<吉備津彦神社>
吉備津彦命の御陵を山頂に抱く優美な吉備の中山を西にひかえる、古来からの備前の一宮とされる由緒ある社。8月2・3日に行
われるお田植え祭は古代から中世に形成された神事をそのまま現代に伝える。JR吉備線備前一宮駅から徒歩5分。
<桃太郎伝説>
桃太郎の鬼退治で知られる「桃太郎伝説」。このおとぎ話の元となっているのが「温羅伝説」と言われるものである。桃太郎が吉
備津彦命で、鬼は温羅(うら)である。吉備津彦命は悪行を重ねる温羅から吉備の国を守った英雄として神社に奉られる。
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第11代垂仁天皇のころ。吉備の国に異国の王子が舞い降りた。名を温羅といい、身長4.2m、両目は虎か狼のように爛々と輝
き、髪は髭はぼうぼうとしていて、性格は極めて凶悪。温羅は備中国新山に居城を築き、西国から都に送る貢ぎ物や婦女子をしば
しば略奪したり、気に入らぬ者は大きな鉄釜(=鬼の釜)で煮て食べたりしていたことから、人々は温羅を「鬼神」と呼び、その
居城を「鬼ノ城」と呼んで恐れていた。温羅の悪行にたまりかねた人々は大和朝廷に温羅退治を申し出る。さっそく武将が送り込
まれたが温羅は神出鬼没にして変幻自在。武将はことごとく破れ去った。そこに白羽の矢が立ったのが、武勇に優れた五十狭芹彦
命(いさせりひこのみこと:後の吉備津彦命「きびつひこのみこと」、第7代孝霊天皇の皇子)だった。命は大軍を率いて吉備の
中山に陣を張り、片岡山(倉敷市矢部)に石楯を築いて戦いに備えた。
いよいよ合戦の時。吉備津神社のある位置から命の放った矢は、鬼ノ城から温羅が投げた岩と空中でぶつかり合っては落ち、なか
なか勝負がつかない。(矢と岩が落ちた場所と言われているのが、吉備津神社と鬼ノ城との中間地点にある矢喰宮(岡山市高塚)。
ここにはその時ぶつかり合って落とされた弓矢が祀られていると言い伝えられている。)そこで命は住吉大明神のお告げのとおり
一度に二本の矢を放つと一本は温羅の投げる岩とぶつかり合い落下したが、もう一矢は命の狙い通り温羅の左目に命中。温羅の左
目から吹き出した血は血吸川(総社市)に流れ、下流にある浜をも真っ赤に染められたという。今ではその地は赤浜と呼ばれてい
る。
命に追われた温羅は雉に姿を変えて山中に隠れた。しかし機敏な命は鷹となって追跡。そこで温羅は鯉に化けて血吸川に逃げ込ん
だ。これを逃すまいと今度は命は鵜となって鯉に姿を変えた温羅に食らいつき、噛みあげた。これがこの場所が鯉喰神社(倉敷市
矢部)と呼ばれる由縁である。絶体絶命の温羅。最後におのれの「吉備冠者」の名を命に捧げたため、それ以後命は「吉備津彦命」
と改名された。
捕らえられた温羅は首をはねられ、首は首村(岡山市首部)にさらされた。ところが、その首は何年たっても大声を出して唸り続
けたのである。命は部下の犬飼武命に命じて犬にその首を食わせたのだが、ドクロとなった首はなおうなるのを止めなかった。そ
こで命は吉備津神社の御釜殿の土中深く首を埋めさせたものの、なお13年間うなり続けた。ある夜のこと、命の枕元に温羅が立
ってこう言った。「わが妻、阿曽郷(総社市阿曽)の祝の娘・阿曽媛に神饌( みけ)を炊かしめよ。そうすればこれまでの悪業の
償いとして、この釜をうならせて世の吉凶を告げよう。」と。これが今に伝えられている吉備津神社(岡山市吉備津)の鳴釜神事
である。
その後、吉備国の統治にあたった吉備津彦命は、晩年吉備の中山の麓の茅葺宮(かやぶきのみや)に住居を構え、281歳の長寿
を全うした。現在、命は中山茶臼山古墳に祀られている。(茶臼山御稜(ちゃうすやまごりょう):吉備津彦命が眠る墓稜とされ、
宮内庁の管轄。)
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私も河内さんもこの八方ふさがりの年齢だった。「どうする?えらいこっちゃで」「えぇーアホな。」「儂そう言えば・・」
後数年でこの歳が来るという橋本さんは、「二度とここにはこんわ」と言っていた。そうか、知らなきゃ別にどうという事はない
んや。「それにしてもなぁー、こんなん初めて聞いたで。」
<鬼の釜>
鬼ノ城の500m手前の登山道わきにある直径およそ1.8m、深さ1.4mの鉄の釜がそうではないかと言われているが、鎌倉
時代の僧侶重源が庶民の入浴に使用させた湯釜とも言われている。
<吉備の中山>
吉備のほぼ中央に位置するなだらかな独立丘陵で、かつては吉備穴海が南山裾まで入り込み、山上からは吉備の児島が一望されて
いた。 西山麓には吉備津神社が、東山麓には吉備津彦神社が位置する。
<矢喰宮>
「やぐいのみや」と読む。吉備津神社と鬼ノ城との直線距離は約10km。矢喰宮はほぼその中間地点に位置することから、吉備
津彦命の放った矢と温羅が投げた岩とが落ちた場所といわれている。境内には大小4つの岩があり、矢喰の岩と呼ばれている。
<血吸川>
「ちすいがわ」と読む。血吸川は鬼ノ城を源流に、南へ約8キロ下った総社市赤浜で砂川に合流する。
<赤浜>
「あかはま」と読む。血吸川の川下の地名。温羅の流した血潮が流れ出て一帯が真っ赤に染まったことからこう呼ばれるようにな
ったという。
<皇の墓>
「みかどのはか」。総高1.19mの墓。珍奇な無縫塔で、朝鮮の百済形式の墓であることから鬼ノ城の首領(温羅)の胴体を埋
めた墓 ではないかとの説がある。
<御釜殿>
「おかまでん」。吉備津神社の拝殿から南に続く長い回廊を経て、右手に見える入母屋造りの建物。死後もうなり続けた温羅の首
は、このかまどの八尺(2.4m)下に埋められ、迷い事ある人にうなり声をたてて吉凶を告げると伝えられている。かまどにか
けられた大きな釜から湯気が上がってくると神官と巫女が祝詞をあげる。釜の音が大きく鳴れば「良い知らせ」、音が低かったり、
鳴らなかったりすると「悪い知らせ」と言われている。この「鳴釜神事」は毎週金曜日以 外は毎日行われている。
<艮御崎宮>
「うしとらみさぎぐう」。吉備津神社本殿の東北(丑寅)隅に祀られている艮御神とは、吉備津彦と戦って破れた温羅のこと。
神霊が強く、人々を畏敬させていたため、備中各地に御崎神社(御崎大明神もしくは園崎神社と書くものもある)と称する神社が
多い。その多くは吉備津神社の艮御崎宮を祀っている。後白河法皇が集められた流行歌謡集「梁塵秘抄」に「丑寅みさぎは恐ろし
や」とあるのは、艮御崎神の霊威が人々に畏怖され、庶民の信仰の対象として歌にまでうたわれていた という証拠といえる。
<鯉喰神社>
「こいくいじんじゃ」。吉備津神社系の神社で赤浜地区から南東へ約2km、足守川に沿って建つ。吉備津彦命が温羅をつかまえ
た場所とされ、拝殿の屋根瓦には泳ぐ鯉の絵柄や鯉の文字も見られる。発掘調査により、社殿の小丘は東西約40m、南北約30
m余りの長方形を呈す る弥生末期の墳丘墓と判明した。
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