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邪馬台国近畿説を往く

−纒向遺跡−

歴史倶楽部第76回例会 2003.9.28(日)奈良県桜井市巻向



		
		纒向遺跡・古墳群

		三輪山の麓にある桜井市の巻向地区には、卑弥呼の墓ではないかといわれている箸墓古墳を中心に多くの古墳や
		遺跡があり、近くの山辺の道には大和朝廷の実質的な創始者とも言われる、崇神天皇陵(行燈山古墳)や景行天
		皇陵(渋谷向山古墳)等もあり、ここが大和朝廷の発祥の地という人もいる。纒向遺跡には20数基の古墳が存
		在する。このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳
		・東田大塚古墳・ホケノ山古墳がある。これらの古墳を総称して「纒向古墳群」という。近年の橿原考古学研究
		所や桜井市教育委員会等々の発表によれば、纒向古墳群のなかの、勝山古墳、矢塚古墳、ホケノ山古墳、マバカ
		古墳などは出土物の調査等から、建造時期が3世紀半ばまで遡るとされ、これで卑弥呼活躍の時期と一致すると、
		邪馬台国近畿説論者たちは声高らかに叫んでいる。

 



		纒向遺跡は、はたして倭の都なのか?

		纒向遺跡は桜井市の北部に位置し、烏田(からすだ)川と纒向川に挟まれた扇状地につくられた、古墳時代前期
		の大集落遺跡で、本格的な発掘調査は1971年から5年に渡って行なわれ、以下のような点が明らかになった。

		1.纒向遺跡は大集落遺跡といいながら、ムラを構成する住居址や倉庫址は発見されておらず、遺跡を囲む環濠
		  もない。しかも、弥生時代の集落は存在せず、古墳時代前期(3世紀初頭〜4世紀)になって急激に発展し、
		  周辺の古墳群の築造が終わる頃には衰退する。一帯は、弥生時代には未開発地域であったと思われ、3世紀
		  初めになると、急に村落が形成されはじめ、やがて大集落に発展していったようである。だが、およそ15
		  0年後の4世紀中頃には、大集落が消滅してしまった。 
		2.箸墓古墳以外の纒向古墳群は、前方後円の形をしているものの、前方部が短く未発達なため特に「纒向型前
		  方後円墳」と呼ばれる。定型化した前方後円墳が造られる前の墳丘形式とされ、築造時期はいずれも3世紀
		  に遡るものと考えられている。このため、纒向古墳群は我が国最古の古墳群とされる。しかし「弥生時代の
		  墳丘墓」であるという意見もある。
		3.纒向遺跡の推定居住地は、上記の主要古墳を中心として、ほぼ東西南北に一定こ距離をおいて散らばってい
		  るが、纒向遺跡の中心部の王宮があったと思われるような箇所はまだ発掘調査されていない。
		4.祭祀用と思われる土坑がみつかり、弧文円板や鳥形木製品など祭祀用具が多く出土した。また木製農具(ス
		  キ・クワ)が大量に出土している。吉備地方に起源を持つ「弧紋」という紋様を施した木製品や、鶏形の埴
		  輪や木製品なども祭祀に関係するものと思われる。また、「口市」と墨害された7世紀の土器が出土した。
		  これは「日本書紀」に「倭迹迹日百襲姫を大市に葬る」とある「大市」であろうと思われる。
		5.纒向遺跡から出土した土器844個のうち123個(15%)が東海・山陰・北陸・瀬戸内・河内・近江・
		  南関東などから搬入されたものである。またそれまで大和になかった特異な煮炊具も十数個出土しており、
		  他地域との交流が推定される。これら外来の土器は南九州から南関東にいたる日本列島各地のものであり、
		  中でも東海地方の土器が最も多く、朝鮮半島の韓式土器も出土している。
		6.纒向遺跡は、桜井市の北部、北は天理市と境を接し烏田川と巻向川に挟まれた東西2km、南北1.5km
		  に及ぶ広大な遺跡の総称である。箸墓古墳ばかりが注目されているが、邪馬台国の候補地として考える場合
		  には、この遺跡の全体像を思い浮かべなければならない。「箸墓古墳=卑弥呼の墓」だけではここを邪馬台
		  国とする根拠としてはあまりに薄いのだ。遺跡の西側にかたまってある石塚、矢塚、勝山の古墳群から、昭
		  和46年に、幅5m、深さ1m、長さは南北200mにわたった運河とおぼしき大溝が発見された。溝には
		  板を敷き、護岸工事をする高度な技術も施されている。発掘された溝は一部であるが、溝を延長していくと
		  一方は初瀬	川に、もう一方は箸墓に伸びていると言う。幅5m、総延長2600mの大溝が遺跡内を人字
		  形に通じていて、ヒノキの矢板列で丁寧な護岸工事がなされ、集水施設もつくられていた。大溝や下水施設
		  といったインフラを備え、整然と区画された都市らしい機能をもった遺跡が、弥生時代末期に突如出現する
		  のは、この遺跡における謎とされている。



 

		
		近畿説論者たちは以上の結果から、纒向遺跡は南関東から瀬戸内海西部までの広範な地方から人民を動員して古
		墳を築造するために、3世紀になって新しく開発された場所で、その中心になったのが邪馬台国であるとする。
		古墳築造は、皇室を核にした諸氏族の共同事業で、大和に突如として出現した巨大前方後円墳が、北九州に起源
		をもつ剣・鏡・玉の副葬、吉備に始まる特殊器台や特殊壷、また吉備や東瀬戸内に出現した竪穴式石室、出雲の
		四隅突出墳に見られる葺石、畿内の周溝墓などを総合するかたちで成立している、と言うのである。
		そこから、大和朝廷は邪馬台国以前に既に成立しており、崇神の磯城瑞垣宮、垂仁の纒向珠城宮、景行の纒向日
		代宮などは、この纒向が大倭の宮であった証であるという結論が導かれる。そして「倭迹迹日百襲姫を大市に葬
		る」という記事から、「箸墓=倭迹迹日百襲姫」という図式が成立し、「=卑弥呼」となるのである。

		
		邪馬台国畿内説といった場合、勿論ここ纒向だけが候補地ではない。奈良盆地一帯から、大和三輪山、大和郡山
		明日香盆地など、古来から畿内説を支持する人たちの邪馬台国候補地は幾つかあったし、今もある。古くは、日
		本書記の編者たちが、邪馬台国は神功皇后の時代であるとし、女王卑弥呼は神功皇后の事で、皇后は畿内大和に
		いたとしてきたし、南北朝時代の北畠親房に始まって、京都大学の内藤湖南、笠井新也、梅原末治、直木孝次郎、
		小林行雄、和歌森太郎、樋口隆康、原田大六、肥後和男、田中琢など多くの論者が畿内説を唱えてきた。
		しかし「箸墓=卑弥呼の墓」説を、最初に一番論理的に唱えたのは笠井新也である。この後の論説は笠井説を補
		強し、肉付けしてきたに過ぎない。
		徳島県の脇町中学校の教師であった笠井新也は、卑弥呼は倭迹迹日百襲姫であり、箸墓は卑弥呼の墓であるとす
		る趣旨の論文を、大正時代から昭和にかけて、あいついで発表した。後に徳島大学の教授となった笠井の論点は
		次のようなものであった。 
 
		1.箸墓は、「日本書紀」に記されている倭迹迹日百襲姫の墓であり、倭迹迹日百襲姫は祟神天皇の時代の人で
		  ある。
		2.「古事記」の祟神天皇没年干支(戊寅の年)をもとにすれば、祟神天皇の没年は258年と考えられ、卑弥
		  呼が没したのは、248年頃と推定できるので、祟神天皇の時代は、ほぼ卑弥呼の時代である。
		3.従って、卑弥呼と倭迹迹日百襲姫は同時代人となり、この二人が同一人物で、倭迹迹日百襲姫の箸墓を卑弥
		  呼の墓と考えれば、魏志倭人伝の「径百歩の塚」に合致する。 

		これに対し、今日では九州説の一番のオピニオン・リーダーの観がある産能大学の安本美典氏は、「祟神天皇の
		時代は、卑弥呼の時代とは重ならない。」「祟神天皇の活躍した時代は、340年〜355年ごろであり、卑弥
		呼の時代とは、100年あまりへだたりがある。」と説く。また「文献上からも、倭迹迹日百襲姫と卑弥呼を同
		一人物とすることについては、疑問が多い。」という。 

 
今日は集合が遅かったせいで黒塚資料館を出たら12時になった。適当な食事の場所を探して黄金の稲穂の中を歩く。

 
纒向川(?)の堤防の上に草を刈り込んで敷き詰めた格好の場所があった。大きなクヌギ(どんぐりの木)の日陰で昼食。



		
		今日では近畿説の大勢は、主として近畿圏の考古学者たちが主導権を握っているように見える。折からの考古学
		ブームに助けられ、また、奈良国立文化財研究所や橿原考古学研究所や奈良県行政の文化財担当部門の発表を無
		批判にただ掲載するだけの新聞・マスコミにあおられて、いわば盲目的に「邪馬台国=近畿」説を唱えているよ
		うな気がするのである。魏志倭人伝をはじめとする中国の史書や、古事記・日本書紀の内容さえも無視している
		ように思えてならない。

		紀元前1世紀から紀元後2世紀にかけての弥生時代中期には、北九州を中心に銅剣・銅矛が広く分布し、ひとつ
		の文化圏をつくり、一方、近畿を中心に銅鐸が分布して、やはりひとつの文化圏を作っていた。両者の文化が融
		合した形跡は見られないから、このふたつは交流をもたない異民族国家であったと推測できる。
		もし畿内説論者の言う邪馬台国が纒向にあって、ここから大和朝廷が全国に支配権を浸透させていったとすれば、
		なぜ自分たちの用いていた、銅鐸による呪術的性格を帯びた文化のことを後世に伝えていないのか。
		古事記・日本書紀には銅鐸はおろか、それを用いていた民族のこともまったく登場しないのである。記紀に登場
		するのは銅剣・銅矛・勾玉・銅鏡であって、これは戦闘的性格を帯びていた北九州文化圏のものであり、今でも
		皇室が保有する「三種の神器」は、剣・鏡・玉である。やがて古墳時代に入ると、そのままこの文化は近畿圏に
		も伝わり古墳からも多く出土するようになるが、北九州から夥しく出土する甕棺墓に起源がある事は明白である。

		もし邪馬台国が近畿にあった場合、のちの大和朝廷と深い関係にあるのは明白で、「邪馬台国=大和朝廷の前身」
		と考えていいはずだ。だとすれば、大和朝廷のつくる記録のなかに、邪馬台国の記述や伝承が残っていても良さ
		そうなものだ。これは「邪馬台国東遷説」についても同じである。「邪馬台国=大和朝廷」ならば、記紀に何か
		の伝承を残すはずではないか。「古事記」「日本書紀」は何も語っていない。万世一系を強調し、架空の天皇ま
		でつくって歴史を水増しし、粉飾を計っている大和朝廷が、偉大なる自分たちの祖である卑弥呼の偉業を残さな
		いとは、どうしても考えられない。

		平成12年3月、巻向遺跡の「ホケノ山古墳」が、我が国最古の前方後円墳として発見され、3世紀中ば、即ち
		卑弥呼時代の古墳である事が判明したと、各新聞は一斉に報道した。「ホケノ山古墳」が(あるいは箸墓古墳で
		もいいが)、もし卑弥呼の墓に比定できるとしたら、卑弥呼の墓は前方後円墳という事になり、仁徳天皇陵や応
		神天皇陵などへ続く、4〜5世紀の近畿を中心とした「大古墳時代」へと、その勢力は拡大して行っているはず
		である。邪馬台国は発展し、子々孫々が強大な大和朝廷を形成していったはずではないか。
		しかし、邪馬台国の中国への朝貢は、卑弥呼の次の女王「壱与」をもって消えてしまう。紀元266年、壱与が
		数回朝貢船を送ったのを最後に、邪馬台国は歴史からかき消えてしまうのである。これは、邪馬台国になんらか
		の異変があった事を示唆している。つまり、前方後円墳と邪馬台国は関係ないのである。それはとりもなおさず、
		大和朝廷と邪馬台国が関係ないという事である。このふたつは別系統の王朝なのだ。



 



 

纒向勝山古墳
<桜井市東田字勝山 前方後円墳 100・60・30>


		
		◆勝山古墳:築造時期は3世紀前半 卑弥呼の時代と一致 奈良[毎日新聞5月31日] (2001-05-31-00:04)
		奈良県桜井市の勝山古墳から出土した木材の伐採時期が「紀元199年プラス12年以内」であることが、年輪の
		分析で分かった。奈良文化財研究所と県立橿原考古学研究所が30日、発表した。3世紀後半とされてきた同古墳
		の築造年が、3世紀前半にさかのぼり、邪馬台国を都とした倭国女王、卑弥呼の時代に完全に重なるという。同古
		墳を含む纒向古墳群を築造した勢力がヤマト政権の源流とされており卑弥呼時代との一致は邪馬台国大和説を支え
		る第一級の資料といえる。橿考研が今年1〜3月の発掘調査で、廃棄されたとみられる約200点の木材を同古墳
		の周濠跡で見つけた。古墳上での葬送儀礼の施設に使われた建築部材らしい。奈文研が、年輪から伐採年を調べる
		年輪年代法で、ヒノキ材5点を調べた結果、うち外辺部が残っていた板材1点の伐採年を「199年プラス12年
		以内」と断定した。
		木材に再利用の跡はない▽古墳祭祀に用いた木材は伐採後間もなく使用、廃棄されたと考えるのが常識的▽紫外線
		による劣化が切断面にない――ことなどから、橿考研は「古墳の築造時期は、伐採年に近い3世紀前半」とした。
		また、諸説ある「古墳時代」の始まりの時期にも大きな波紋を投げ掛ける。約15年前までは、その時期を、定型
		化した巨大前方後円墳の箸墓からと考える説が有力だった。しかし、その後、箸墓の前段階の勝山、ホケノ山など
		前方部の短い「纒向型前方後円墳」から▽2世紀に築かれた楯築(岡山県)などの大型墳丘墓から――とする主張
		が出ている。「纒向型説」を取った場合、これまで最古とされていた同古墳群のホケノ山古墳(3世紀前半)より
		勝山古墳が古い可能性が大きく、古墳時代の見直しにもつながる。また、この直後に築かれたとみられる他の古墳
		も、築造年代がより古くなる。3世紀後半と考えられ、一部には卑弥呼の墓との説もある箸墓古墳の築造も、中国
		の史書「魏志倭人伝」にされた卑弥呼の没年(248年ごろ)と重なる可能性がきわめて大きく、邪馬台国大和説
		を勢いづかせる。一方、勝山古墳の周濠からは、木材に伴って土器片も出土。土器の型式から年代を推定する「土
		器編年」では、同古墳の築造を3世紀後半とする見方が強かった。今回の分析結果は土器編年と実年代の関係の再
		検討にもつながりそうだ。測定した木材は、6月4〜8日、同県橿原市畝傍町の橿考研で展示する。【花岡洋二】
		 纒向古墳群 
		2世紀末ごろにヤマト盆地東南部に出現した祭祀(さいし)遺構を伴う遺跡にある。邪馬台国大和説の最有力地。
		最古の巨大前方後円墳の箸墓古墳や、それに先立つとみられるホケノ山古墳など古墳出現期の古墳があり、初期ヤ
		マト政権の発祥地と考えられている。学界には、ホケノ山以前を古墳と呼ばず、弥生時代の墳墓とする説もある。


		◆築造は3世紀前半 伐採の年輪199年 桜井市・勝山古墳
		桜井市東田の前方後円墳「勝山古墳」で見つかった板状の木製品は、残存する最も外側の年輪が199年と分かり、
		県立橿原考古学研究所と奈良文化財研究所が30日、発表した。削られた年輪を考慮しても、伐採年代は210年ま
		でとみられる。橿考研によると、木製品は墳丘上にあった建物の一部で、同古墳の築造年代は3世紀前半にさか
		のぼり、確認できる範囲で最古の前方後円墳という。女王・卑弥呼の時代と重なり、邪馬台国畿内説にとって
		有力な材料となる一方、古墳時代の始まりをめぐる論議にも一石を投じそうだ。
		同古墳の木製品は、くびれ部北側の周濠(しゅうごう)から200点以上出土。大半が柱や板などの建築部材で、
		祭祀用の建物を壊して投棄したとみられている。
		橿考研は奈良文化財研究所埋蔵文化財センターに年輪年代の測定を依頼。サンプルはいずれもヒノキ材で、5点
		の年輪年代が特定できた。板状の1点(一辺26センチ、厚さ2.5センチ)は樹皮直下の「辺材部」が残っており、
		最外年輪は199年だった。近畿のヒノキ(樹齢200〜300年以上)の辺材部は平均約3センチ。測定した板材の辺材
		部は約2.9センチで、4センチあったと仮定しても、210年までに収まるという。木の年輪は中心の髄から心材、
		辺材の順に形成される。心材部だけの4点は最外年輪が103〜131年で、辺材部の年輪を推定すると、5点とも同時
		期に伐採された可能性が強い。隣接する纒向石塚古墳の周濠でも、平成元年に木製品が出土。ヒノキの伐採推定
		年代は200年前後だった。墳丘の盛り土に含まれる土器の様式から、3世紀初めの築造とする見方もある。
		中国の史書「魏志倭人伝」によると、女王・卑弥呼の擁立は2世紀末。没年は248年ごろで、勝山古墳の築造が3
		世紀前半とすれば、卑弥呼の擁立から間もない時期に、2つの前方後円墳が相次いで誕生したことになる。
		ホケノ山古墳(桜井市箸中)の調査で3世紀中ごろにさかのぼった前方後円墳の年代は、今回の成果でさらに半
		世紀近く押し上げられる可能性が出てきた。ただ、勝山古墳で出土した土器は「布留ゼロ」と呼ばれる様式で、
		土器編年では3世紀後半が妥当とされる。木材は伐採から時期を置いて使用した可能性や転用も考えられ、築造
		時期の特定には慎重な姿勢を見せる研究者もいる。(奈良新聞:奈良市)


		◆古墳期の始まり早まる? 伐採=築造に慎重論も 勝山古墳年輪測定(奈良新聞:奈良市)
		周濠(しゅうごう)に眠り続けた木製品が、卑弥呼の時代を指し示すことになった奈良県桜井市東田の勝山古墳。
		年輪年代法による測定結果は、3世紀後半とされてきた古墳時代の始まりを大きく押し上げる可能性が出てきた。
		一方で、伐採年代と築造年代を重ねることに慎重論もある。土器編年との整合性など、研究はこれからといえそ
		うだ。年輪年代法は、奈良文化財研究所埋蔵文化財センターの光谷拓実・古環境研究室長が、20年以上かけて研
		究を積み重ねてきた。ヒノキは紀元前912年まで測定できる。纒向石塚古墳で出土した木製品の年輪年代を測定し
		たのは12年前。伐採年代を200年前後と割り出した。「同じ測定結果が出たことで、日本の考古学が待ち望んでい
		た時代に確実なくさびを打ち込むことができた。実年代を当てはめるステージが完成したのでは」と話す。
		古墳時代の始まりは、隔絶的な規模を持った箸墓古墳(全長約280メートル)の誕生が画期と考えられてきた。ホ
		ケノ山古墳が3世紀中ごろとされたことで、転換点を迎えている。古墳時代の始まりを2世紀末と考える山尾幸久・
		立命館大名誉教授(日本古代史)は「弥生時代の信仰や生活様式を残しながら、拠点的に古墳時代が始まってい
		てもおかしくない。箸墓古墳の年代も再検討する必要が出てきたのでは」と話す。ただ、勝山古墳の周濠で出土し
		た土器は、「布留ゼロ」と呼ばれる様式だった。実年代を260〜290年と考える寺沢薫・県立橿原考古学研究所調査
		第1課長は「木材を加工して使うまでの期間が不明。転用の可能性もあり、現段階で土器編年との整合性を議論す
		ることはできない」と慎重な姿勢を見せる。白石太一郎・国立歴史民俗博物館教授(考古学)も「定型化した大型
		前方後円墳(箸墓)の出現が古墳時代の始まり。勝山古墳が3世紀前半にさかのぼるとすれば、墳丘墓の編年にと
		って貴重な資料」と話している。

		◆邪馬台国の所在地か畿内説に有力材料「最古の都市」と研究者 (奈良新聞:奈良市)
		年輪年代測定から、3世紀初頭に築造された最古の前方後円墳である可能性が高くなった、奈良県勝山古墳がある
		纏遺跡は、2世紀末〜3世紀初めに出現、ほかにもホケノ山、纏向石塚、箸墓(はしはか)など6基以上の最初期
		の古墳が集中する邪馬台国の有力候補地だ。古墳のほか巨大な運河跡や祭祀場、遠隔地からもたらされた土器が多
		数見つかっていることなどから、「最古の都市」とする研究者もいる。東潮・徳島大教授は纏向遺跡を「邪馬台国」
		の中枢で倭国の首都も置かれた場所と推定。その上で、最初の本格的な方後円墳とされる箸墓古墳について、「
		(2世紀末に)倭国王として共立された女王卑弥呼が、3世紀中ごろに葬られた墓だ」と考える。さらに、箸墓に先
		行する勝山やホケノ山について、東教授は「箸墓は吉備など周辺地域の影響が強いのに対し、勝山やホケノ山は在
		地的な要素が強い。邪馬台国の王族が葬られた墓と考えられる」とする。
		邪馬台国九州説の高島忠平佐賀女子短大教授は「年輪年代の測定結果と遺跡を短絡的に結びつけるのはいかがなも
		のか大和の地域的な王権がどう成立するかを考える材料にはなるが、巨大な古墳があるから、邪馬台国があったと
		考えるのは飛躍」としている。
		河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長の話
		3世紀のごく初めに古墳が存在することが決定的になり、成果を高く評価したい。ホケノ山古墳は出土した鏡など
		から3世紀中ごろまでの古墳と考えられ、このころ纏向遺跡に古墳が点々としていたことがいろいろな方法で確か
		められた。2世紀代の古墳も予測でき、古墳の発生とかかわる国家の起源も古くなり、大和政権の成立は約1世紀
		さかのぼることになると思う。3世紀の卑弥呼が活躍した時代と、立派な古墳の発生が重複している。邪馬台国大
		和説を補強する材料が出てきたと考えている。


		これらの記事に対して前出の安本教授は、

		1.勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にはさかのぼれない。年輪年代法によるデータは信頼がおけるものの、
		  木材の伐採年代と古墳の築造年代を同一時期とする主張は、根拠に乏しい。一般的に、これら二つの年代に
		  は大きな差がある。一般的な状況に反して、勝山古墳の事例では伐採と古墳築造が同時期であると、特別の
	 	  判定するためには、多くの人が納得できる明確な根拠を提示する必要がある。 

		2.さらに、同時に出土したという布留0式土器の年代は、多くの研究者が3世紀後半以降の土器としている。
		  古墳の築造年代を判定するときには、199年ごろに伐採されたという木片と、3世紀後半以降の土器の両
		  方を考慮しなければならない。古い遺物と、新しい遺物とが、同じ遺跡から出土したならば、その遺跡の築
	 	  造年代は、新しい遺物によってきまる。すなわち、勝山古墳の築造年代は、新しい遺物である布留0式土器
		  の年代によって決めるべきである。
		以上のことを総合すると、勝山古墳の築造年代は、3世紀前半にさかのぼることはできないとの結論になる。
		と反論している。しごくまともな意見のように思える。以下、安本教授が、HPや季刊「邪馬台国」で展開して
		いるこれらの記事についての反対意見を掲げる。


		<勝山古墳の報道を巡るマスコミの姿勢について>
 		勝山古墳の報道について、「読売新聞」では、一面のトップ記事で取り上げ、39面では、「所在地論争決着近
		づく?」として、いちじるしく「邪馬台国=畿内説」にかたむいたとりあげ方をしている。ほんとうに「邪馬台
		国=畿内説」に有利な材料だろうか。「邪馬台国問題」はあくまで、『魏志倭人伝』という文献から出発してい
		るはずだ。 
		『魏志倭人伝』には、「(倭人は)兵(器)には、矛・楯・木弓を用いる。」と記されている。北九州からは、銅の
		矛も、鉄の矛もいくつも出ているのに、纏向遺跡からは、ホケノ山古墳からも、勝山古墳からも、銅の矛も、鉄
		の矛も、まったく出土しないのは、どうしたわけか。
		『魏志倭人伝』はまた、「異文雑錦二十匹を貢いだ」など、倭人は、絹製品をつくっていたことを記す。絹製品
		も、北九州からいくつも出土しているのに、「纏向遺跡」など、奈良県から、当時のものは、出土していないの
		はなぜだろう。
		倭人は、鉄利器を用いていた。ホケノ山古墳からは、たしかに、鉄の鉄、素環頭大刀、直刀、剣が出土している
		が、福岡県からは、奈良県をはるかに上まわる当時の鉄利器が出土していることは、「邪馬台国畿内説」の寺沢
		薫氏でさえ指摘しておられるところである。 
		『魏志倭人伝』には、倭人の葬制は、「棺あって槨なし」と明記している。これも、北九州の墓制と合致してい
		る。ホケノ山古墳では、「木槨」があった。『魏志倭人伝』の記述に合っていない。逆に、『魏志倭人伝』には、
		遺跡から「邪馬台国時代の木製品」が出土すれば、そこが、邪馬台国である、などとは、なにも記されていない
		のだ。それに、北九州から、「邪馬台国時代の木製品」がすでに出土している可能性は、きわめて大きい。たん
		に、年輪年代法や炭素14年代測定法によって測定発表されている事例は、近畿中心のものに偏っているというだ
		けのことではないか。 
		たとえば、西暦200年前後に築造されたとみられる福岡県前原市の平原王墓出土の割竹形木棺や、福岡県小郡
		市の津古生掛(つこしょうがけ)古墳出土の木棺などは、年代を測定することが可能であったならば、ホケノ山
		古墳や勝山古墳出土の木製品と同じような年代を与える可能性は多分にある。「邪馬台国論争」は、『魏志倭人
		伝』の記述がもとになっておきている。『魏志倭人伝』の記述にあっているかどうかを考えるのが、眼目ではな
		いか。『魏志倭人伝』にもとづく直接の証拠を検討せずに、いちじるしい偏りのあるデータにもとづいたり、研
		究者の意図的な報告を大々的にとりあげたり、論理構成をしすぎたりすると、旧石器担造事件と同じような空中
		楼閣を築くことになりかねない。 
		旧石器担造事件に関係し、国士舘大学イラク古代文化研究所の大沼克彦教授は、強く警告のことばをのべている。  
		「私はマスコミのあり方にも異議を唱えたい。今日のマスコミ報道には研究者の意図的な報告を十分な吟味もせ
		ずに無批判に、センセーショナルに取り上げる傾向がある。視聴率主義に起因するのだろうが、きわめて危険な
		傾向である。」(立花隆編『「旧石器発掘ねつ造」事件を追う』 
		この言葉は、邪馬台国問題にも、ほぼそのまま、あてはまる。  




纒向矢塚古墳
<桜井市東田字矢塚 前方後円墳帆立貝式)周濠 96・64・32 >






		纒向矢塚古墳
		纒向小学校西側に接するこの古墳は現状で円墳と思われるが、周濠部の発掘調査によれば径60m以上の胴張
		方形、前方後円墳の可能性もある。埋葬施設は墳丘中心部の調査がされておらず不明である。築造時期につい
		ては,周濠部から出土した土器より纒向V式期が考えられ、石塚古墳よりもその築造は新しいと思われる。
		(桜井市史より)
		纒向矢塚古墳は、西面する全長約96m、高さ約5mの古墳時代前期の前方後円墳で、墳丘の築造企画が纒向
		石塚・纒向勝山・東田大塚・ホケノ山などの古墳と同じ企画を持つ纒向型前方後円墳の一つと考えられている。
		昭和47年に周濠の一部が調査され、幅17〜23m、深さ60cmの濠を持つことが確認されました。また、
		この時の出土土器より、纒向矢塚古墳は箸墓古墳より先行する可能性も高くなっている。 桜井市教育委員会
		(上記写真の現地説明板より) 



纒向東田大塚古墳
<桜井市東田字大塚他 前方後円墳帆立貝式)周濠 96・64・70 >




		邪馬台国論争に一石(平成10年3月20日、産経新聞) 
		東田大塚古墳の周囲には3世紀前半から後半の「最古」「最古級」とされる前方後円墳が点在し、「定型化
		した大規模前方後円墳」として最初に登場した箸墓古墳(3世紀末ごろ)も並ぶ。わが国独自の前方後円墳
		発生のなぞと邪馬台国所在地論争のカギを握る古墳群として改めて注目されそうだ。
		東田大塚古墳は、邪馬台国の有力候補地となっている古墳時代の大集落跡「纒向(まきむく)遺跡」内にあ
		る。北側には、墳丘の盛り土に混入していた土器片から3世紀の第一・四半期(201−225年)の終わ
		りごろの築造とされた纒向石塚古墳や、勝山古墳、矢塚古墳があり、東側には東田大塚古墳と同じく周濠内
		で3世紀後半〜同末の土器片が出土したホケノ山古墳がある。
		さらに、これら全長90〜100mの前方後円墳とは隔絶した全長約280mの規模をもち、4世紀以降の
		大規模前方後円墳のモデルと考えられている箸墓(はしはか)古墳(3世紀末ごろ)も含み、同遺跡内の
		「纒向古墳群」を形成している。
		同市教委の橋本輝彦技師は「纒向古墳群が最大級の大型前方後円墳の集まった『最古の古墳群』ということ
		が改めて裏付けられた」とし、「箸墓古墳の築造まで、この地域を中心に古墳が造られ始めたのだろう。
		その先進性がよく分かる」と話す。
		石野博信・徳島文理大教授(考古学)は「纒向の地域に3世紀初めごろから後半にかけて100m前後の古
		墳が出現し、その後、最初の大王墓とされる箸墓古墳が現れる」と前方後円墳成立の過程をたどり、「3世
		紀後半までに100m級の古墳を造ることのできる人が周辺に何人もいたということだ」と今回の発見を評
		価する。





		埋蔵文化財センターを見た後、大三輪神社の鳥居の前を三輪駅に向かって歩き出す。驚いたことに西本さん
		が「まだ三輪神社行った事がない。」と言う。一同「えぇ−っ、嘘やろ。」「ほんまー?」じゃ寄って行こ
		うかと西本さんに言うと、「いや、ええわ。また来るし。」と言う。「はよ、反省したい。」 あ!



		私は、邪馬台国は九州にあったと思う。考古学、文献のいずれもがそれを示しているように思える。以前は
		安本教授の「甘木朝倉説」に感動して、邪馬台国東遷説を信奉していた。いまでも教授の視点には教わる事
		大である。しかし、私は邪馬台国は東遷していないと思う。大和朝廷にもなっていない。

		宮崎から群馬にまで古墳を作っていった「古墳時代人」達は、およそ邪馬台国のもつイメージとは程遠い。
		各地の古墳から出土する夥しい馬具や武具は、新羅系、高句麗系といった様式の違いはあるものの、その殆
		どが画一である。つまり同じような物が、南九州から北関東にまで分布しているのである。全国に古墳は1
		5万基とも20万基とも言われるが、一つの県の中に一体幾つぐらいあるのだろうか。房総半島にまである。
		そこから出てくる物が、殆ど同じ物なのだ。これらの馬具や武具を、玄界灘の荒波を、馬を携えて渡ってき
		た連中がただの飾りにしていたとはとても思えない。彼らは当然これらを使用していたのである。弥生時代
		を牛耳っていた諸国の有力者を殺し、現地人の抵抗勢力を根こそぎねじ伏せ、食料を供出させて、従えば許
		して従軍させ、逆らえば刺し殺して首を刎ね、目玉をえぐり、力づくで倭を支配したと思う。

		そこに定住した者、更に東へ東へと移動した者。彼らは大陸・半島の政変で彼の地を追われた、或いは新天
		地を求めて海を渡ってきた渡来人で、たかだか2,3百年で日本列島を駆け抜けていった。運んできた馬に
		乗って、文字通り日本列島を駆け抜けて行ったのである。倭の五王の一人が中国に送った、「我が祖先は闘
		いに明け暮れ、日夜山野を駆けめぐり、寧所(ねいしょ)にいとまあらず。」という状況はこの時代の事を
		書き残したもののように思える。当時先駆的な技術であった、稲の栽培法を身につけた北九州の住民達を従
		えて、彼らは近畿圏にもやってきた。そして、銅鐸を用いていた民族を屈服させ、銅鐸は急ぎ山腹に隠され
		た。彼らの中からやがて、近畿圏にあって大和朝廷の礎(いしずえ)を築くほどの力を持った者が現れた。
		大王である。
		彼ら古墳時代人達は、三十の国が集まって一人の女性をたて、それで国中が丸く収まるような心優しい感性
		を持った民族とはほど遠い。九州にあった邪馬台国は滅ぼされ、その地の原住民族は、騎馬に乗った新しい
		支配者達に連れられて近畿まで来た。それで九州の地名が近畿に多く残っているのであろう。

		やがて大和朝廷は、渡来人、元住民を問わず官吏に用い、新しい律令国家に向けての歩みを始めることにな
		る。その過程で、かって北九州にあって一時代を画していた邪馬台国の記憶は大和朝廷内にも残り、卑弥呼
		の記憶は「天照大神」として神話に取り上げられた。これが、今の私がたどり着いた邪馬台国の姿であるが、
		さてその理論武装はどうしようか。

 


		何処で反省するか二転三転したが、結局橋本さんの提言どおり、橿原神宮駅の構内にある居酒屋で一杯と言
		う事になった。ここならホームから出ずにすむし、奈良へも京都へも大阪へも行ける。
 
ふたつの邪馬台国説の橋本さん。東京から河原さんも参加した。
 
久しぶりの新開さんと、親子のような錦織さんと小川さん。




		さぁ、来月の例会はいよいよ、「魏志倭人伝の旅」である。対馬から壱岐へ渡り、松浦半島へ渡って伊都国
		・奴国へ。はたしてどのような椿事が我々を待っているのだろうか。「邪馬台国=北九州説」を満足させら
		れる出来事に出会えるだろうか。卑弥呼の面影は発見できるだろうか。ワクワクである。



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