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小浜城趾 2003.9.22 福井県小浜市



 

		【小浜(おばま)の歴史】
		
		若狭の国小浜一帯は、室町時代に若狭の守護・武田信賢が治めており、小浜城より南西方向の海岸に近い青井山に城を築いて
		いた。武田元光の代になってこれより南東の、北川・南川両流域と小浜湾一帯を見渡せる要害の地である後瀬山(のちせやま:
		標高160m)に居城を移した。武田家は約130年間若狭を支配していたが、戦国の争乱に伴って武田氏が没落、越前朝倉氏
		が若狭へ侵攻してくるが、織田信長に滅ぼされた後、天正4年(1576)、丹羽長秀が信長から若狭10万石を与えられ、後瀬
		山城で若狭一帯を支配した。その後浅野長政、木下勝俊らが入封したが、関が原の戦い後は京極高次へと領主が変わった。
		関ヶ原の合戦後、後瀬山城は廃城となり新たにこの小浜城が築かれる事になる。

		慶長5年(1600)、関ヶ原の戦で西軍に属した小浜の木下勝俊は除封され、そのあとに近江の大津城主であった京極高次が、
		若狭8万5千石を拝領し入部した。関ヶ原の合戦では、京極高次は西軍に付き、弟の高知が東軍に付いていた。しかし高次は
		東軍へ寝返って大津城で篭城し、西軍の軍勢を引き付けて落城した。その軍功により家康は若狭小浜城8万5千石を与えた。 

		京極高次は近江の小谷の生まれで、浅井氏滅亡後信長に仕えたが、本能寺の変の後、明智光秀に従い秀吉の長浜城を攻めたた
		め追求される。しかし、美貌の妹が秀吉の側室となったこと、浅井長政とお市(織田信長の妹)の間に生まれた3姉妹の、次
		女の「初」が高次の正室になっていたこと、などの姻戚関係があって大津の所領を安堵されていた。ちなみに、3姉妹の長女
		「茶々」が、秀吉の側室、淀君である。

		高次の子忠高は、寛永元年(1624)、敦賀郡2万1千石を加増され、領地高は合計11万3千5百石となったが、寛永11年
		(1634)出雲松江に転封となり、京極氏による若狭支配は2代で終わりをつげた。その後、徳川譜代で老中の要職にあった酒
		井忠勝が武蔵の国川越(10万石)から入部し、石高は最後には13万3千石となって14代230年にわたり酒井氏の支配
		が続き、やがて明治維新を迎えることになる。忠勝は、徳川秀忠、家光、家綱の三代にわたり大老職を歴任し、徳川幕府3百
		年の基を作った。常に江戸幕府に出仕し、小浜城に帰ったことは数回で、延べ9ヶ月程だったと言われる。 



		
		現在この地は、酒井忠勝公を祀る小浜神社となっており、本丸の跡は、小浜神社の境内となっているが、境内の西南部分には、
		三層の天守閣が建てられていた天守台が現存している。観光船や漁船で賑わう小浜漁港から南川をはさんで間近に、高い石垣
		に囲まれた老樹の森が見える。本の丸周囲の堀も、今は田圃と住宅に変わっており、民家は石垣の際まで押し寄せている。
		安永3年(1774年)9代目城主忠貫の時に創設された藩校順造館の、美しいナマコ壁の城門が、現在、市内の県立若狭高校の正
		門に移築されている。 
 

		【若狭小浜城(わかさ おばまじょう)】
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 		【別 称】 雲浜城
		【築城年】 慶長6年(1601)
		【築城者】 京極高次
		【形 式】 平城
		【遺 構】 天守台、石塁、曲輪、移築門 掘切、郭 
		【所在地】 福井県小浜市城内1丁目 
		【記 事】 徳川譜代・酒井家の居城
		【アクセス】鉄 道: JR小浜線小浜駅〜バス
			  車   : 北陸道敦賀IC〜国道27号線〜国道162号線
		【駐車場】 なし。 
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		【小浜(おばま)城】
		
		福井県小浜市にある平城で、北陸で最大規模を誇る、若狭唯一の近世城郭。若狭の城主となった京極高次は、慶長6年(1601)
		に、この地雲の浜に住む漁師たちを下竹原(西津郷)に移住させて築城にとりかかった。みずからも、かつての若狭守護武田
		氏の後瀬山城を捨て、居城を海岸沿いの蜘蛛の浜(下竹原)に移し、新たに城下町割りを行った。その蜘蛛の浜は後に雲浜と
		改称され、城は雲浜城とも呼ばれるようになった。小浜城の西側は海に面し、北川、南川を天然の掘として利用した、周囲を
		水で囲まれた水城であった。雲浜に東から流れ込む北川と、南から注ぎ込む南川を、南川の流れを東寄りに湾曲迂回させ、北
		川と南川が城地を丁度北と南で囲みながら小浜湾に流れ込むようにしたのである。川の流れを変える大工事になって、工事は
		遅々として進まず難行し、国中から何万俵もの木炭俵を集めて地下の基礎固めをしたと言われている。
 

 

(北西から見た本丸石垣、手前の田圃内堀)

 

		
		高次は数年の歳月を費やして小浜城を完成させたが、慶長14年(1609)若狭で没する。後を継いだ嫡子忠高が小浜城の修築
		と城下町の整備を図り、天守も京極忠高が着工した。しかし、基礎工事半ばの寛永11年(1634)、京極忠高は出雲松江城に
		転封。代わって小浜城主となった酒井忠勝は徳川幕府の許可を得て、京極氏が行った小浜城の修築工事を継続、寛永13年、
		(1637)10月に三層の天守が完成した。実に着工から37年の年月を数えているが、京極氏時代の33年間に城の大部分が
		造られている。以後、小浜城は酒井氏14代の居城として明治維新を迎える。江戸時代初期、このような例は多く見受けられ
		る。つまり、数年或いは数十年にわたり城下町を整理し築城した挙げ句、他の地へ転封されるのである。徳川幕府にとっての
		外様大名達にこれが多い。基礎が固まるまでの徳川幕府は、大名達にとにかく財力を使わせ、幕府に立ち向かう力を削いでし
		まう事に腐心していたものと思われる。
 



(天守台石垣)



(上の天守台に下の天守閣が建っていた。小浜城模型は「若狭歴史民俗資料館」にある。)



(今の天守台。どこもそうだが、建物が無ければあんがい狭く感じる。)





 

		
		城は、小浜湾の海岸沿いで、北川と南川に挟まれた中州に築かれている。二本の川を堀に利用しかつ海に面した水城といえる。
		高次は、海路の要衝を占める小浜の繁栄を図るため、海辺の雲浜に新城を築城することにしたのだ。現在の小浜市中心街から
		は、やや北に離れた位置にあり、日本海側では稀な、海に突き出して防備を固めている城である。城はほぼ正方形の本丸を中
		心とし内堀をめぐらせ、その外側は南に二の丸、東に三の丸、北に北の丸、西に西の丸が配置され、それら全体を外堀が取り
		囲むという形になっていた。東西150間、南北145間の方形で、内堀を含めると約2万坪の広さがあり、典型的な輪郭式
		の縄張りである。城地総面積は62.492平方m、本丸面積10.347平方m、天守閣上層(3間×4間)、中層(5間×
		6間)下層(7間×8間)、総高29m、石垣の高さ11m、石垣の根廻り18mと20m。城門数16棟、櫓数42基を数
		える。近世城郭としてはやや小振りながら、北陸筋では最大規模の堂々たる城郭であった。現在二ノ丸や三ノ丸は埋め立てら
		れてしまい、流路変更された北川・南川は旧本丸濠を河口としている。


(上は天守台から見て南側を流れる南川。下は西に見える小浜湾。)



		
		明治4年(1871)、廃藩置県に際して城内に小浜県庁が設置された。同年12月、大阪鎮台第1分営のための改造工事中に、
		二の丸櫓工事現場から出火し、天守閣を除く旧城の大部分を焼失した。その後城郭は売却され、天守閣も破壊され、内堀も埋
		められて二の丸以下の地区には人家が建て込んで、往時の面影は殆どなくなった。今は城郭の石垣を残すのみであるが、天守
		閣跡には礎石の残存がみられ、西側眼下に小浜湾を望むことが出来る。



 

(県立若狭高校の正門)





		
		小浜藩の藩校「順造館」で学んだ伴信友は、師本居宣長にならって「邪馬台国問題」にも言及している。以下は「研究史」で
		紹介した文章である。
		
		宣長以後,鶴峰戊申(1788〜1859)や近藤芳樹(1801〜80)などが宣長の説を発展させたが,文化三年(1806)に『中外経緯伝草
		稿』を著した伴信友(1773〜1846)は,邪馬台国を九州ではなく大和であると主張した。大和説の復活である。伴信友は,卑弥
		呼は姫子(ひめこ)を魏の使いが聞き誤ったもので神功皇后の事である,とした。又,邪馬台国は大和の国の事だが,魏の使
		いは大和まで来ておらず,伊都国王あたりが応対しその伝聞で倭人伝が書かれている,とした。それ故,金印も伊都国王が貰
		ったのである。神功皇后は魏を征服する野心があったので,九州の蛮族に命じて魏と折衝させていた,と解釈している。九州
		と大和と場所は違うが,皇国の威厳を保つために倭人伝を理解しようとした目的は,江戸時代宣長以後殆ど一貫している。



		【小浜の町に見る歴史】
		
		城跡は小浜駅前から大通りを真っ直ぐ北に歩き、南川に掛かる大手橋を渡ると直ぐ左手に見える。1.5km、徒歩で約15分
		のくらい距離である。その南川を挟んだ手前が「若狭2003年博覧会」の海会場だ。この博覧会は海と山に会場が別れており、
		それぞれの会場と駅の間を無料バスが往復している。電車の吊り広告で、近鉄バスが小浜−大阪間の高速バス運行を開始した
		とあり、往復で5,500円だったので、ちょうど行われているこの「2003年博」を見に来たのだが、ちょっと期待はずれだった。
		しかし小浜市は、歴史の町としての小浜の啓蒙に力を入れているようで、至る所に「人の駅」と称する単板が立っていて、小
		浜の偉人達を紹介している。しかし杉田玄白がここの出身だとう知らなかったなぁ。



 







 



		
		駅前(歩いて2,3分)の所に公園があって、そこに杉田玄白顕彰碑と梅田雲浜の像が建っている。梅田雲浜は幕末の尊皇攘夷
		派志士で、安政の大獄で幽囚の目にあい獄死した。小浜は彼の生誕地なのだ。杉田玄白は、前野良庵とともに「解体新書」を
		訳した西洋医学者としてあまりに有名だ。公園と通りをへだてて向かい側が病院で、その前に説明板と玄白の像が建てられて
		いる。

 

上右は梅田雲浜の像







ここでの図録は、「2003年若狭博」の歴史館に展示されていたもの。薄暗かったのであまり鮮明には写っていない。







		
		小浜は「若狭の小京都」とか、「海のある奈良」とか呼ばれているそうだ。寺社仏閣が多いことからそう呼ばれるのだろうが、
		確かに歴史の香り高い、落ち着いた静かな町並みを残している。小浜公園にほど近い三丁町は、北前船盛んなりし頃の遊郭跡
		で、江戸時代の佇まいを残す風情ある町並みが並んでいる。今でもどこかから三味線の音色が聞こえてきそうである。



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