SOUND:Eleanor Rigby
西国街道を行く






サントリー蒸溜所を後にして、松田さんカップルも加わったほろ酔い気分の4人は、古代の東海道・山陽道である西国街道を京へ向かって歩く。


関大明神社

		「なんで関大(かんだい)の神社がこんな所に」と一瞬思ってしまった。アホやぁ。

		大阪府指定有形文化財 関大明(せきだいみょう)神社本殿
		当地が古代摂津の国と山背(やましろ)の国との関所である「山崎の関」跡と言われ、関守の神、または辻の神を祀ったのが当神社
		の由来ではないかとされている。この場所は地図を見れば一目瞭然だが、前には淀川、後ろには天王山を控え、古来から交通の要で
		あった事が容易に推測できる。非常時には朝廷が兵を派遣し警護するほどの重要な場所であった。長岡京、平安京への遷都前後には、
		西南への出入り口としてこの地に関所が設けられた。



		私見では、継体天皇がこの地に宮を置いた(弟国宮)のも、ここが軍事上の要所だったからではないかと思う。しかし、平安時代初
		期、嵯峨天皇の離宮が山崎に出来たときに関所は廃止され、その跡地には関戸院という官舎が置かれ、藤原道長や平家一門など貴族
		や官人が宿泊施設として利用していたようである。現在の神社本殿は室町時代中期に建てられたと推定される。祭神は大己貴命、天
		児屋根命/大智明神で、大阪府の重要文化財に指定されている。

		神社本殿正面向かって左手に、「是より東、山城の国」と彫られた道標が立っており、今でも京都府と大阪府の境になる。 
 





離宮八幡宮(りきゅうはちまんぐう)

		司馬遼太郎の「国盗り物語」で一躍有名になり、又、忘れられようとしている。現在の八幡宮は背後に天王山を控えJR山崎駅の側に
		ありながら参詣者もほとんどなく、歴史を知る者には、往年の面影は全く感じられない。




		嵯峨天皇の離宮跡と伝えられる。建造当時は現在の三倍以上もあったとされ、山崎の商都は中世末期に栄えその繁栄は戦国中期にまで
		及ぶ。東海道線の敷設で境内を分断され縮小したが、当時は恐らく敷地は1万坪はあっただろうと、司馬遼太郎は「国盗り物語」に記す。
		元治の変に長藩の別働隊が最初にここを占拠し焼き払った。現在境内には「河陽(かや)離宮跡」の石碑が立つ。	

 


		平安時代の末期には、灯明に用いる荏胡麻油の生産がここで開始され、鎌倉時代になると生産を増加し、商人たちは、油座を形成した。
		油座は八幡宮の権威の元、関所の通行料免除や津の使用料免除など種々の特権を得、中世をとおして大山崎の油は全国に広まっていっ
		た。 「国盗り物語り」の主人公斎藤道三は、ここで油商人として財をなし、やがて戦国乱世の世をのし上がっていくのである。





妙喜庵(みょうきあん)

		櫻井駅跡を出た頃から、西本さんが「妙喜庵へ行きましょう。」としきりに誘う。実は今読んでいる宮尾登美子の小説が裏千家だか
		表千家だかの話だそうで、それに妙喜庵が出てくるそうで、是非もう一度見たいという。昔一度見に行った事があるのだそうだ。

 


		妙喜庵。JR大山崎駅前にある。中にある桃山時代の国宝「待庵(たいあん)」は、我が国で最も有名な茶室で、千利休の作と伝え
		られる。ここを模倣した多くの茶室が全国に作られた。同じく重要文化財に指定されている書院に接続して建ち、内部は二畳敷。
		床の間正面にはにじり口を設けるが、通例よりも大きいことから茶室としては初期の手法と考えられている。数寄屋づくりの原点と
		もいわれる。千利休が作ったとされる中では、現存する唯一の茶室である。はっきりした建造年次は不明だが、秀吉の妙喜庵茶会が
		天正10年に2回、11年に1回行われた記録が残っているので、おそらく山崎合戦前後と思われる。




		ここは予約して、指定された日時にしか見学できない。現在、居住者がいるのである。どうしても見たい西本さんは、中へ頼みに行
		ったが、ダメだったようであきらめて戻ってきたが、しばらく「見たかったなぁ」と呟いていた。

 



この後、京都の百貨店にお茶を買いに行くという松田さん達と別れて、西本さんとふたり大山崎町歴史資料館へ行く。ここからすぐである。



邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 /chikuzen@inoues.net