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桓武天皇皇后陵・五塚原古墳




		藤原朝臣乙牟漏(ふじわらのあそみおとむろ)
		生没年: 天平宝字4年(760) 〜 延暦年(790) 。第50代桓武天皇の皇后で、藤原式家良継の子。母は安倍朝臣古美奈。
		平城・嵯峨両天皇と高志内親王の母。山部王(桓武天皇)の皇太子時代に妃となり、宝亀5年(774)、安殿親王(平城天皇)を出産。
		桓武天皇の即位にともない、延暦2年(783)正三位に叙せられて皇后となる。延暦5年賀美能親王(神野親王:嵯峨天皇)を出産。
		延暦9年、病により31歳で夭折した。天之高藤広宗照姫之尊の諡号を贈られ、山背国乙訓郡長岡山陵に葬られた。現在の向日市寺戸
		町大牧にあり、直径約65m、高さ約7mの円形古墳である。大同元年(806)、安殿親王の即位に伴い皇太后を追贈された。京都市
		右京区に残る大原野神社は、延暦3年(784)乙牟漏が勧進したと伝えられる。







 


		上図を見て頂いておわかりのごとく、桓武天皇と乙牟漏の婚姻は、遠祖をたどればまさしく「大化の改新」(乙巳の変)を行った、中
		大兄皇子と藤原鎌足である事がわかる。天智天皇の後を継いだ天武天皇は、強大な力をもって親政を行ったので藤原家はこの時点では
		まだ並み居る有力臣下の一つにすぎなかった。
		乙牟漏の父、藤原良継(よしつぐ:716〜777)は北家に隆盛をもたらした宇合の次男である。藤原広嗣の乱(740)に連座して伊豆へ流
		されるが、赦免され少判事、従五位下となる。やがて、北家の藤原仲麻呂と対立し、姓・位官を剥奪されるも、恵美押勝(仲麻呂)の
		乱の追討による功績で従四位下になり、766年には従三位に叙せられる。770年参議、名を「良継」とあらため、称徳天皇崩御後、藤原
		百川(式家:天皇即位前に死去)・永手(北家)らとともに、天智天皇の孫にあたる白壁王(光仁天皇:父は天智皇子の子施基皇子)
		擁立に奔走する。称徳天皇の死、光仁天皇即位によって、「壬申の乱」以後続いた天武天皇の皇統は絶え、天智系が復活する。即位に
		ともない良継は、771年中納言から内大臣になり777年死去。従一位を追贈されるが、806年には正一位太政大臣も追贈されている。




		井上内親王、他戸皇太子が廃された後、良継の娘乙牟漏と結婚していた山部王が皇太子に立てられる。やがて山部王は即位して桓武天
		皇となり、上述のごとく、安殿親王(平城天皇)、賀美能親王(嵯峨天皇)を産んだ乙牟漏も皇后となる。藤原家が、後々千年の栄華
		を極める端緒は、まさしくこの時点にあると言えよう。皇統はこの後、平城天皇、嵯峨天皇と続いていくが、桓武天皇や嵯峨天皇の時
		代には、天皇自身の優秀さもあって藤原家が政治に大きく関与する事はないが、皇統に入った血はやがて藤原家に大きな繁栄をもたら
		すことになる。




		一般に系図・系統図のたぐいは男性を中心に描いてあるが、実は女性を中心にした系図があっても良いのではないかと思う。日本の歴
		史、特に天皇家を中心とした権力構造において、女性の果たした役割は非常に大きい。蘇我氏や藤原氏のような有力豪族の血統以外か
		ら皇后や皇妃が選ばれることはほとんど無く、女性系統の系図というのは、非常に大きな意味を持っていると言えるのである。記紀か
		らはまったく系統外のように見える第26代継体天皇も、仁賢天皇皇女で前帝武烈天皇の妹である「手白香皇女」を娶らなければ周囲
		を納得させられなかったようなふしがある。既にその時代に血統は重要視されていた証拠である。
		藤原氏は平安時代に頂点を極め、武士の台頭とともにその権力は減衰していくが決して消滅したわけではない。それどころか脈々と血
		統を生きながらえさせて、今に至るも一種の「豪族」である。




		平安時代における藤原氏の栄達物語は、人間の欲望の極みを描いているという意味ではまさしく物語的であって、今日の視点では、と
		ても現世の出来事としては捉えがたいような面がある。しかし貴族社会の均衡は、それらの欲望となりふりかまわぬ陰謀と術策が渦巻
		く中で成立していた事を思えば、これもまた日本の律令政治が辿ってきた道であるし、その延長線上に現代があるとも言えるのである。
		藤原家はその後も常に天皇家の傍らに仕えながら、貴族中の貴族として存続し続け、明治期の三条実美・西園寺家を初め孝明天皇皇后、
		明治天皇皇后、大正天皇皇后らを輩出している。






		皇后陵から車道を挟んで反対側に「五塚原古墳」がある。古墳時代前期(4世紀)の前方後円墳で、物集女車塚古墳とほぼ同じ時期に
		築造された。寺戸町芝山、「はりこ池」の西側にある。開発が進む向日丘陵の中にあって、原型をとどめている数少ない古墳の一つで
		ある。




		解説にある「電気を利用した調査で、」とある部分を読んで、栗本さんは「今時、電気を利用した、なんちゅう言い方があるんかいな」
		と呆れていた。「そう言えばそうやね」「確かに古くさい言い回しやね」とみなさん。

 


		「調査してないちゅうことは、この下に石室があって石棺があるんやろか?」「おそらくあるでしょうね。」「こんだけの古墳やった
		ら副葬品も相当なもんがあるんとちゃう?」「盗掘されてなければ、ど偉いもんが入ってるかもしれへんね。」「刀やら鏡やら入っと
		ったら偉い値打ちちゃうん?」「うぅ〜ん、この前、銅鐸1個博物館が買い上げたら1億円とか言うてましたねぇ。」
		「1億円!」「まぁ、時代がちゃうから銅鐸は無いですけどね。」「掘ろ! 掘ろで!」「本気かいな。」

 


		後円部の頂に高校生のグループがいて、モデルガンを使ってサバイバル・ゲームのような事をやっていた。精巧なモデルガンを見て、
		橋本さんは「ちょっと持たせてくれ」と頼み込んでいた。



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