Music: Hey jude




2004.8.29(日曜)台風16号接近の日 涼を求めて、牛若丸が天狗と修行した鞍馬山へ。


		<鞍馬山>	(愛山料¥200)
		鑑真和上の高弟、鑑禎上人によって毘沙門天を奉ったのが始まりとされる。のちに造東寺長の藤原伊勢人
		が堂塔伽藍を建立し、千手観世音菩薩もあわせてまつられることになった。本殿金堂には三尊尊天が安置
		されている。尊天とは、月輪の精霊(千手観世音菩薩)、太陽の精霊(毘沙門天王)、大地の精霊(護法
		魔王尊)を言い、愛と光と力を表し、三身一体としてそう称する。(と案内にある。)





		行程: 出町柳駅  ↓(叡山電鉄30分)鞍馬駅  ↓(徒歩10分) ↓ 鞍馬寺仁王門  ↓(徒歩5分)
			由岐神社  ↓(徒歩7分)源義経供養塔  ↓(徒歩10分)↓ 	鞍馬寺金堂  ↓(徒歩15分)
			義経公背比べ石・遮那王堂  ↓(徒歩7分)義経堂 ↓(徒歩7分)奥の院魔王殿 ↓(徒歩10分)
			鞍馬寺西門  ↓(徒歩15分)貴船社奥の宮	↓(徒歩12分)貴船神社  ↓(徒歩30分)
			貴船口駅  ↓(叡山電車27分)出町柳駅


		京阪電車「出町柳」駅から叡山電鉄にのって、終点鞍馬口まで行く。今まで何回もこの電車には乗ったけ
		れど、新しい車両が出来ていた。窓からの景色が見えるように、座席が窓側を向いてる車両だ。行きはこ
		れまでの電車だったけど、帰りにその車両に乗った。椅子が外側を向いてるなんて、全く京阪電車ならで
		はのアイデアだ。こんな電車見たこと無い! 
		緑豊かな風景を楽しみながら走ること30分で鞍馬駅に到着。駅の待合室には、かわいいイラスト付きの
		鞍馬・貴船のマップが置いてあるのでもらって行く。

 

新会員、杉本さん。ネットデビューだ。

 

		
		前回の例会をみると、「7.31(日曜)台風10号通過の日」となっている。1ケ月で6本の台風が来てる!
		今年は台風の当たり年だ。ここ2、3年、8月は暑いので例会は取りやめにしていたのだが、今回は前回
		のみゆき会で「どっか行こうぜ。」と言うことになり、「暑さを逃れて鞍馬山へ。降りてきた貴船の川床
		でソーメン流しと洒落こもう。」と言う企画ができあがった。ちょうど新会員杉本さんも入会して、ちょ
		っと歴史探訪には物足りないかなという気はしたが、まぁ、今回は避暑と川床ソーメンだと割り切って決
		行した。今回参加者は、服部、栗本、河内、橋本、松田、杉本、井上の、7人の侍。

 


		天狗の前で記念撮影。「僧正が谷」といえば講談や落語で有名な「天狗の里」である。「大岡裁き」とい
		う落語は関西では有名だ。



		夢を見てうなされていた大阪の男が、女房にその夢の内容を問いつめられ、知らんというと大喧嘩になり、
		なだめた大家も後でその夢の内容を聞きたがり、更に知らんというと大家と男が喧嘩になり、とうとう奉
		行所へ。奉行は大家をたしなめた後、誰もいなくなるとさらに夢の内容を聞きたがる。男は知らんと言い
		張り、奉行所の庭につるされる。突然突風が吹き荒れて男の姿はかき消えて、遥か鞍馬の山奥「僧正が谷」
		へ。空からいきさつを見ていた天狗が男を助けて、杉の大木のてっぺんへ連れてきたのだ。天狗は、女房
		をなじり、大家をなじり、奉行をも馬鹿にするが、やがて、「儂にだけはその夢の内容を教えろ」と男に
		迫る。「勘弁してくれ、ほんとに何も覚えて無いんだ。」という男に天狗は頭に来て、男を杉の木のてっ
		ぺんから突き落とす。「あぁーっ!助けてくれーっ」
		男の家。「あんた、あんた、どうしたん、えらいうなされてるよ。」

		これを循環落語と言って、死んだ枝雀はたいそううまかった。




		鞍馬駅を降りると、温泉街というような感じの町並みがすこしある。あたり一面に漂うのは白いご飯が欲
		しくなるような佃煮の匂い! 鞍馬の名物・木の芽煮だ。
		帰りに立ち寄らないのでここで買っていこうと、河内さん、杉本さんが店を覗いている。門前の店を通り
		過ぎ、鞍馬寺の仁王門へ急ぐ。






		<鞍馬寺山門>
		鞍馬山の空気は、清々しく霊気に満ちている。きいんと張りつめたような冷気が辺り一面に満遍なく漂い、
		この山がただの山ではないことを予感させる。湛慶作の仁王像を祀り、俗界から浄域への結界を表す仁王
		門をくぐり愛山費として200円を払う。まず目に飛び込んできたのが比較的新しい朱塗りの社。立て札
		には「鬼一法眼社」とあり、牛若丸に兵法を授けたと言われる武芸の達人・鬼一法眼を祀っている。法眼
		は一条堀川に住む陰陽師ということで,安倍晴明を彷彿とさせる。「義経記」によると法眼ははじめ、弟子
		を使って義経を殺害させようとしたが失敗し、後に義経に兵法を授けたそうだ。弁慶しかり、法眼しかり、
		ライバルを味方に変えてしまうような不思議な魅力が義経にはあったのだろう。
  



		唐招提寺の鑑真和上の高弟・鑑禎上人が宝亀元年(770)正月の4日の寅の夜の夢に鞍を付けた白馬の導き
		で鞍馬山に登山、鬼女に襲われたところを毘沙門天に助けられた。仏法を守護するお像が降臨されたと悟
		った上人は草庵を結び、その毘沙門天をお祀りしたのが始まりと伝わる。4半世紀のちの延暦15年(796)
		に、造東寺長官の藤原伊勢人は日頃信仰する観世音を泰安する一宇の建立を念願していたが、夢のお告げ
		と白馬のたすけを得て登った鞍馬山には、鑑禎上人の草庵があり毘沙門天が安置されていた。
		自分は観世音を祀りたいのにといかぶる伊勢人に「毘沙門天も観世音も根本は一体のものである」と再び
		夢のお告げがあった。納得した伊勢人は草庵を三間四面の堂舎に造り替え毘沙門天を泰安、のちに千手観
		音を造像して併せ祀り、宿願を果たした。そして鞍を負った馬が鞍馬山を示したことにちなみ、鞍馬寺と
		呼ぶようになった。 
  
 

 


		<由岐神社>
		鞍馬寺を入って、ケーブルカーの横の道を行く。軽い上り坂を歩いて行くと由岐神社がある。この由岐神
		社は平安京の頃、北方鎮護の目的で創建された。10月22日の夜ここで行われる「鞍馬の火祭り」は有
		名である。この神社は、1610年に豊臣秀頼が建てたものといわれ、拝殿は重要文化財に指定されてい
		る。前回も工事中だったような気がするが、また正門は工事中だった。




		<大国主命>(おおくにぬしのみこと)
		大国主命は須佐之男神の六世の孫(日本書紀・旧事本紀では子供)で、出雲の主神です。ところで、この
		神様の名前の後に神(かみ)を付けたり命(みこと)をつけたりしていますが、これはその神をどうとら
		えるかによって書き分けている訳で、大国主神と書いた場合は神格、大国主命と書いた場合は人格を問題
		にしていることになります。 
		大国主神には多くの異名があります。大穴牟遅神(おおなむぢのかみ)、八千矛神(やちほこのかみ)、
		葦原色許男神(あしはらしこをのかみ)、宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)というのが古事記に見
		られます。日本書紀は国作大己貴神(くにつくりおおあなむちのかみ)、葦原醜男(あしはらしこを)、
		八千戈神(やちほこのかみ)、大国玉神(おおくにたまのかみ)、顕国玉神(うつしくにたまのかみ)、
		大物主神といったものを上げています。通常、このように沢山の異名を持つ神というのは部族の統合など
		により幾つかの神格が合体してできた神なのですが、上記の並びを見ると、大物主神以外は合体というよ
		りも単に別の角度から見ただけのことで、基本的には大己貴神という神格で統一されているように思いま
		す。但し古事記の文章を見ていると、八千矛神に関する記述は少し異質で、この神格も後から合体したも
		のかも知れません。しかしやはり大国主神の基本神格は大己貴神から出ているようです。

		<少彦名神>(すくなひこなのかみ)
		少彦名神(すくなひこなのかみ)は大国主神とともに全国を回って国土を開拓した神とされています。
		大国主神がはじめ出雲の「御大之御前」(美保崎か?日本書紀では五十狭々の小浜と書かれている)にい
		た時、小さなガガイモの実の舟に乗って蛾の皮を剥いだ服(日本書紀ではミソサザイの皮の服)を着た小
		さな神様がやってくるのを見ました。大国主神が珍しがって掌に乗せると、頬をつつきます。そこで「あ
		なたは誰か」と聞くのですが、小さな神様はまだ言葉がしゃべれないようでした。そこで物知りの案山子
		(かかし)の神に聞くと「それは神産巣日神の子供の少彦名神ですよ」と答えました。そこで大国主神が
		神産巣日神にそのことを尋ねると「その子は私の指の間からこぼれ落ちた子なのですよ。あなたの弟とし
		て育てて、一緒に国作りをして下さい。」とのことでした。(日本書紀では高産巣日神の子供になってい
		る。神産巣日神の子なら出雲系、高産巣日神の子なら高天原系となって大違いだが、元々この神は海を渡
		って来た稀人神なのでしょう)
		(美保関に現在ある美保神社の祭神は美保津姫と事代主神である。美保津姫は事代主神の母ではないが父
		の大国主神の妃の一人である。この美保の地は国引神話によれば能登半島の珠洲から引いてきた土地とい
		うことになっている。古い時代からそちらとの海上交通を利用した交流・商業があったことを伺わせる。
		なお大国主神の重要な妃の一人に沼河姫がいるが沼河姫は越の国の姫で、珠洲付近まで大国主神の勢力範
		囲が及んでいたとしても不思議ではない。なお能登半島には大国主神を祀る重要な神社のひとつ気多大社
		がある。)


由岐神社の先にある、「義経供養塔」(下)。牛若丸はここに住んで居たとある。

 


		<東光坊跡・義経供養塔> (とうこうぼうあと・よしつねくようとう)
		仁王門から本堂へと続く急坂は「九十九折の坂」として枕草子にも読まれている。由岐神社を抜けてひた
		すら石段を上がるとほどなく「川上地蔵堂」なる比較的新しいお堂とお地蔵さんが。ここには牛若丸の守
		り本尊の地蔵尊が祀られており、剣術修行の傍ら手を合わせていたという。さらに登ると、牛若丸が7歳
		から10年間暮らした東光坊跡がある。遮那王と呼ばれ、覚日阿闍梨の元で仏法修行に励むはずだった義
		経だが、夜な夜な東光坊を抜け出し、父の敵を討つべく奥の院で兵法修行に励んでいた。現在では義経供
		養塔が建っている。

 

 

 

 

大正天皇皇后、貞明(さだあきら)妃が鞍馬山に行啓したとき休んだという「お休み処」。
ここを登れば金堂である。いつか来た時にはこのあたりに猿がいた。



 

 
		<鞍馬寺・本殿金堂> 	鞍馬弘教総本山。
		770年(宝暦1)建立。鑑真の高弟鑑禎が毘沙門天を本尊として奉安したのが起こり。平安時代は京都
		の北方守護の寺として信仰を集めた。本殿金堂、多宝塔などは近年再建された鉄筋造りである。本尊・鞍
		馬山尊天は秘仏とされ、代わりに大杉権現の霊木で作った尊天が拝観できる。宝殿は薄暗く、信者の髪の
		毛を納めた容器が並んでいて、ちょっと不気味な雰囲気。金堂の入り口には「9月15日義経祭」という
		看板が立ててある。義経の御霊を慰め業績を称えるお祭りが今年も開催される。子供達の剣術披露もある
		という金堂の横には「瑞風庭」と呼ばれるUFOのような盛り砂がある小さい庭がある。これは650万
		年前に人類救済のため、魔王尊が金星より降臨したところを表わしたものという。(魔王堂の項参照。)

 

		
		最初、「虎かな、獅子かな」とか言っていたが、霊宝殿に歴代の虎が置いてあって、「阿吽の虎」と判明。
		そう言えば信貴山も毘沙門天で、あそこにも阿吽の虎があり、阪神タイガースの守護寺になっていた。

 


		与謝野晶子・鉄幹夫妻の歌碑(上)。瑞風庭の脇を通ってまた険しい階段が続く。ここは奥の院魔王殿に
		続く道だ。ほどなく「鞍馬山霊宝殿」(入館料200円)に辿り着く。
		下は「鞍馬山霊宝殿」から見た京都北山の光景。




		本殿奥の参道を上がっていくと鞍馬山の文化財・動植物の標本を展示した霊宝殿と、与謝野晶子の書斎で
		もあった冬柏亭がある。鞍馬山では、その自然を守り育てるために全山を「自然博物苑」と名づけ観察で
		きるようにしている。1階は、山内の動植物、鉱物などを展示する自然科学博物苑展示室。2階は寺宝展
		観室と與謝野晶子の遺品を展示する。3階は国宝の毘沙門天像などの仏像奉安室、宝物収蔵庫がある。




		<鞍馬山霊宝殿  KURAMAYAMA MUSEUM>
		住所: 〒601-1111   京都市左京区鞍馬本町1074  TEL: 075-741-2368 
		--------------------------------------------------------------------------------
		1階 鞍馬山自然科学博物苑展示室(自然の展示)
		2階 寺宝展観室と與謝野記念室(與謝野寛・晶子遺品)
		3階 仏像奉安室。他に別棟 冬柏亭(晶子書斎)
		--------------------------------------------------------------------------------
		●開館時間:午前9時〜午後4時 
		●休 館 日:毎週月曜日(月曜日が祝日祭日・休日のときは翌日休館。) 
			 (12月12日〜2月末日。その他臨時に休むことあり。) 
		●アクセス:出町柳より 叡山電車鞍馬行に乗車(約30分) 
			  仁王門より ケーブル(約2分)徒歩約550m 

 

国宝の毘沙門天像など。下が與謝野晶子東京時代の書斎、冬柏亭。

 

 


		冬柏亭の脇の道を奥の院へ進む。ほどなく「息次ぎの水」がある。東光坊から奥の院へと毎夜剣術修業に
		通った牛若丸がその途中、のどの渇きを潤したと言われる。誰かが言う、「マジかい?」「ホンマに牛若
		丸が飲んだんやろか?」「どやろね、ホンマにここにおったんなら飲んだかもしらんね。」

 



 

 



		<木の根道>
		地盤が固くて地中へ伸ばせなかった杉の根が、地表を這っている。ここでも牛若丸が兵法の修行したとさ
		れる。雨が振ると危険で歩けない。どこを見ても、杉の木の根っこが地面を這いずり回っている。この山
		は、このあたりから貴船に至るまで木の根道が続く。木の根道を過ぎると、後は貴船までひたすら下りで
		ある。

 

 


		このあたりが「僧正が谷」のど真ん中である。天狗が居るとしたらこのあたりに潜んでいるはずだ。牛若
		丸に剣術を教えたのはここにすむ天狗で、この天狗には鞍馬山僧正坊という名前がついている。この僧正
		坊は、牛若丸と鞍馬天狗で有名な天狗だが、一説には、和気清麻呂の子孫で、真如上人の弟「壱演僧正」
		ではないかとされる。但しこの僧正坊は鞍馬山の主ではなく、鞍馬山の主はあくまで鞍馬山魔王尊と呼ば
		れる大天狗で、その本地は毘沙門天であると言う。6500万年前に金星から来たのかな。
		
 


		平田篤胤は、天狗とは、現世で知識だけを追い求め精神的な修行を怠った者が変化したものであると言っ
		ている。また鎌倉時代に書かれた「源平盛衰記」にも同趣旨のことが書かれており、天狗は通常の六道
		(地獄道・餓鬼道・阿修羅道・畜生道・人間道・天道)には属さない天狗道に堕ちたものであるとしてい
		る。天狗は知者であり、仏法にすぐれているので地獄/餓鬼/阿修羅/畜生道には落ちない。しかし無道
		心だから天道にも上れない。結果行き場がなくなって天狗道に落ちて輪廻から見放されてしまうのである
		と。
		荒俣宏は、天狗が牛若丸に剣術を教えたというのは、天狗にとって人々に知識を伝授することだけが天狗
		道から抜け出す方法だからではないかと考察している。つまり膨大な知識ゆえに天狗になってしまったの
		で、それを誰かに渡してしまうことでやっと他の道に移動できるのだと。それ故天狗は色々と物事を教え
		てくれるのである。




		天狗は修験道と深い関わりを持っており、天狗のイメージの上には山伏たちのイメージが重なる。天狗が
		山伏の姿をした話もあれば、山伏が死後天狗になったという話もある。山中で厳しい行を行ない、火渡り
		・刃渡りなどをする山伏たちの姿は民衆から畏敬の念をこめて見られていた。そして彼らはまた、里に病
		の者があれば祈祷をしたり薬を作ったりしてくれる存在であり、神に近い存在であったとも言える。結果、
		山中に出没する天狗というものにその山伏たちの姿がだぶっていったのは自然なことであった。 

 


		「天狗」は元々は字の通り「天のキツネ」で、通常の狐の霊「地狐」と対応する者である。日本書紀の舒
		明天皇の9年に大きな星が東から西に流れ、雷に似た音がしたのを僧旻が「あれは流星ではなく天狗だ」
		と言ったという記録が残っており、これが天狗の初見であるとされる。
		この舒明天皇9年という時期は大化の改新前夜で旱魃があり日食がありと、色々な異変が起きている時で、
		そういった怪異のひとつとして天狗が登場している。
		また天狗は須佐之男神の猛気が飛び出して生まれた姫神が元祖で、この姫神の息子の天魔雄命が日本全国
		の天狗の長であるという説もある。やはり天狗のような強い法力を持つものを束ねることができるのは須
		佐之男のような荒ぶる神でなければ無理だという発想によったものだろうか。また、天狗は猿田彦大神で
		あるという説も根強く、しばしば山や丘の上に猿田彦大神が祭られているところに、天狗の面がかかって
		いる。
 


		<義経堂>

		●源義経・みなもとのよしつね(1159〜89)● 九郎判官、伊予守。
		源義経は平治元年(1159)、源義朝と九条院雑司常磐との間に、義朝の九男、今若、乙若につづく常盤の第
		3子として誕生し、牛若と名付けられた。頼朝の異母弟。平治の乱で源義朝は破れ、常盤御前は幼子を連
		れて京を逃れたが、母・関屋が六波羅に引き立てられたと知るや、六波羅に名乗り出た。清盛に助けを懇
		願すると、清盛は美人の常盤に心をうつし、常盤が清盛の愛人になることを条件として母・関屋と三人の
		子どもを赦免した。今若は醍醐寺へ、乙若は八条宮法親王に仕えそれぞれ出家させられた。末子の牛若は
		乳飲み子であったため母の手もとに残ったが、やがて、4歳をすぎた頃に牛若は京都の山科に移り、常盤
		は清盛から離れ一条長成の基へ再嫁した。牛若もしばらくは一緒に暮らしたが、7歳になったところで常
		盤により鞍馬山の別当東光坊に預けられた。牛若は読書をよくし、仏教や儒教を学ぶなど、学問に明け暮
		れる毎日を過ごしたが、東光坊は、このような熱心な童がいるものかと感じ入った。

  


		ある夜、鞍馬山に身を置く牛若のもとに正門坊と名乗る僧が現れ、牛若が平清盛に破れた源氏の大将義朝
		の子であること、牛若の兄源頼朝が今伊豆の国に流されていること、さらには、源氏代々の武功勇武など
		をつらつらと語った。
		己の素性を知った牛若は、この日を境に平家討伐を一途に思い、「謀叛をおこす程ならば、はやわざをせ
		では叶ふまじ」と念じ、いよいよ武芸に身をやつすこととなった。時に、牛若十六歳の頃であった。
		夜になると、牛若は密かに寺を抜けて山奥の僧正ヶ谷に出向き、貴船神社に「源氏を守らせ給へ。宿願ま
		こと成就あらば、玉の御寶殿をつくり千町の所領を寄進し奉らん」と祈願した。そして、どこからともな
		く現れる物怪(もののけ)を相手に、飛んで、跳ねて、黄金の太刀を縦横無尽に振りかざし腕を磨いた。
		牛若は、こうして神業とも思える武芸を身に付けることとなった。




		ある夜のこと、東光坊が、夜な夜な寺を抜け出る牛若に不審を抱き後をつけさせると、神社境内には、四
		方の草木を平家一族、一本の大木を「清盛」と名付けて散々に切り、やおら懐から取り出したぎっちょう
		の玉二つを清盛、重盛(清盛の長男)の首と見立てて木に吊すという、正に鬼気迫る牛若の姿があった。
		これを知った東光坊は大いに驚き「牛若殿の御ぐしそり奉れ」と言って出家させようとしたが、労しく感
		じて思いをとどめた。これを契機に名を「遮那王」に改めることとなり、言い付け通り僧正ヶ谷へ行くの
		を止めたが、遮那王は鞍馬寺の本尊のもとに日参し、密かに平氏討伐を祈願していた。

 


		そんな折、吉次信高と名乗る者が遮那王のうわさを聞き面会に訪れた。吉次は、金買い付けのために奥州
		と京を往き来する著名な黄金商人で、商売がら奥州藤原氏と親交が深かった。吉次は、藤原秀衡が鞍馬山
		に預けられた義朝の子に会いたがっていることや、源平の戦いがあれば秀衡所有の十八万騎が源氏に味方
		することなどを語り、奥州に思いを向かせた。遮那王は「祈願が通じた、この時こそ」と意を決し誘いに
		応じた。「いつの頃下り候はんずるぞ」との問いに、吉次は即座に「明日吉日にて候」と答え、遮那王の
		奥州下りはその日の内に本決まりとなった。
		寺に帰り人知れず旅支度をしながら、七歳の春から今日までのことが一挙に思い出され、幾筋もの涙で頬
		が濡れた。傍らの横笛に手をのばし息を通すと、霧に靄(もや)る鞍馬山に穏やかな音色が響き渡った。
		遮那王は、笛の音を形見に遺し、鞍馬山を下って行った。

 



 


		金売吉次の手引きにより鞍馬山を下った義経は、奥州へ逃亡。平泉の藤原秀衡の許に匿われた。やがて頼
		朝の挙兵に応じ、治承4年(1180)8月、初めて兄頼朝と対面する。兄範頼と共に京へ向けて出陣した義経
		は義仲を討ち、更に西下して平氏を壇ノ浦に撃破。京都へ凱旋する。
		しかし京都で勝手に朝廷から官位を授かったことや、捕虜となった平時忠の娘をめとったことなどで頼朝
		の怒りを買った義経は、鎌倉へ下向したものの、途中の腰越に留めおかれた。仕方なく再び帰洛した義経
		の許に叔父行家が身を寄せたことで、頼朝は更に義経へ警戒心を抱き、義経もそれに対抗する形で後白河
		院に頼朝追討の院宣を求めた。しかし義経の許には兵力が集まらず、畿内各地を転々とした後に奥州に逃
		れて藤原秀衡を頼った。
		文治3年(1187)に義経の所在が判明したことから頼朝は、再三藤原氏に対し義経の引き渡しを要求。文治
		5年(1189)秀衡が死去すると、嫡子泰衡は鎌倉幕府の圧力に屈して義経を衣川の館に攻めた。義経は妻子
		と共に自害。首は鎌倉へ送られた。しかし腐敗がひどかったことから、義経自身の首であるという確証は
		得られなかったようである。ここから義経ジンギスカン説など、数々の伝説が生まれている。

		昔どっかの大學の入学試験に「源義経について書け」という問題が出て、ある受験生が「げんぎきょう:
		お経の一種」と書いたのは有名な話。我が倶楽部の河内さんではないかという説あり。




		<奥の院魔王殿>
		僧正が谷を抜け、極相林の間を降ってくると、明るく開けたところに「奥の院魔王殿」と言う小さな祠が
		ある。胡散(うさん)臭いこときわまりない。寺門で貰った案内によれば、「650万年前に人類救済の
		使命を帯び金星から降臨した護法魔王尊をまつる」とある。650万年前! しかも金星から!
		人類の歴史はついこの間まで「200万年の歴史」とか言っていたのに、な、なんと650万年前である。
		人類が稲作を始めてからもまだ1万年しか経っていないのに。護法魔王尊は、サルたちを救済していたの
		か。 おそるべし、鞍馬山。

		周辺に露出している石灰岩は2億6000年前に海底が隆起したものであるという。魔王殿はじめ諸堂の
		幕や提灯にも記されている鞍馬寺の寺紋は「羽団扇」。義経に兵法を伝授したと言われる天狗のイメージ
		だ。魔王には済まないが、ここの境内にシートを広げてここで昼食にした。貴船の川床でソーメン流しを
		食おうという企画なので、ここいらで食べとかないともう貴船に着いてしまう、という事で開宴したのだ
		が、ここから10分で貴船だった。

 

 

 

 

鞍馬山西門を出ると、貴船川を渡って貴船の町である。えらい人出だった。

 

 

 




		<貴船神社> 鴨川の水源地にあたり、古来より水の神さまとして崇敬を集めている。 
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		●ご利益  心願成就・えんむすび・家内安全・商売繁盛など。
		●御祭神  高おかみ※神(たかおかみのかみ)
			  本宮は高おかみ※神、奥宮は闇おかみ※神(くらおかみのかみ)が祀られているとも伝えら
			  れていますが、社記には「呼び名は違っても同じ神なり」と記されています。
			  水を司る神様。降雨、止雨を司り、降った雨を地中に蓄えて適量湧き出させる働きを司る神
			  様。水は万物の命の源であり、水がなければあらゆる生物は命を維持することができません。
			  片時もおろそかにすることができない大切な水を供給する水源の神さまです。
		●旧社格  平安時代には、名神大社という最も高い格式に列し、明治の神社制度は官幣中社。
		●本宮   本殿 流れ造り・檜皮(ひわだ)葺き
			  御創建の年代は不詳ですが、奥宮が元もとの鎮座地。天喜3年(1055)に奥宮より現在の場所
			  に移築されました。現在の建物は大正11年のものです。
		●奥宮   本殿 流れ造り・柿(こけら)葺き 
			  本宮より500メートル上流に鎮座。古社中の古社といわれ、創建年代は不詳。
			  伝説によると第18代の反正天皇の御代(1600年程前)の御創建といわれています。浪花の津
			  (大阪湾)に黄色い船に乗った女の神様が現れ、「われは玉依姫なり、この船の留まるところ
			  に社殿を建てて、そこの神様を大事にお祀りすれば国土を潤し、庶民に福運を与えん」との
			  お告げがあり、その船は淀川、鴨川をさかのぼって水源の地・奥宮辺りの川のそばから水の
			  湧き出るところに船を留め、そこに御社殿を建てたと伝えられています。
			  白鳳6年(1300年程前)には社殿を造り替えたとの記録が残っています。
			  キフネの地名は、玉依姫の乗ってこられた黄船から起こったともいわれています。
		●信仰   平安の昔から、日照りや長雨がつづいた時、また国家有事の際には必ず勅使(天皇様のお遣
			  い)が差し向けられ、祈念がこめられました。民衆の間でも水の神様としての信仰はもとよ
			  りですが、心願成就、えんむすび、航海安全、火防せ・消防の神様としての篤い信仰が今も
			  つづいています。
		●分霊社  全国に御分社が約500社あります。和泉式部(いずみしきぶ)もお詣りし、願いが叶い、不和
			  となった夫と復縁した話はよく知られています。 
		そのほか、霊験あらたかな話も数多く伝えられています。 
		--------------------------------------------------------------------------------
		(貴船神社HPより転載)








		貴船神社から、ソーメン流しをやっている料理屋を目指して数分歩く。着いて聞けば、なんと1時間半待
		ちだと言う。「ギェーツ。」「どないする?」「どないもこないも、こんなとこで1時間半も待てんで。」
		日曜なので多少人手が多いのは覚悟していたが、こんなに多いとは。それにソーメン流しなどやっている
		川床は1軒だけで、後はみんな川魚料理屋や高級懐石料理屋ばかりがならんでいる。試みに、一番格式が
		高そうで綺麗な料理屋で、案内しているおばちゃんに「川床て、なんぼすんの?」と聞いてみたらメニュ
		ーを見せてくれた。「13品、16,500円 〜 20品22,000円」「こ、これ、一人の値段?」
		「はいーっ。うちは余所と料理も違うし、川床も綺麗ですからね。」 お、恐るべし、貴船、お前もか。



 

貴船から歩いて20分で、叡山電鉄「貴船口」へ来る。終点「鞍馬山」の一つ手前の駅である。

 

 

 


		橋本さんの、アッという間に女性と仲良くなる能力は、もう芸術的でさえある。「貴船口」で電車を待っ
		ている間に知り合った、3人の神戸のおばさんたちと、ちゃっかりシート席に座って談笑。いやはや、た
		いしたもんだ。上右は、窓の外が見える席に座った栗本さんと服部さん。



		今日は何km歩いたんかねぇ。せいぜい5kmやね。この後、せっかく川床を目指して来たんやから、鴨
		川の川床で反省会にしようと言うことになって三条へ出たが、まだ時間が早く先斗町はどこも準備中。午
		後2時半じゃなぁ。仕方なく四条の川端の「いづもや」へ。ここの3階の座敷で、鴨川をみながら反省会。
		クーラーもきいてて、南座かいわい・東山三十六峰・鴨川を見ながらの小宴会。「こっちの方が涼しぃて
		ええで。」「ほんまや、川床なんか暑いわぃ。」「あんな貴船で呑まんで良かったで。」と、半ば負け惜
		しみのような反省会になった。おかげで今日は、皆さんお早いご帰宅となった。お疲れ様でした。


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