Music:End of the World

交野の古墳を訪ねて
2004.3.28(日) 歴史倶楽部弟82回例会 塚穴古墳から南山弥生遺跡へ




 

		
		塚穴古墳
		寺古墳群に属し、交野で現存する古墳の一つ。横穴式古墳。寺古墳群は寺(てら)の集落の東南、竜王山の山麓に群集する後期
		古墳群(六世紀から七世紀初頭、飛鳥時代)である。14基の古墳からなり、いくつかの尾根に2〜3基づつ点在し、広い範囲
		をこえて寺古墳群と呼ばれている。

 


		創価学園の小公園脇の道を登り、竹薮と雑木の平地をしばらく行くと古墳が口を開けている。塚穴古墳である。これは横穴式石
		室を完全に残す、交野では稀な古墳である。東西12m、南北11mの方墳で、入り口は西を向いている。周りは竹薮と雑木で
		鬱蒼としているがそんなに薄暗くはない。大人一人がやっと這って入れる程の入り口から、懐中電灯を片手にしておそるおそる
		入る。羨道は短く片袖式となっている。入るのは腰をかがめて難儀するが、中は天井が高く人一人十分立てる。195cmある
		という。石組はしっかりしており大きい岩石と隙間に入れる小さい石が左右にバランス良く組まれている。天井の岩石はさほど
		大きくはない。

 






		辺り一帯には小高い小山が幾つもあり、みんな古墳だろうと考えられている。盗掘されてないものもあるのかもしれないが、交
		野市はまだ発掘調査していないそうだ。平田さんの話では、ここは個人所有の山だそうで、その為発掘は難しいのかもしれない。






		塚穴古墳から降りてきて、また昼食を取った公園へ戻ってきた。1時間ほどの間に桜はずいぶん開花していた。ここから本格的
		に「かいがけの道」をゆく。「かいがけ」とは、崖を掻く、つまり、以前は大きく迂回していた道を、竜王山の山麓どまんなか
		をぶち抜いて作った道だからそう呼ばれているそうだ。この道はまた、伏拝(ふしおがみ)の道であり、熊野詣での人々や、大
		和へ向かう人がかって通った道でもある。落ち葉が道いちめんに広がる秋が最も美しい、と説明にあったがそう言っても今は春
		だしなぁ。

 



 

上左の写真を見ると、崖を切り崩して道を造ったのがよく分かる。新開さんもだいぶ腹が出てきたなぁ。しんどそうやん。





道の途中から脇にはいるとそこらに古墳がある。この石室は、掘ればまだまだ下へ堀り進めそうな感じである。ここも寺古墳群の一部。






		道にごろんと巨石が横たわっていて岩の底に菩薩が掘ってある。村の古老から平田さんが聞いて、滑車クレーンでひっくり返し
		たのだそうだ。「知ってる人がいなくなったらそんな事誰も知らないし、見てもただの窪みと思うだけだから、昔の信仰の軌跡
		など気づかれないままで終わったでしょうね。」と平田さん。まったくその通りである。地元の歴史を護っていくのは地元の人
		にしか出来ない。言い伝えを記録に残したり、遺物を保管して管理するのは、次の世代に対する我々の義務でもある。そういう
		意味でも、山中に落ちている多くのゴミや落書きは、天に向かって唾する行為であろう。

 

上右の写真、小さな窪みが菩薩像である。今ではすっかり摩耗しているが、きちんと蓮華座も掘ってある。

 

道の途中にある広場。石仏や御堂の跡があるので、おそらくは昔の参拝所だったのだろう。
ここで小休止。昔この街道を行き来した多くの旅人たちも、ここで休んだに違いない。





 


		上左の鳥居の道を上っていくと竜王山へ行き着くらしいが、ここから登るとすこぶる急ですと平田さん。「このあたりは昔子供
		を間引いたという哀しい話が残っている所です。」上右は、トウショウけ岳の山頂。関西電力の高圧線鉄塔が立っている。ここ
		から降りていった所が、弥生時代の土器が多量に発見されたという「南山遺跡」である(下)。




		南山弥生遺跡。鍋塚古墳に隣接している。標高215mで、ここから弥生土器が多量に発見された。昭和34年の大雨の際、流
		れ出た土砂の中から多量の土器が出土したのだ。資料には「弥生住居跡」と書かれているが、住居が在った跡は確認されていな
		いようである。ただ土器が多量に出てきたので、弥生人がハイキングに来たわけでもなさそうだ。狩場の一時的なキャンプ地だ
		ったのかもしれない。河内平野を一望できる立地から、監視所とか烽火を上げる通信基地だったと言う説が有力。



 

尾根から降りてきた所に「南山弥生時代住居遺跡」の石柱が立っている。上右の写真で、
谷のように見えるところを登っていって、尾根づたいに左側へ少し行ったところが遺跡。




  
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