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古代吉備王国の旅 吉備真備ゆかりの地 真備公園・真備寺・産湯井・公館跡(真備町)




真備公園


		<まきび公園> 
		1200年以上前の奈良時代、遣唐副使として中国に渡り、日本文化の発展に貢献した吉備真備にちなんで開園した中国風庭園。
		吉備真備に関する資料を集めた記念館もある。真備町の名前は、第二次大戦後の6市町村合併の際、郷土が生んだ歴史上の大人物
		である彼にちなんだものである。門窓、円形の開窓から望む六角亭、中の池など、さながら中国にいるような雰囲気が漂う公園で、
		昭和61年春、中国西安市に「吉備真備記念碑」が建立されたのを記念してその年の秋開園した。西安市の「吉備真備記念碑」と
		同じものがここにもある。




		吉備朝臣真備(きびのあそみまきび) /旧名:下道(しもつみち)朝臣真吉備

		生没年:693(持統7)/ 695(持統9)〜775(宝亀6) 。奈良時代の官人・学者。吉備地方の豪族で中央の下級武官(右衛士少尉)で
		あった下道朝臣圀勝(くにかつ)の子。母は奈良の豪族楊貴(八木)氏の娘で1728年に現在の奈良県五条市内で母の墓誌が発見
		され、真備の母である事などを記した拓本が今に伝わる。また、吉備真備の祖母の骨蔵器も、真備町の隣、小田郡矢掛町東三成川
		内の丘の中腹から発見され、708年死亡して火葬されたことが分かっている。天平18年(746)、吉備朝臣を賜姓される。



		日本書紀には「5世紀初め、応神天皇が吉備の国を5つに分け、ここに住む5人の兄弟や子供に分け与えた」とある。吉備真備は、
		その中の一人が「下道氏」の名のもとで治めた下道郡出身の官人の子として誕生した。吉備下道氏の本拠地は現在の真備町箭田地
		区あたりと推定されており、日本でも屈指の巨大な石室を持つと言われる「箭田大塚古墳」は、下道氏一族を葬った王墓かもしれ
		ない。今日はここを見た後この古墳へ向かう予定である。


		下道氏(しもつみちし)は、吉備地方に勢力を誇った地方豪族吉備氏の一族で、姓は初め臣であったが天武13年(684)に朝臣姓
		を賜った。下道氏の本拠地は、中国山地を発して備中国を北から南に高梁川が流れ瀬戸内海に注ぐ、河口に近い一帯のようである。
		西から東に向けて高梁川の支流・小田川が流入するが、その小田川流域が下道(しもつみち)である。古代の山陽道は、この川に
		沿って都と太宰府とを結んでいた。




上がまきび記念館だが、朝早かったのでまだ開館していなかった。真備に関する資料がたくさんあっただろうに残念であった。



		努力して大學寮を出た真備は、霊亀3年(717)年、23歳のとき、第8次遣唐使留学生として入唐する。同期の留学生には他に阿
		倍仲麻呂、留学僧には玄ム(げんぼう)らがいた。18年間唐に留まり、学問を修めて天平7年(735)帰国。唐礼130巻・暦書・
		音階調律器・武器各種を献上、この頃正六位下に昇叙され大学助となる。以後、玄ムと共に聖武天皇・光明皇后の寵愛を得、急速
		に昇進を重ねた。藤原4子の病死後政権を握っていた橘諸兄に重用され、唐で得た最新の知識をもってわが国における律令国家体
		制の整備に尽力し、次第に政治家としても頭角を現して行く。がしかし、それはまた、彼を権謀の渦巻く世界へと巻き込む事にも
		なった。天平12年(740)、真備らの異常な昇進に不満をもつ藤原広嗣が大宰府で挙兵した。この乱はあっという間に鎮圧される
		が、次に諸兄を追い落として権力の座についた藤原仲麻呂(恵美押勝)に真備は憎まれるようになる。




真備の墓



		姻戚関係を利用した中央政界での藤原仲麻呂の台頭に押され、天平勝宝2(750)年、筑前守に左降される。直後、さらに肥前守に
		転任。広嗣の怨霊を鎮めるための左遷ともいうが、孝謙が私淑していた真備の勢力伸長を恐れた藤原仲麻呂が真備を天皇から遠ざ
		けるための謀略と言う見方もある。


		翌年(天平勝宝3年:751)遣唐副使として再度入唐。天平勝宝6年(754)1月、唐より鑑真を伴って帰国。鑑真の来日は、朝廷
		が強く願った事でもあったので、困難な外交交渉の末高僧の招来という成果をもたらした真備は、天皇から直接の信頼を寄せられ
		るようになる。天平宝字2年(758)、孝謙女帝が淳仁天皇に譲位し上皇となってその寵愛を得た僧道鏡が台頭してくると、今度は
		藤原仲麻呂自身が乱を起こす事になる。藤原仲麻呂の乱では唐で学んだ兵法を活かし、見事仲麻呂を討ち取ることになる。吉備真
		備は日本に「孫子の兵法」を伝えた人物と言われる。彼は中国で「諸葛亮の兵法」と「孫子」を深く学び、兵法に興味があったよ
		うである。帰国に際し、天皇に最新の武器を献上したりしている。同年4月遣唐使としての功績により正四位下に昇叙され、再び
		称徳天皇の下で政界の中心に返り咲き,正二位右大臣まで昇進する。


		称徳女帝崩御後の新帝擁立に失敗。宝亀元年(770)の白壁王(光仁天皇)即位で、真備は老齢(76歳)を理由に辞職を願い出るが、天
		皇は兼職の中衛大将のみ解任を許し、右大臣の職は慰留する。翌宝亀2年(771)、再び辞職を願い出て許可され政界を退き、宝亀
		6年(775)10月2日、没。81歳(或いは83歳)。
 
		吉備公墓碑
		この墓碑の建立は、岡田藩8代藩主伊藤長寛の考えによるもので子の長之と長生に命じて作らせた。碑文には、弘化4年と書いて
		あるが、嘉永2年という説もある。


		
		ここが吉備真備の墓。現在は、拝殿の北側にかくれたようになっていて、見えにくいところにある。江戸時代、岡田藩主伊藤長貞
		が、この墳墓を吉備真備と確定するために発掘したという記録が残っている。










 








真備寺

 


		吉備真備の菩提寺。境内にはここが古代寺院であったことを示す礎石が残っており、重要文化財に指定されている飛鳥時代の瓦や
		当時の遺物などを保存している。岡山県内で数カ所確認されている古代寺院が真備町にはここともう1ケ所ある。当時としては進
		んでいた仏教に、このエリアを支配していた下道氏が肩入れしていたのかもしれない。









産湯の井戸




		吉備真備を生んだ下道氏の本拠地は、真備町で高梁川に注ぐ小田川流域一帯だったようである。その小田川にそそぐ谷川に「子洗
		川」があり、江戸時代の学者はこの地に生まれた吉備真備ゆかりの川の名と推定した。その小川の上流にあった湧き清水が、いつ
		の頃から真備の産湯の井戸と伝承されてきた。現在では、二度も遣唐使として中国に渡った真備にちなんで、色彩豊かな中国風名
		水公園として整備されている。







真備公館跡

 


		吉備真備の産湯の井戸のすぐ近くにあるのが、真備が生まれた屋敷跡と伝承されている公館址である。また、吉備家のご家人が住
		んでいた場所ともいい、「吉備公館址」と自然石に刻まれた石碑は明治33年の建立。

		上の顕彰碑は英語ではなかった。フランス語でもないようで、これはラテン語だろうと言うことになったが、何故ラテン語なのか
		わからなかった。



		真備は、現代のサラリーマンもここまではと言うような血みどろの権力闘争に生きていた。吉備の役人の子供に過ぎなかった彼は、
		その叡智ゆえに出世し、その出世ゆえに疎まれた。更には智謀ゆえに再度中央での政治に復活した。菅原道真同様、大宰府左遷と
		いう道も歩んでいるが、これは必ずしも左遷とは言えない面もある。
		唐や新羅など、国際的緊張が高まる中、彼が大宰府防衛の任に就いたのは、単に政敵が中央の政治から遠ざけたかったという理由
		だけではなく、その軍事的知識を買われてという意味合いも強い。事実、平城京の人材をわざわざ九州の真備のもとへ送り、兵法
		を学ばせている。また、防衛のための重要な城・怡土(いと)城を築かせてもいるので、真備の兵法の知識は、当時無視できない
		ものであったと言える。そして藤原仲麻呂の乱ではその兵法を駆使し、見事中央に返り咲いているのである。

		道真と真備を比較してみると、二人とも学問で身を立てて政界に身を投じ、ともに右大臣まで出世し、極めて有能な政治家として
		活躍している点で共通している。しかし、真備が唐に二回も渡り、多方面にわたる学問を修めたのに対し、道真は渡航経験が無く、
		国内でも讃岐国守として4年間勤務しただけで、生涯の殆どを都のなかで過ごしている。修めた学問としては文学のみである。吉
		備は大宰府に流されたが9年間辛抱し続け、ついに都へ返り咲く。これに対し道真は左遷先の大宰府で悶々とした日々を送り、つ
		いにそこで果ててしまう。
		怨霊として天神社に祀られはしたが、受験生が天満宮にお参りするのはおかしいのかもしれない。もしろ吉備神社の方にお参りし
		たほうが効き目があるのではないだろうか。特にサラリーマンを志す諸君は、絶対吉備神社(どっかにあるのかな?)の方に参る
		べきである。


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