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宮山古墳
2004.May.1 歴史倶楽部第83回例会



 

長柄の集落を抜けて、国道24号線を横切ると、宮山古墳への案内が出ている。ほどなく右手に森が見えてくる。



ここは今「八幡神社」になっていて、ここに古墳の説明版がある。

 




	「室」の宮山古墳(室大墓・国史跡)は、当時の天皇陵墓にも比肩する全国で第16位の大きさを誇り、第16代
	仁徳天皇の皇后となった磐之媛命(いわのひめのみこと)の父にあたる人物で、朝鮮半島の戦で数々の武勲をあげ
	たとされる葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)の墓と目されている。葛城襲津彦以外の被葬者候補としては、元禄時
	代の天皇陵の治定作業の中では孝安天皇、大和の地誌として有名な「大和志」の中では孝昭天皇、また襲津彦の父、
	武内宿禰の墓ともいわれる。武内宿禰は蘇我氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、紀氏、波多氏、江沼氏の祖先で、孝元
	天皇の曾孫(孫?)にあたる。古墳の築造は4世紀末から5世紀前半と推定され、この時期は葛城襲津彦が活躍し
	た時期と重なるため、被葬者にこの人物を当てる説が出たようだ。葛城襲津彦は実在の人物とする説が有力で、
	「日本書紀」によれば、神功皇后5年に葛城襲津彦は新羅から来ていた人質を送っていき、途中でその人質に逃ら
	れ、そこで新羅に入って戦い、捕虜を連れて帰還した。そして、これらの捕虜を葛城の桑原・佐味・高宮・忍海辺
	りに住まわせたという。 
	付近は巨勢山古墳群と呼ばれ「孝安天皇陵」「日本武尊白鳥陵」などもあり、また一昨年「條ウル神古墳」も発見
	されて、この地域をめぐる古代史上の重要度はますます高まっている。







古墳の後円部の下に石垣が積まれ、その上に八幡宮が祀られている。
その境内には、「孝安天皇室秋津島宮跡」の石碑が建っている。

 




	<宮山古墳>

	全長238mの前方後円墳で、別名「室の大墓」とも言う。明治年間に前方部から木棺と鏡11面、さらに玉類が
	多数出土し、大正10年に史跡に指定された。その後、昭和25年に奈良県橿原考古学研究所が発掘調査を行い、
	竪穴式石室内に六区の方形を刻した長持形石棺が安置され、封土上には石室を囲って短形に靭、盾、短甲、草摺、
	家等の埴輪が立ててあったのが確認された。
	後円部径105m、後円部高25m、前方部幅22m、前方部高22mを測る、3段築成の古墳時代中期(5世紀)
	の古墳と考えられる。前方部が南西に向いており、墳丘主軸に平行して長さ5.51m、幅1.71m〜1.88m、
	高さ1.06mの扁平割石小口積みの竪穴式石室があり、内部には凝灰岩製の組合式長持形石棺がある。



 

 

南側竪穴式石室開口部 (上)。上左は上から見たところ。右はその中へ入って写した。



石室側壁と長持形石棺、蓋

 

長持形石棺の身に空いている穴とそこから写した石棺内部。中には何もない。



 


	三段に造成された墳丘には、花崗岩を割った葺石がまかれ、石室の上にはさまざまな埴輪が方形に並べられていた。
	これらの埴輪のうち、高さ142.6cm、最大幅95.5cmの靫形埴輪は特に有名である。銅部の上端に有茎式
	柳葉形鉄鏃が表現され、左右に広がったヒレとその表面の装飾は渦巻き文や直弧文で構成された豪華絢爛なもので、
	現在墳丘上にレプリカが立っている。埴輪の列の下に竪穴式石室があり、その中に長持ち型の組み合わせ式石棺が
	納められている。

 




	身と蓋に14個の縄掛け突起があり、蓋の上面には格子状に模様が彫られているという。北側にも同様の竪穴式石
	室が存在すると考えられている。つまり内部構造が2カ所にあることになる。北側クビレ部に方形の作り出しと、
	南側に自然地形を利用した周濠があるそうだが、しかし、この日、作り出しは確認できなかった。

 

北側石室の石棺の蓋(上下)。蓋だけが見えていて、この下に石棺があるのだ。





古墳から眺める葛城の山々(上)と、北側から見た古墳全景。








 

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館の模型。



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