平群神社から歩いて2,3分で平群中央公園に来る。その入り口脇に西宮古墳がある。周りは土嚢で固められ、築造当時を 復元しているようだ。古墳全体に貼石が施されていたとあるが、これだけの石を集めてくるのはさすがに大仕事だったのだ ろう。土嚢で代用したようだ。
<県指定 西宮(にしのみや)古墳> 廿日山(はつかやま)丘陵南側の緩斜面に築造された、一辺36b、高さ7b程の方墳で二段のテラスを持つ三段築造で、 全面に貼石を施していたらしい。石室内には石棺の棺身だけが残っている。7世紀中葉から後半頃の築造と見られ、奈良県 史跡に指定されている。この古墳は尾根をコの字状にカットした、いわゆる「山寄せ」の技術を用いて造られている。玄室 は天井、奥壁、側壁すべて一枚石を使ったみごとなものである。こんな巨石にはなかなかお目にかからない。玄室長3.6m、 玄室幅1.8m、玄室高さ1.8m、羨道長9.1m、羨道幅1.5mを測る。 石室入り口の天井石の傾斜角は、上段から 中段にかけての墳丘斜面の傾斜角と同じになるように、また、羨道側壁の先端は斜めに加工してある。そして、蒼ケの床面 と2段めテラス面とが一致している。閉塞施設のようなものは設けず、入り口部分が外から見えるようにされていたのでは ないかと考えられている。また、石棺は兵庫県から運んできたとあり、埋葬者はそうとうな権力を保持していたのが窺える。
ここにはかって中世に「西宮城」があった所で、平群中央公園内の谷を隔てた所には「下垣内城」があったと言う。西宮古 墳も曲輪の一つとして利用されていたらしい。城の主郭部は、公園化によって遺構はまったくなくなり、案内板に縄張り図 があるだけである。 西宮城は、室町時代嶋氏によって築かれたと云われ、別名嶋城とも云う。近江佐和山城主石田三成の家老となった嶋左近勝 猛は、元はこの城の城主で筒井・郡山城主であった筒井順慶の三家老の一人であった。城は嶋氏の平時の居城で、詰めの城 として椿井城が築かれたとも云われている。長禄4年に畠山義就方の一手が嶋城を攻めたが、嶋氏はこれを撃退したとある。 この時の嶋城は、この西宮城なのか詰めの城椿井城なのかは不明とされる。矢田丘陵の南端の尾根上に10もの曲輪が連な った典型的な連郭式山城である。
ここにはかって廿日山(はつかやま)弥生遺跡、前述した「西宮城」「下垣内城」の遺構があった。説明板によれば銅鐸も 出土しているようだが、現在は遺構は全く残っておらず、わずかに「下垣内城」の遺構が、公園南側のフェンスに囲まれて、 深さ約5m、幅約3m程の空堀として残り、更に空堀南側の土塁に1ヶ所虎口があり、虎口の先に小郭があった。先ほど見 てきた平群神社のちょうど裏側にあたる。残っている城の遺構としてはここだけである。今は、多目的グランド、テニスコ ート、ゲートボール場、冒険広場などになっている。「竜田川駅」から徒歩約10分位の所にあり、幼児からお年寄りまで の幅広い年齢層の憩いの場として楽しめる公園になっている。
ここで昼食をとることになったが、食べている内に彼方の山がたちまち白くなり、猛烈な吹雪の中での食事となった。かと 思うとピタリと止んで、しばらくすると又吹雪というような案配だった。梅の花は、そんな中でもけなげに咲いていた。
昼食を終えて、剣上塚古墳を目指して歩き出したとたん、吹雪になった。みな風防を被ったり手袋をはめたりしていたが、 古墳に着く頃には、古墳は真っ白になっていた。
「生駒山地から東に延びる尾根の先端付近に造られた古墳で、直径約20余m、高さ3.6mの円墳。西側には尾根と墳丘と を区画する幅2m程の縦割が残っている。」と説明板にあるが、もう1個の看板は朽ちてもう字面は判別出来なかった。
<町指定 剣上塚(けんじょうづか)古墳> 墳丘裾付近で円筒埴輪列が発見され、形象埴輪(器種不明)の破片、須恵器片なども確認されている。その形態から6世紀前 半頃の築造と考えられている。墳丘の現状から、平群谷に多くみられる横穴式石室ではなく、墳丘に直接木棺を埋葬した 「木棺直葬」の可能性が指摘されている。明治32年の「名勝旧跡取調書」に、「口碑ニ傳フル所百余年前甲冑戦具等ヲ発 掘シタル事アリト云フ」とあり、江戸時代に盗掘を受けているようである。