SOUND:Eleanor Rigby


2002 March 16(土)神戸市中央区
		湊川神社(みなとがわじんじゃ)
		兵庫県神戸市中央区多聞通三丁目。JR東海道線・山陽線の神戸駅より北へ徒歩3分/高速神戸駅、神戸市営地下鉄
		大倉山駅下車0分。
		祭神: 楠木正成公(大楠公) 、楠木正行公(小楠公)及び湊川の戦で殉節した正成弟の正季(まさすえ)以下一族十六
		柱並びに菊池武吉。

 

		
		櫻井駅(現 大阪府三島郡島本町桜井一丁目)で長子正行(まさつら)と別れた楠木正成が、迫り来る足利尊氏軍と最後
		の激戦をおこなったのがこの湊川である。正成はここで自刃し、墓もここにある。先般の阪神大震災で、上の写真にあ
		る表門も本殿も全壊し、当時ペチャンコになった写真が報道されていた。現在はすっかり元通りに復元された神社が、
		国道28号線沿いに立っている。
 
		楠木正行(まさつら)
		正行は、湊川の合戦以後も父の遺訓を守って足利氏に対抗。櫻井駅の別れから11年後の正平2年8月、北朝方の隅
		田城を攻め、この合戦を皮切りに北朝軍と歴戦し、1348年正月、足利尊氏の執事、高師直(こうのもろなお)の率いる
		6万の大軍と四条畷で対峙。正行軍は、わずか三千騎で決戦を挑み、激戦の末力尽き、父同様弟(正時)と刺し違え
		て自刃した。現在、飯盛山山麓の四条畷神社(四条畷市南野二丁目)には、正行を主神に正時・正家ら一族二十四人が
		祀られている。楠木正成の「大楠公」に対し、正行は「小楠公」と敬称されている。



上が表神門。すぐ左手に高速神戸(神戸市地下鉄)の地下駅への入り口があり、右手には「大楠公墓所」への入り口(下)がある。

 


		楠木正成終焉の地と墓所は合戦後荒れ果てていたが、史蹟に敬意を払った豊臣秀吉はこの地を免租地とした。江戸時
		代初期に尼崎城主青山幸利が五輪塔を建て、梅と松を植え墓標とし、水戸光圀は、正成を顕彰するために自ら筆を執
		って「嗚呼忠臣楠子之墓」と揮毫した墓碑を墓所に建立した。明治5年(1872)に、初代兵庫県知事となる伊藤博文
		らの請願により別格官幣神社として、湊川神社が建立され、終焉地と墓所とを含む地域が境内地とされて今日に至っ
		ている。

 


		ここが「楠正成の墓」である。上右の東屋風建物の中に石で作った亀があり、亀の上に 徳川光圀の建てた「 嗚呼忠
		臣楠子之墓 」 の石碑が乗っている。一段下左がその拓本である。実物を撮ろうと思ったのだが、墓の廻りは石柱に
		囲まれて中へ入れず亀石と石碑を写せなかった。普段なら乗り越えて撮すのだが、たまたまコワモテ風の右翼系らし
		いオジさん達が2,3人参拝に来て、献花したり、やたらローソクに点火したりしていて、なかなか去ろうとしなか
		ったので遂に断念した。

 

 


		元水戸藩主・徳川光圀は、ここを訪れた時正成の墓が荒廃しているのを嘆き、「嗚呼忠臣楠子の墓」と自書した墓碑
		を建立して、全国に大楠公の盛徳を顕彰した。正成の墓の側にある水戸・徳川光圀の銅像は、資料にもとづき、彫刻
		家・平櫛田中の原型により昭和30年(1955)、ほぼ光圀の等身大(163cm)に造られた。頌徳文は徳富蘇峰の
		揮毫になるもの。

 



 



縦に細長い境内だ。図の右下が墓所で、左奥(上)が絶命した場所即ち戦没地である。

 

 


		本殿は真新しい(上右)。ここでも狛犬は頭に角がある(下左)。千早赤阪村の、
		「建水分神社」(たてみくまりじんじゃ)の南木社でも狛犬の頭に角があったが、楠公と角のある狛犬はなにか
		いわれがあるのだろうか?

 

 

上右は本殿正面だがデジカメの調子が悪く半分変な覆いがある。買って5年ほどの
デジカメだがもうガタが来たのだろうか。相当酷使したことはしたのだが。



 


正成戦没の地。ここで自刃した。


 

		
		1336年(南朝延元元年 北朝建武三年)5月25日、九州から攻め上って来た足利軍を兵庫湊川に迎え討ち、激戦の末
		に戦死した楠木正成を祀る。弟正季と「七生報国」を誓って差し違えて死んだ。『太平記』はその様子を、
		湊川の民家に入った楠木一族十三人、その家来六十余人が客間に並んで座り、念仏を唱えて一斉に腹を切った。
		最期に上座に坐っていた正成は、弟正季に向かって「来世では何を願うか」と問うと、正季は「七生まで、ただ同
		じ人間に生まれて、朝敵を滅ぼさばやとこそ存じ候へ」と答えた。それを聞いた正成は、嬉しそうに「罪業深き悪
		念なれども、われもかやうに思うなり、いざさらば同じく生を替えてこの本懐を達せん」と約束して、兄弟ともに
		刀を刺し違えて死んだ。
		と伝えている。

 

 




		湊川神社正門前に、創業明治元年という和菓子屋がある。その名も「菊水」總本店である。勿論楠正成の家紋「菊水
		紋」から来ている名前だが、それにしても明治元年創業とはおそれ入る。



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