SOUND:Penny Lane   







宮本武蔵生誕の地を訪ねて

1998.4.19 with Mr.AGARIE

4月17日の金曜日、歴史クラブの東江氏が私の会社へ来て、「おい、今度の日曜暇か?
暇ならチズ鉄道乗りに行こうぜ!」と言う。「チズ鉄道、チーズ鉄道? なんじゃそれ」
と言うような会話があって、
彼の話を要約すると、19日の日曜日に、鳥取県智頭(チズ)町の諏訪神社(信州諏訪
神社の末社)で御柱祭りがあり、この祭りは、柱を若いしが担いで町中を練り歩き諏訪
神社に建てて奉納する、というものでおもしろそうだから見に行こう
と言うのだった。
正直な所、「あっ、又何か変なもん見つけてきたな。」という感じで、御柱祭りなどさ程
興味も湧かなかった。信州の諏訪神社ならまだしも、鳥取の諏訪神社?御柱祭り?どうせ
大した事ないんじゃないの、という気がした。

しかし彼の持ってきた資料の、智頭急行線(JRが智頭線として建設していたが、文字通り
縮小路線の憂き目に会い頓挫したままになっていた線を、地元の熱意が第3セクターとし
て開業にこぎ着けた鉄道路線。毎日、大阪駅からJR山陽線を通り、この智頭線を経由して、
JR因播線、山陰線を経由し鳥取倉吉までの特急が運行している。)

		の路線図に宮本武蔵という駅名を見つけた時、がぜん私の興味が強まった。「この宮本武蔵駅て、あの宮本武蔵と関係あんの?」
		「ううん、多分そうやろねぇ。作州浪人宮本武蔵いうからなぁ。」
		東江氏もあまりよく知らないようだった。「そうだ、多分宮本武蔵の故郷だ。」「ちょうど場所的にもこの辺りやと思うし、
		よし、行こう、行こう。」「それにしても、名前をそのまま駅名にするかねぇ。」「JRとちゃうからこんな名前にできるんや
		ろうねぇ。JRやったらこんな事でけへんで。」「おもろいなぁ。」

		こうして行き当たりばったりの旅が始まった、という訳である。今回は急な話だったので、誰にも声をかけず二人で行こうと
		いう事になった。なんだか、ホンマもんの弥次喜多道中になりそうな気がする。



	山陽道を離れた所から列車のスタッフが変わった。車掌はなんと可愛らしい女の子である。なんとイキなはからい。旅の心も浮き
	浮き。そりゃ誰かて、オッサンよりYOUNG GALのほうがええわなぁ。しかも、なかなかかわい子ちゃんであった。JRもこういう事
	をすればもっと客が増えそうなもんだがなぁ。

 


	ほんとはまっすぐ智頭駅まで行き御柱祭りを見て、帰りに宮本武蔵駅に降りたのだが、ここでは逆に紹介する事にする。

 












駅のホームには、でかい陶器の宮本武蔵レリーフがあった。よく雑誌で見る有名な武蔵の絵だ。



駅舎も変わった格好に作ってある。











	駅前の少年時代の武蔵像の前で記念撮影をし、武蔵誕生の地を目指して歩き出す。どこにでもある典型的な日本の田舎である。
	武蔵の頃は、美作(みまさか)の国吉野郡宮本村といったそうだが、現在の地名は岡山県英田(あいだ)郡大原町である。
	駅から15分ほど、家並みや田圃の中を歩いていくと武蔵ゆかりの地に着く。










	讃甘(さのも)神社とその境内。武蔵は、ここの神主が打つ太鼓とハチにヒントを得て二刀流をあみだした、とされている。
	生涯にただの一度も負けたことがない武蔵にあやかろうと、勝負ごとに関係した人達がこの神社を訪れる。

	讃甘神社のすぐ側を宮本川が流れている。二台の水車が川の両側で廻っている。武蔵の少年時代も水車があったのだろうか? 
	暴れん坊たけぞうと呼ばれていた武蔵もこの川で遊んだに違いない。橋から見て、下左が下流、右が上流である。














武蔵の生家に立つ武蔵生誕の地の碑。すぐ横には吉川英治の碑がある。







武蔵の墓は、一族の平田家の墓所にある。父は平田無二斉。武蔵の墓は両親の墓と並んで立っている。






	年表にあるように、武蔵は寛永元年(1624年)伊織を養子とし、13年間伊織とともに修行の旅をこなす。伊織はよく武蔵に仕え、
	指揮官・軍監としての手腕を会得する。
	二人は寛永14年、小倉藩(北九州市小倉)小笠原家に指揮監として仕官するが、3年後武蔵は肥後細川藩の客分として熊本に赴く。
	武蔵はここで五輪の書を書き終えた後、62才で永眠するのであるが、伊織は熊本へは行かずそのまま小笠原藩にとどまった。
		
	武蔵の死後伊織は、熊本にあった武蔵の骨を分骨し、ここ作州宮本村の武蔵の両親の墓の隣に埋葬した。現在両親と武蔵の墓は、仲
	良く並んで建っている。宮本伊織は、小笠原藩において家老にまで出世するが、「父と諸国を旅していた時が一番楽しかった。」と
	語っていたそうである。



平田家の墓所のすぐ隣に、武蔵神社が建っている。参拝者名簿を見ると、全国各地から訪れている人々の名で埋まっている。
生家の近くに、武蔵の資料館(五輪坊)や、石碑や銅像(下右)、武蔵道場(下左)などが立ち並んで武蔵を偲んでいる。









五輪坊の庭。池には鯉が泳いでいた。作州宮本村は、春の暖かい日差しの中にある。


































平成10年4月19日鳥取県智頭町 諏訪神社四柱祭り




	信州の諏訪神社は7年に一度だそうだが、ここでは6年に一度である。町中総出なので飲食店も全部休業で、仕方なくJAの
	スーパーで弁当を買って食べた。



	四つの町からそれぞれ御柱が提供され、この柱を町中担いで練り歩き、最後に諏訪神社の石段を駆け登って神域の四隅
	に立てるのである。








	武蔵の子孫『ムサシ』解く
	  	    ↑
		これ、たんぱく質の名前です

	生物学者岡部さん。再生医療にてがかり   
	宮本武蔵の子孫に当たる生物学者が、別の日本人研究者が発見して命名した「ムサシたんぱく質」の研究で大きな成果をあげた。
	脳やせき髄の再生医療の重要な手がかりにもなる内容で、3日発行の英科学誌ネィチャーに掲載される。
	この学者は科学技術振興事業団の一員で、国立遺伝学研究所助手の岡部正隆さん(32)。母の旧姓は武蔵の別名「新免」。曾祖父の
	代まで武蔵ゆかりの岡山県大原町にいた。
	一方ムサシたんぱく質は、94年、突然ショウジョウバエの研究で見つかった。本来は1本ずつ背に生える剛毛が2本ずつある。武
	蔵が腰に差していた2本の刀のように見えるため「ムサシ」と名付けられた。剛毛はふつう、毛と根元の神経部分からなる。発生
	段階でこの2種類の細胞へ分化するが、「ムサシ」では神経になるべき細胞も毛になり、剛毛が2本ずつ生える。岡部さんは、
	「ムサシ」の体内ではムサシたんぱく質が働かず、別のたんぱく質ができるのが原因であることをつきとめた。1個の受精卵が多
	様な細胞に分化し、生物の体ができる仕組みの一端を示した。
	岡部さんは、「先祖がらみのテーマだから研究をはじめたわけではありませんが、奇妙な縁を感じます。」と話している。
	【朝日新聞 2001年5月3日(木)朝刊より】 (C)Copyright Asahi Shinbun co .,LTD


2001年5月4日、武蔵の里へ、ふたたび

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