が高くなった。また、北側周濠底の断ち割り調査では渡り堤の下層で地山整形が確認
	されており、古墳築造当初から計画的に渡り堤が構築された事も解っている。

	○外堤 周濠の外側にはすべて盛り土によって構築された、現存する高さ約70cm、幅15m以上の非常に厚い外堤状の
	高まりが確認されている。盛り土は堤の墳丘側と最も外側に幅2m程度の土手を築いた後に、土手と土手の間に土砂を入れ
	るといった古墳の盛り土によく似た手法をとっていたと考えられる。この堤も前方部の南と北、いずれの調査でも検出され
	ているものであるが、幅が確認されているのは前方都北側で検出された堤の部分だけであり、その幅は17mとやはり大き
	なものである。

	○遺物と出土状況 遺物は主に周濠内と渡り堤や外堤の盛り土内から出土している。周濠下層からは数点の鋤の他に、針葉
	樹を丁寧に加工した加工木なども見られるが、その用途は不明。周濠内の出土土器は甕や高杯・壷などの日常用の土器が多
	く、下層は布留0式期、上層は布留1式期頃の堆積層と考えている。渡り堤や外堤の盛り土は周囲の包含層を削ったものと考
	えられ、周濠内部と同様に甕や高杯・壷などの日常用の土器が多く出土し、最も新しいものは布留0式期の土器片が出土した。

	V.まとめ

	今回の調査は後円部では初めての調査であり、今まで実態のよく解っていなかった著墓古墳について実に多くの知見を得る
	ことができた。まず第一には墳丘周囲の構造が解って来た事である。先述したように古墳の周囲には幅約10m程度の周濠
	と、その外側に基底幅15mを越える大きな外堤が巡っていた可能性が高くなった。また外堤の所々には墳丘へと繋がる渡
	り堤が築造当初から付設されており、後の渋谷向山古墳などに代表される渡り堤を持った古墳のルーツとも言うべき様相を
	呈していたのであろう。最古の大型前方後円墳といわれる箸墓古墳にこれらの要素が備わっていたという事は古墳の構造や
	周辺施設の意義を考える上で重要な材料となる。第二には築造時期の問題である。後円部の墳丘そのものを調査した訳では
	ないが、築造当初から後円部と同時に構築されたと考えられる渡り堤や外堤の盛り土内部から出土した土器のうち、最も新
	しいものは布留 0式と呼ばれる時期の土器群である事や、周濠の埋没時期、前方部での調査成果(墳丘の構築工程や築造時
	期)などを考え合わせると箸墓古墳が布留0式期に前方後円墳として築造された事はほぼ間違いの無いものと考えている。
	今後の周辺地区でのさらなる調査が期待される。























邪馬台国大研究・ホームページ/ 歴史倶楽部 / 箸墓古墳