SOUND:青葉茂れる
櫻井の別れ 大阪府三島郡島本町櫻井





		阪急電鉄水無瀬駅から楠(くすのき)通りをまっすぐ行くと突き当たりが公園だ。高槻生まれの西本さんによれば、この水無瀬駅の
		あるあたりは昔から地元では「桜井」と呼ばれており、水無瀬というのはもうちょっと京都よりの水無瀬川付近の事だったらしい。
		阪急電車には別に「桜井」という駅があって、その為ここに駅が出来る時「水無瀬」になって、桜井という地名はだんだん忘れられ
		ていった、と言うことらしい。しかしその頃は阪急の神戸線と京都線は別会社だったそうで、それなら同じ名前でも良かったんじゃ
		なかろうかと二人でいぶかった。




		下の石塔を見るのは3度目だ。一つは京阪くずは駅に、もう一つは阪急岡町駅にあった。ちょっとしたその町の歴史が窺えて、なか
		なかいいアイデアだ。場所も取らないし、字も消えない。

 

 


		公園の入り口を入って左手に府立青年の家がある。右手が大きな広場になっていてそこが「桜井駅跡」である。静かで、高い木々に
		囲まれた広場の廻りを石碑や石像が取り囲んでいる。木々は楠木だろうと思うが確かめるのを忘れた。広場では子供達が遊んでいた。
		どこかの、やはり歴史愛好家の集まりらしい10数人の団体が見学に来て、石碑の碑文をしきりに読んでいた。が、我々同様完璧に
		は読めないようだった。

 




		上の看板の大意は、

		奈良時代のはじめ、平城京と各地を結ぶ交通路の整備のために、随所に中継地点が設けられ、これを「駅家」と呼び、大化改新以降、
		幹線道路に30里(約16km)ごとに設けられた。馬舎や休憩所などを備えた旅の施設だった。京から西国へ向かう道筋に設置され
		た駅家の一つに「摂津国嶋上郡大原駅」というのが続日本紀にあり、これが「桜井駅」のことを指すものと考えられる。

		西本さんによれば、この辺り一帯は昔から「大原野」とも言うそうで、「大原駅」は確かにここだろうとの事だ。
 

 


		「史蹟櫻井驛址」石碑の正面ぎりぎりまで金網のフェンスが出張ってきている。西本さんが以前(相当昔?)来たときには、今青年
		の家が建っているところも全部この史蹟の領域だったそうである。この金網のフェンスはいかん。石碑の前面が隠れてしまっている。
		もうちょっと歴史に敬意を払っても良いのではという気になる。

 


		延元元年(1336)、楠木正成は九州から京へ攻め上ってくる足利尊氏軍を迎え撃つため、兵庫・湊川へ向かっていた。南朝・後醍醐
		天皇の信任に応え、勝算がない鎌倉幕府との最後の戦いに臨もうとしていたのである。文字通り「決死の覚悟」だったのだ。
		この桜井駅まで進んできた時、正成は11歳だった子の正行(まさつら)に河内へ帰るように言いわたす。自分が討ち死にした後は
		必ず足利尊氏の天下になる。しかし助命を願って降伏したりしたら、楠家の多年の奉公が無駄になってしまうから、たとえ一兵にな
		ろうとも、最後まで千早赤坂にこもり天皇を助けるように諭すのである。正行は、桜井駅で父と別れて故郷へ帰ることになり、泣く
		泣く父と別れてゆく。これが有名な「櫻井の別れ」の場面であり、像の台座には、なんと「滅私奉公」と彫刻されている。
		
 


		正行は、父の遺訓を守って足利氏に対抗。11年後の正平2年8月、北朝方の隅田城を攻めこの合戦を皮切りに北朝軍と戦い、1348
		年正月 足利尊氏の執事 高師直(こうのもろなお)の率いる6万の大軍が四条畷に到着。これに対して正行は、わずか3千騎で決戦を
		挑み、激戦の末力尽き、弟正時と刺し違えて自刃した。現在、飯盛山の山麓に四条畷神社(同市南野二丁目)があり、正行を主神に正
		時・正家ら一族二十四人を祀る。楠木正成の「大楠公」という敬称に対して、長子正行は「小楠公」と呼ばれている。

 



ここは「忠臣 大楠公」ゆかりの地だけに、昔から著名人が相当訪れたようだ。松尾芭蕉も訪れて句を詠んでいる。
下左は、乃木希典(のぎまれすけ)大将筆の「楠公父子訣別之所」の石碑。

 

		以下の明治天皇の歌碑には、
		子わかれの 松のしずくの 袖ぬれて 昔をしのぶ さくらいのさと
		と東郷平八郎書であり、碑の裏には、頼山陽(らいさんよう)の漢詩「過桜井駅址詩(さくらいえきあとをすぐるうた)」が刻まれ
		ている。なかなか全文は読めない。どころか半分も読めなかった。漢文の素養の無いのが(勉強しなかったのが)悔やまれる。

 


		先週、河内さんと錦織さんが、「小学校唱歌で歌った訳でもないのにどうして知っとるんかなぁ」と言いながら千早赤阪村を歩きな
		がら口ずさんでいた歌が、以下の「青葉茂れる」である。れっきとした小学唱歌だが、いつ頃歌わされていたのだろう。しかし私も
		冒頭の歌い出し部分のメロディは知っていた。明治時代の国文学者で歴史家の、落合直文(おちあいなおぶみ)が作詞したものだが、
		二人が歌うのを聞いてて、何となく鉄道唱歌のような気がした。

			1.青葉しげれる桜井の 里のわたりの夕まぐれ
			  木下陰(このしたかげ)に駒とめて 世の行く末をつくづくと
			  偲ぶ鎧の袖の上(え)に 散るは涙か はた露か

			2.正成涙を打ち払い 我が子正行(まさつら)呼び寄せて
			  父は兵庫に赴かん 彼方の浦にて討ち死にせん
			  今しは ここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ

			3.父上いかにのたもうも 見捨てまつりて我一人
			  いかで帰らん帰られん  この正行は年こそは
			  未だ若けれ諸共に 御供(おんとも)つかえん死出の旅

			4.今しをここより帰さんは 我私(われわたくし)の為ならず
			  己 討ち死になさんには 世は尊氏のままならん
			  早く生い立ち大君に 仕えまつれよ国のため

			5.この一振りの往にしとし 君の賜いし物なるぞ
			  この世の別れの形見にと 今しにこれを贈りけん
			  行けよ正行故郷へ 老いたる母の待ちまさん

			6.共に見送り見返りて 別れを惜しむ折からに
			  またも降り来る五月雨の 空に聞こゆる不如帰
			  誰か哀れを聞かざらん 哀れちになく その声を

		まさにまさに、日本人好みの歌詞である。思うに、日本の歌謡曲というものの源流は、こういう叙事詩のようなお涙ちょうだいの情念
		にあるのではなかろうか。





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