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久米寺から益田の磐船へ 2002.4.27(土) 第63回歴史倶楽部例会


久米寺




		久米寺は、畝傍山の東南麓、久米町の集落の北端に位置し、近鉄吉野線(または橿原神宮線)「橿原神宮前駅」西口から徒歩4,5
		分の所にある。少し汗ばむ位の陽気で、今日はどこを歩いてもつつじが満開だった。6月初旬〜7月初旬には「あじさい」が満開に
		なるらしい。境内には30種類にも及ぶあじさいがあり、「あじさいの寺」としても有名である。 

		寺門を入ってすぐの所に、光り輝く金色の如来象と「虫塚」がある。これは農薬類を製造している業界・団体が、その供養のために
		ここに建立したもののようだ。



		久米寺
		寺の縁起(久米寺略記)によれば、久米寺は真言宗発祥の聖地で、推古天皇の勅願により聖徳太子の弟、來目皇子(くめおうじ)の
		建立になる。空海がここで大日経を感得したので真言発祥の地と言われるようだ。ところが一方では久米仙人の伝説も有名で、伝説
		では吉野の龍門嶽で修行し仙人となり空を飛んでいたところ、下界で洗濯をしていた女性の肌を見て興奮、神通力を失い落下して墜
		落したと今昔物語にあり、そこがこの地と言うことになる。あくまで伝説だが、久米仙人と呼ばれる、この寺に縁の深い実在の人物
		がどうやらいたらしいという説もある。久米仙人はその後聖武天皇の御代に「奈良の大仏」で有名な東大寺大佛殿の建立に関わり、
		神通力を取り戻し、数日で建設資材を集めその褒びとして免田30町を賜り久米寺を創建した、と今昔物語や徒然草にある。




		学術的には、昔から奥山久米寺と混同されて、久米寺自体の創建事情は不明確のようだが、出土した瓦からみて7世紀後半には存在し
		ていたようだ。平安時代初めに隆盛を見たらしい。塔の巨大な礎石群が残り、その上に近世移建した桃山時代の多宝塔が建っている。 
		現在の本堂や観音堂は殆ど江戸期の建物である。




		境内には、金堂、観音堂、御影堂、多宝塔などがつつじと灌木に囲まれて、いかにも古寺らしい雰囲気を醸しだしている。金堂の本
		尊は薬師如来で、その横に久米仙人の自作像があるそうだ。中風・眼病に霊験あらたかと看板の説明にある。



 



 


		現在国重要文化財の「多宝塔」は、万治(まんじ)2年(1659)京都の仁和寺から移建したもの。多宝塔の向こう側に巨大な塔の礎
		石群が残っている。その礎石の大きさや配置から見て五重塔か、あるいは巨大な多宝塔が建っていたのではと思われる。塔が移築さ
		れた際に、境内から礎石や瓦、床下の古い塔心礎が姿を現わし、少なくとも多宝塔は、奈良時代には既に存在していたと考えられて
		いる。その規模は4.1m x 2.9mで、心柱穴は直径0.9mもある。これが多宝塔とすれば、空海が大日経を発見したのは、
		ここかもしれない。

 

下の2枚の写真がその礎石である。ずいぶん大きな礎石だ。

 


		江戸時代に描かれた久米寺塔図には、薬師寺式の伽藍配置風に描かれていることや、周辺に残る地名などから、寺院は薬師寺式で現
		在の寺の西側、現在久米町の集落となっている中にも大きく存在したと考えられている。 

		【奈良県遺跡調査概報 久米寺発掘調査概報 久米寺(橿原市久米町502)】

 







小谷(こだに)古墳


		小谷古墳
		倭彦命の墓を見て、小高い丘を登っていく途中で道を聞いた老夫婦に、畑からもいだばかりの苺をごちそうになる。「小谷古墳?あぁ
		この裏や。」とお爺さんが前方の丘を指さす。鞍部の道を通って丘を越え、果樹畑の中を行くと小さな休憩所がありそこから丘の斜面
		に剥き出しの古墳が見えている。橿原ニュータウンの外れに位置している。




		県指定史跡「小谷古墳」。橿原市鳥屋町字平尾に所在し、貝吹山からほぼ北東に延びる丘陵の先端に築かれた前方後円墳を含む8基の
		古墳群のなかにあり、その東側に位置している。古墳時代後期築造の高さ約8m、径約30m前後の円墳、あるいは方墳と考えられる。
		内部の埋葬施設には、花崗岩の巨石を用いた両袖式切石の横穴式石室を持ち、花崗岩の巨石を美しく加工した切り石を二段に積み上げ
		ている。1段は垂直、2段目は内傾化し、上すぼまりに積み、間に漆喰がある。天井石は1枚の巨石で、石舞台をしのぐ大きさである。
		羨道は長さ6.4m、幅2m、高さ1.8m。その中には縄掛突起が退化した刳抜式家形石棺が納められている。石室の規模は全長約
		11.5m、玄室長約5m、幅約2.8m、高さ約2.7mをはかり、玄室は羨道より一段高くなっていて、明日香村の岩屋山古墳と
		共通する。玄室には、蓋があき傾いた状態の家形石棺が残されていて、兵庫県播磨付近で採れる竜山石(たつやまいし)が用いられて
		いたことがわかっている。石棺の大きさは長さ2.4m、幅1.8mで、棺蓋には縄掛突起は見られないがもとはあったもののようで
		ある。棺の内面が、古式の石棺に見られる角のあるコの字形でなく、ゆるやかな蒲鉾形のカーブを示している。調査時の時点で既に盗
		掘されており出土遺物はない。石室の形状から古墳時代終末期に築かれた古墳と考えられている。

		【奈良県文化財調査報告書.第30集(1978.3刊)小谷古墳(コダニ)高市郡高取町丹生谷 昭和52年5月26日〜6月6日調査】

 



 


		古墳は墳丘全体が柵で囲まれており、しかも急な斜面に設けられているので、すこぶる足場が悪い。1974年県史跡に指定され、立
		ち入り禁止となっていて、頑丈な柵が設けられているが、何としても見たいと思う人はいるらしく、柵を壊している。人一人が通れる
		くらい柵が外れているのだ。そこは人の情、入らない手はない。

 



		羨道より玄室をみた状態(上)。開口部。石材はかなり巨大である。封土はほとんど流出しており、羨道はデカい岩3個で構成されて
		いる。内部へ足を踏み入れて驚いた。巨大な天井岩は何と1枚岩である。今までこんなにどデカい天井岩は見たことがない。これは石
		舞台古墳より、先月見に行った御所の「條ウル古墳」より大きい。何故ここにこんなものがと思ってしまう。
		説明板の解説を読むと、皇極(斉明)天皇が被葬者に比定された事もあるようで、 飛鳥時代の天皇家ゆかりの人物の奥津城であろうか。

 

		橿原市は、橿原神宮や藤原京で有名だが、古墳群が密集する代表的な地域でもある。古墳の分布は、北から米川と寺川が合流する葛本
		町周辺、東は天香久山周辺の南山古墳群と戒外(かいげ)の古墳群、西は畝傍山北麓の四条古墳群、同南麓の深田池古墳群、見網は西
		から新沢千塚古墳群・小谷古墳・沼山古墳、南中央の丈六台地上に史跡丸山古墳、そして、谷を隔てて東の植山古墳、菖蒲池古墳等に
		大きくわかれる。そして、市の全域に近い広がりを持った集落跡に、朝鮮半島系の土器が出土している。さらに、集落とまで断定でき
		ないところでも同様の土器の出土がみられ、橿原が如何に大陸と強い繋がりがあったかが読み取れる。



「ちょうど僕ぐらいですよ。」と石棺に入ってみる松ちゃん。バチあたりめが。

 








益田の磐舟

		小谷古墳から益田岩船を目指して歩いたのだが、道が解らず果樹畑の中をだいぶウロウロした。近鉄・岡寺駅から徒歩30分程度の新興
		住宅地の外れにある。岩船山の麓には小さな遊園地のような広場があって、その側に案内板が立っていて、その脇に山頂へ登る階段が
		ある。急な階段を昇っていくと頂上のすぐ下あたりに岩船があって、巨大な石(花崗岩)の塊が目に飛び込んでくる。女の子が3,4
		人岩の上で遊んでいる。メチャメチャデカい岩で驚いてしまう。しかも周りにはこれを収容するような他の建造物も岩谷も何もない。
		ぽつんと独立して山腹にころがっているのだ。何だ、これは。石は相当に巨大で、しかも独立して丘の上に置かれており、どこからか
		ここへ移動してきたとすると、約800tと推定される石の運搬、加工には相当の技術が必要だったのではないか。その移動の様を見
		てみたい欲求にかられる。





		<岩船山麓の上り坂に立てられている案内版>

		史跡岩船							昭和五十一年一二月三十日指定

		奈良盆地の南辺に位置する越智岡山塊の一支峯、石船山の頂上近く、標高約一三〇mの地点に所在する花園岩の巨大な石造物で俗に益田
		岩船とよばれているものである。その構造は、東西の長さ一一m、南北の長さ八m、高さ(北側面)四・七mの台形を呈し、頂部の平坦面
		から東西両側面の上半部にかけて東西の方向に幅、一・八m、深さO・四mの浅い溝状の切込みがあり、その南側面には上から約O・十四m
		のところに幅約O・一三mの段が造り出されている。溝内には中央に一・四mの間隔をおいて西よりと東よりの部分に二つの方形の孔が穿
		たれている。西の孔の大きさは上口部で東西一・五m、南北一・六m、深さ一・三m、東の孔は東西一・六m、南北一・八m、深さ一・三mと
		ほぼ同じ規模をもら、ともに孔底の四局の壁の直下1こは幅、深さともに六・の小溝がめぐる。溝内の東西両孔の中凹部と孔の両側の平坦
		部はそれぞれ高さが異なり、孔の中間部に対し東側はO・一二m、西側はO・三六m低くなっている。また。この三つの平坦部や東西両孔の
		底面は東西方向には水平であるが南北方向ではいずれも南に傾斜しており、岩船全体がや南に傾いているものと考えられる。岩船の側面
		は、全貌を表してい北側では上半部が平滑に仕上げられているが、下半部には石の整形のための仕事と推定される格子状の溝が刻まれて
		いる。この格子状の溝は東西側面や南側面にも見られる。なおこのような格子状の刻みは、明日香村川原所在の亀石にもみとめられるも
		のである。
		この巨大な石造物については、古くから弘仁一三年この地に築城された益田池の碑の跌(台石)とする節があり、また最近では墳墓節や
		占星台の基礎とする説などが提起されている。その用途や築造年代については今後の研究にまたねばならないが、いずれにしても飛鳥地
		方に分布する特異な石造物のなかでは最大の規模をもつものとして保存の必要がある。なお益田の岩船の名称は、江戸時代の地誌類にも
		みられるものであるが、この岩船が益田池に関連するものとの想定にもとずく呼称と思われ、現在の地名によるものではない。

			昭和六十二年   							奈良県教育委員会



 

 


		県史跡「益田岩船(ますだのいわふね)」
		橿原市白橿町5丁目の西、岩船山の頂上付近(標高約130m)にある花崗岩の巨大石造物で、飛鳥の奇石のなかでは最大級のもので
		ある。一般に益田岩船とか益田磐舟とかよばれている。東西の長さ11m、南北の長さ8m、高さが7.5m(南側面)・4.7m
		(北側面)の台形巨石である。上に登ると、明らかに人工的に開けられた1m四方くらいの正四角形の穴が二つある。この巨石の存在
		は昔から謎であり、松本清張、梅原猛他さまざまな人達が論評している。諸説の一部を紹介すると、空海が益田池の妖魔を封じるため
		に建てた石碑の土台石、星占い若しくは天文観測をする台座、物見櫓を支えた土台、古墳の石槨(せっかく)、拝火教の祭壇、竹内宿
		禰その他の墳墓説などである。諸説あるが真実は全くの不明と言う不思議な石である。巨石の半分以上は土に埋まっているという説も
		あるがそうなるととてつもない大きさの岩石という事になる。飛鳥地方には巨岩をもって構築した古墳や花崗石で造った怪奇な像など、
		帰化人文化の特色と思われる石文化の片鱗が見られるが、この大岩は加工されて一体何になる予定だったのか。





 




		岩の側面は相当に急で、遠くから勢いを付けて駆け上るかハシゴを用意しなければ上には上れない。我々のメンバーで登ったのは松田
		さんと河原さん、それに私の3人だけ。女子中学生のグループ以外にも、中年のグループが2,3いたが、上まで登ってくる人はいな
		かった。女子中学生は地元の子たちで、こんな所で遊んでいるとはなかなか面白い。益田岩船から下を見ると橿原ニュータウンの住宅
		地が一望できる。中学生達に、今日のSNAPはINTERNETに載るからと言ったら、「いつ、いつ」と期待していた。
		飛鳥に点在する亀石、酒船石等の石造物は、多くが斉明天皇の時代に作られたものと推定されており、益田岩船もそうである可能性が
		高い。そうすると、先ほど見てきた小谷古墳といい、ここから東南500mの地点にある、牽牛子塚古墳といい、いずれも斉明天皇の
		墓に比定する意見もあって、案外この辺りが斉明天皇の墓所なのではないだろうか。

 

 

 







		登ってきた小道を住宅地の方へ下りていく。「こんなに急な坂を登って来たんかいな。」と驚きながら階段状になっている坂を下りき
		ると、下りた所が橿原ニュータウン前の舗装道路である。ここから20分ほど歩くと近鉄岡寺駅に着く。駅のホームからは、欽明天皇
		が被葬者として有力視されている奈良県下最大の前方後円墳・見瀬丸山古墳が見える。奈良市へ帰る松田さんがいるので、なじみにな
		った橿原神宮駅構内の料理屋で「反省会」を行って、本日も解散となる。




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