SOUND:Penny Lane   






		メンバー : 服部、平、河原、井上 計4名、今回東江氏はゴルフの為欠席。
		
		平成10年3月28・29日、歴史クラブの面々は桜を求めて紀州の旅に出掛けた。大阪ではまだ五分咲きだが、和歌山ならもう咲い
		ているに違いないと、高野山から龍神温泉を巡り南部川で一泊、道成寺から紀三井寺を廻ってご帰還というコースだった。案にたがわ
		ず、見事な桜の祭りだった。龍神川の両岸には山桜も満開だったし、高野山、道成寺、紀三井寺も、まさしく春高楼の花の宴であった。
		高野山では武将達の墓並びに驚き、龍神温泉では川を眺めながらの露天風呂を楽しみ、南部川村では備長炭(びんちょうたん)の製造現場
		が見れた。
		南部川の民宿で見た星空のきれいだった事。あれほどの星達は北アルプスあたりにいかないとまず見れまい。道成寺の坊さんは、清姫
		・安珍STORYを実におもしろおかしく聞かせてくれた。帰りには、古墳時代の尾の崎遺跡を見学し、有意義な一泊旅行だっ
		た。東江氏のゴルフは、強風と低スコアでさんざんだったらしい。ヒッ、ヒッ、ヒッ。ククククク。



 


 
高野山は、遣唐使として唐へ渡った空海(弘法大師)が開いた真言密教の根本道場である。高野山は和歌山県伊都郡高野町にあり、町全体は山に囲まれている。国道24号線から高野山道路を登っていくと、大門に始まり金剛峰寺を経て空海の眠る奥の院御廟まで、道路の両側に寺院が建ち並ぶ。標高800メートル、周囲を深山に囲まれ東西5.5キロ、南北 2.3キロの山上盆地だ。
弘法大師・空海は 20歳で出家し、31歳の延暦23年(804年)、唐に渡り、都・長安で恵果和尚より正統密教をきわめ、8人目の阿闍梨遍照金剛の称号を得、大同元年(806年)に帰国してから、真言密教を全国各地に広めた。日本のあちこちに弘法大師逸話が残っている。嵯峨天皇より高野山を賜り弘仁7年(816年)開山、これが高野山金剛峯寺の初めと言われている。 それから20年後、大師は62歳の承和2年(835年)3月21日に入定し即身成仏となり、今も奥の院御廟に葬られている。
空海の死後も、高野山自体は勢力を伸ばし、戦国時代には相当の所領(約16万石)を有した寺領権力となった為、織田信長はこれを焼こうとしたが果たさずに本能寺で果てた。高野山は豊臣秀吉に屈し、所領2万石33万坪を安堵されて生き延びる。徳川時代も幕府の庇護の元に、諸大名達の墓所として栄え今日に到っている。
金剛峰寺は霊宝高野山の総本山として栄え、現在では全国に4000余りの末寺を持つ。大広間、柳の間(豊臣秀次は、ここで切腹した。)、梅の間等々の部屋には、狩野元信、探幽、探斉らの襖絵があり有名である。本坊以外にも、別殿、奥殿、新書院、茶室等の建物があるが、現在の本坊は、文久3年(1863年)に再興したもので文化財となっている。






     

一の橋から奥の院を目指して歩く。

 

 

 


		この参道には武将達ばかりでなく商人や一般人の墓も多いが、しかし侍達の墓には圧倒される。高野山を焼こうとした織田信長に始ま
		って、豊臣家、徳川家、石田三成、加賀前田家、蜂須賀家、本田忠勝、筑前黒田家、伊達家、等々、これでもかこれでもかと武将達の
		墓が現れる。
		歩きながら、ここで幽霊どもは夜な夜な関ヶ原の合戦をやっているのではないか、とふと思った。これだけの武将達がいるのなら、丑
		三つ時のこの参道は一体どんな有様なのだろうか、と少し見てみたい気になった。だが、たった一人で夜中ここに佇む恐怖を思ったら
		ゾッとする。

  

  

  




即身仏となった弘法大師の御廟には、灯明、お香、読経が絶えることなく捧げられる。全世界1000万の信者達は、ここを聖壇としてあがめ、毎年100万人以上がこの高野山を訪れる。現代では、高野山の墓所を利用しているのは大名達ではなく企業である。Panasonic、SONY、SHARP、日産、トヨタといった名だたる企業の社墓が新しい墓地園に建てられている。 花菱アチャコや大河内傳次郎など、芸能人や有名人もここに墓がある。左の写真はロケット産業に強い明和工業(株)のものである。企業の墓は、トレードマークや社業を表した墓碑が多い。福助足袋は福助人形、飲料会社はコーラのビン、といった具合だ。日本写真家協会の墓は、写真業界に貢献した人々の顔写真が石に刻み込まれていた。一見写真を石に印刷したように見える。
高野山は、時代が移り庇護者が変わっても、しぶとく生き残って行くに違いない。

    








高野山から龍神温泉に寄り、川縁の露天風呂で汗を流す。いいお湯だった。




		汗を流した後、日高郡南部川村の民宿へ向かう。この民宿は紫音(しおん)と言い、河原氏の高校・大学時代の友人が脱サラで
		経営している。日本一の梅の産地であり、高級炭として名高い備長炭(びんちょうたん)の一大産地でもある南部川村の清川と
		いう部落で、奥さんと娘さんと一緒にこの民宿をやっている。
		特に、廻りに何があるわけでもない、ホントに頭にドが付く程の田舎なのだが、結構繁盛しているらしい。



		民宿の部屋からみた、紀州南部の夕焼け。素晴らしいカラーの大叙情詩だ。民宿は、丘の上の崖っ縁に立っており、和室が3室で
		10名ほど宿泊できる。

 
服部さんと私(井上)。平さん(右)と河原さん(左)真ん中がこの民宿のオーナー中村さん。

 
服部さんと中村夫人。民宿紫音のパンフレット。連絡先0739(76)2144,民宿紫音まで。





山菜やミニ懐石の夕食が済んだ後、中村さんが「今日は焼くと言ってたから見に行きましょうか」と言う。備長炭の製造現場を見せてくれる、というのだ。紫音の丘のすぐ下に炭焼きの窯が2つあり、脱サラ組が二人で備長炭を焼いていた。おもしろかった。それにしても、南部川村には都会からの脱サラ組が結構いる。 都会に生まれ、生存競争と自己研磨に明け暮れる都会での生活を嫌悪した人々には、かえって何にもない所での生活が素晴らしく思えるのだろう。民宿は新しく建て増ししていたが、広島から奥さんの両親が転居してくるのだそうだ。田舎に生まれ育った私からすれば、こんな何も無い所での生活は絶えられない。人は様々である、ホント。
窯からの帰り道、真っ暗な中で上を見上げると、落ちてきそうな星の数。八ケ岳や北アルプスに登っていた頃はよくこんな星空を見たが、まさしく満天の星。流れ星も見た。この星空は一見の価値がある。






道成寺・紀三井寺・尾ノ崎遺跡

   


 

 



 

















		この遺跡は岬の突端にある。火力発電所の建設に伴って発見されたのだが、海の際に竪穴式住居跡があったので、生活者は漁業に従事
		していたと見られる。しかし鏡も発見されているし、この辺りの漁業従事者達の長だったのかもしれない。
		遺跡の先に発電所が聳えており、そこへ行く発電所用の道路が大きく遺跡を跨いで伸びている。住居跡は埋め戻され石碑のプレートが
		その跡を示している。

  



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