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古代吉備王国の旅 備中国分寺






 



		遺跡名: 備中国分寺(8世紀後半〜15世紀)
		所在地: 総社市上林字国分地
		概説:  741年の聖武天皇の勅願を機に、8世紀後半に創建され、鎌倉時代に火災によって焼失し、江戸時代(宝永7年)に日
			 照山国分寺として再興されたもの。天平時代の備中国分寺は東西160m、南北178mもの広大な寺域を持ち、底面
			 で1.2m幅の築地塀によって区画されている。建物の配置はよくわかっていないが、現在も南門と中門の礎石が残っ
			 ている。創建時の南門は間口3間、奥行2間の広さだが、8世紀中ごろに間口が5間に改修されている。また南門と中
			 門の中間付近に巨大な井戸があったことも確認されている。出土品には軒丸瓦、軒平瓦、鬼瓦、しびなどの瓦類や鉄釘
			 などがあり、軒丸瓦や軒平瓦は8種類確認されている。記録どおり長く営まれたことがわかる。

 


		<備中国分寺五重塔> 
		備中国分寺五重塔は、弘化元年(1844)ごろに完成し、34.3mの高さがある。この塔は、屋根の上層と下層がほぼ同じ大きさ
		の細長い造りで相輪も短く、江戸時代後期の様式を濃く残す代表的な塔である。また県内唯一の五重塔でもある。塔内は初重内部
		中央に心柱が立ち、四周に四天柱を据え、その内側に仏壇を作り、四如来像を安置している。天井は格子状で天井板には55cm
		角大の欅の一枚板を使い、彩色画が描かれ、堂内をいっそう荘厳にしています。絵は全部で104枚あり、四天柱の脇にある4枚
		の天女図のほかは 季節の花々を描いた草花文だそうだ。 
 




		吉備地方には地方としては、かなり早い段階で仏教寺院が造られる。県下最古の飛鳥時代の軒丸瓦を持つ秦原廃寺は総社市にあり、
		吉備郷土館の展示室にはこの寺の南門から出土したとされる巨大なコウヤマキの柱がある。

 


		天平13年(741)、聖武天皇により、全国に国分寺と国分尼寺の設置が命じられる。これを受けて備中でも備中国分寺と備中国分
		尼寺が造られる。現在の備中国分寺は江戸時代に再建されたものだが、もともとは、8世紀後半に建てられ、15世紀まで存続し
		た寺院である。創建時の領域は、東西160m、南北178mという寺域が推定されているが、南北朝時代に焼失し、江戸時代に
		再興された現在の備中国分寺があるため、南門・中門以外の建物の位置は明らかではない。しかし、現在の国分寺山門付近に創建
		当時の南門・中門跡の礎石が多く残されており、当時を偲ぶことができる。岡山県内唯一の五重塔で、のどかな田園風景のなかに
		聳える姿は、吉備路の代表的な景観である。




		<国分寺・国分尼寺の設置令>
		聖武天皇が天平13年(741)に、仏教の力を借りて天災や飢饉(ききん)から人々そして国を守ること(鎮護国家)を目的として諸
		国に寺を建立せよと命じた。いわゆる国分寺、国分尼寺である。

 

 


		また、備中国分尼寺の方は、備中国分寺の創建時よりやや新しい軒丸・軒平瓦と同じ型で作られたものが1種類見つかっているだ
		け、という状況からすると、備中国分寺より少し遅れて造られ、短い期間で廃絶したようである。寺域は東西108m、南北21
		6mと細長く、南門、中門、金堂、講堂が南北に一直線に並ぶ配置であった。このほかに性格のよくわからない建物もあったよう
		である。備中国分尼寺跡は、現在も遊歩道に沿って築地塀、金堂、講堂の礎石群、などを見ることができるが、今回はあまりに暑
		かったのでここの見学ははしょった。


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