Music: Twilight Zone
かぎろひの大宇陀・阿騎野
奈良県宇陀郡大宇陀町 2001.11.3(日)雨 歴史倶楽部 第57回例会






	大阪「あべの橋」から近鉄電車の準急榛原(はいばら)行きに乗って、榛原駅前から奈良交通バスに乗る。終点の「大宇陀(おおうだ)」
	バス停で下車すると、目の前に道の駅「宇陀路大宇陀・阿騎野宿」がある。売店、レストラン、トイレ、休憩所などがあり人々で賑わって
	いる。隣には野菜の安売り店があり、おば様達で一杯だった。


【大宇陀町観光案内パンフレットより転載】



	宇陀・阿騎野は歴史の宝庫だ。『古事記』『日本書紀』は神武東征の物語を記すが、ここはその主要舞台であった。

	熊野から奈良を目指した神倭伊波礼毘古命(神武天皇)に、高御産巣日神は天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わし、その先導で大台ヶ原
	山中を進軍した。吉野川下流で国津神の贄持之子(ニエモツノコ)が加わり、井戸で井氷鹿(イヒカ)が、またその先で石押分之子(イ
	ワオシワクノコ)が神武軍に参加する。そして、一行は山中を踏み分け宇陀(奈良県宇陀郡)へと出る。宇陀は、兄宇迦斯(エウカシ)、
	弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟の土地だった。兄宇迦斯は反抗したが、弟宇迦斯は恭順の意を示し、兄宇迦斯の謀略を神倭伊波礼毘
	古命に告げた。そこで、神倭伊波礼毘古命の家来、道臣命(ミチノオミノミコト)と大久米命(オオクメノミコト)は兄宇迦斯を脅し、
	御殿の中へ追い込んでこれを殺した。そして宇陀を後にし、忍坂(奈良県桜井市)から畝傍(奈良県橿原市)へと進軍して橿原宮に即位
	するのである。

	神武天皇にゆかりの宇賀志は、大宇陀町ではなく菟田野町にある。車だとすぐだが、雨の中を歩けば小1時間はかかるだろう。谷の奥ま
	った所に宇賀神社があり、兄宇迦斯が自らの罠にはまって死に、その流れる血があふれ出た事から「宇陀の血原」と名付けられたという
	血原橋も、宇賀志川にかかっている。雨が降っていなければ是非とも尋ねてみたい場所だったが、大宇陀を見た後、雨の中を更に歩こう
	とみんなに言う元気はなかった。ヤタガラス神社も見逃したし、今回は断念して「神武の歩いた宇陀の道」は再度の訪問に期待する事に
	しよう。
	神武天皇が実在の人物かどうかについては、戦前は勿論史実として、戦後はその反動で虚構であるとされてきた。しかし近年、記紀に載
	っている記事のいくつかが事実であった事を立証するような考古学の成果が続いている。古事記を編纂した太安万侶は、その墓が発見さ
	れるまでは架空の人物という見方が一般的だったし、斉明天皇が築かせたという土木建造物は、その多くが存在を疑われていたが、昨年
	飛鳥で大々的な導水遺構が発見された事は記憶に新らしい。また同じく昨年、推古天皇と息子の竹田皇子が同時に埋葬されたと思われる
	古墳が発掘されて、記紀に書かれている記事が事実であった事がほぼ立証された。
	勿論、だからと言って即神武天皇が実在したというつもりはない。しかしながら、この宇陀をはじめとして、記紀に書かれている多くの
	事跡が各地に残っているのは何故だろう。後世の人たちが記紀を読んで、其の足跡をたどりながら「神武石」や「八咫烏神社」を建てて
	いったとはとても思えない。神武の東征を、それに近い事跡が古代にあったのだろうと考えた方が、より歴史の真実に迫れそうな気がす
	る。こう書くと、進歩的な知識人達の中には、「皇国の復活である。」とか「時代錯誤もはなはだしい。」などと反論する人がいるが、
	もうそろそろイデオロギーを離れて、純粋に科学的な立場から歴史を考えてもいい時代ではないだろうか。


【大宇陀町観光案内パンフレットより転載】



	推古19年(611)薬狩りをした記述が日本書紀にあり、男は鹿を狩って角をとり、女は薬草をつむ日本で最初の薬猟の里であったという。
	672年6月に壬申の乱が勃発すると、大海人皇子の一行は奈良県吉野町宮滝に所在した吉野宮を脱出し、宇陀の地を抜けて、美濃の不破に
	いたっている。
	また万葉集巻一に登場する、柿本人麻呂の詠んだ、

	「東(ひむかし)の 野にかき(ぎ)ろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(つき、かたぶ)きぬ」		

	の舞台としても、ここ宇陀は有名である。軽皇子(かるのみこ:683〜707)が阿騎野で狩りをした際、供をした時に作ったとされる歌で
	あるが、柿本人麻呂は生没年は不詳である。しかし天武・持統・文武三代の天皇の御代に活躍した事から7世紀末から8世紀始めの人物
	とされている。軽皇子は後に文武天皇として即位する。草壁皇子の子で、聖武天皇の父である。14歳で即位し、24歳で崩御している。
	阿騎野は、現在の大宇陀町役場南西の一帯を言い、古代には阿騎の大野と呼ばれて大宮人の狩猟の地であった。場所は飛鳥から伊勢へ抜
	ける途中で、長谷寺や室生寺などの南にあたる。
	この歌の現代語訳は、「東方の山に朝の光が射すのが見え始め、振り返れば、月は西の山に沈みかけている。」というもので、雄大な光
	景を詠んでいるのだが、その美しい風光は1300年後の今も面影を伝えており、全国からこの「かぎろひ」を撮影しようと多くのカメラマ
	ン達が訪れている。「かぎろひ」とは、冬の日の朝、山の端に出てくる太陽光が、まるで炎のように赤く天空を照らす様をいうらしく、
	毎年12月にはここ宇陀町で「かぎろひを見る会」が盛大に催されているそうだ。
	人麻呂は、登り来る太陽に軽皇子(かるのみこ)の将来を、降りゆく月に持統の行き方を見ていたのかもしれない。


【大宇陀町観光案内パンフレットより転載】



	また、源義経が頼朝の軍に追われて弁慶らと落ちのびた時、村人から食事を授かったが、去った後に弁当の箸千本が残っていたという千
	本橋や、常盤橋、義経橋など大宇陀町南部の栗野、牧には義経にまつわる伝説も多い。
	大宇陀は伊勢と大阪を結ぶ要衝だったために、近世初めには五家による城主交替があった。市街地の東に秋山城跡がある。南北朝争乱の
	天平元年(1346年)秋山親直が築城したと伝えられている。秋山氏は清和源氏と称し伊勢北畠氏に属し以後南朝に尽くしたが天正13
	年(1585年)大和大納言秀長に滅ぼされた。元和元年、織田信長の次男信雄(常真公)がこの地に封ぜられて以来高長、長瀬、信武
	の4代80年間織田氏3万1千石の城下町として栄えた。元禄の頃には、人口3700余りと奈良、郡山につぐ大きな町として発達した。
	大宇陀には片岡邸、笹岡邸など数百年を経た庄屋屋敷が残されており、重要文化財に指定されている。秋山城跡の麓にある森野旧薬園は
	今から230年ほど前に徳川幕府の採薬使、植村佐平次が紀和方面に来た時、森野さい郭が同行して宇陀、吉野地方を4ヶ月にわたって
	採薬した。幕府はその功により漢種草木の苗数十品を与え、以来森野薬園は幕府の補助機関として発展した。
	現在は人口11、000人余りの大宇陀町として、林業と農業を中心にした山村で、ご多分に漏れずやや過疎化の傾向にある。

 

	上記の写真2枚は、神戸市在住小川保氏の「山河秀麗」というHPから借用しました。写真使用を快諾いただいた小川氏に感謝します。
	小川氏はアマチュアカメラマンで、10数年「阿騎野」に通って「かぎろひ」を撮影し続けています。このHPは阿騎野を始め、その他
	山河の素晴らしい写真で一杯です。是非一度ご覧ください。





大宇陀温泉あきののゆ





	一日中雨の中を歩き回りうっとうしかったので、すべて脱ぎ捨てて入った温泉は最高だった。施設の正式な名称は「大宇陀町心の森、多
	世代交流プラザ」。入浴料金は800円。無色無臭でビックリするほどヌルヌルした湯だ。「泉温:34.11度、沸出量:日量230u、泉質:
	アルカリ性単純泉」と案内にある。売店やら食堂やら中にはいろんな施設があり、温泉の廻りにもいくつか建物が建っていた。
	下駄箱、ロッカー、貴重品ロッカーなど4つも5つも鍵をもったまま湯に入る。車でバスで、大勢の人がこの温泉に入りに来ていた。




【大宇陀町教育委員会発行「大宇陀町文化財ライブラリー2 阿騎野と中之庄遺跡」より転載】




	バス停で帰りの榛原行のバスを待っていたら、桜井行のバスが来たので乗った。バスは峠を越え、桜井までの山道を走ること40分ほど。
	駅前の料理屋さんで反省会。やたら芸能人や力士のサインがあった。西武(今巨人)の清原のサインもあったがPL高校と書いてあって、
	この店とは親戚になるのだそうだ。高校生の時分からサインなんかしてたんだ。

 



	菟田野・古宮谷1号墳から副葬品180点出土  2001/12/18  (C)Yomiuri Shinbun co.,

	菟田野町古市場、古墳時代前期−中期(四世紀末−五世紀初め)の古宮谷1号墳から、<三種の神器>の鏡、剣、玉がそろった豊富な副
	葬品約百八十点が出土し、十七日、調査した県立橿原考古学研究所と町教委が発表した。未盗掘だったため埋葬状況がよくわかり、刀剣
	類が多いことなどから被葬者はヤマト政権と結びついた武人の可能性が高い。当時の埋葬方法・儀礼を考えるうえで貴重な資料となる。
	三小学校を統合した新校舎建設予定地で、昨年度に遺跡踏査を実施。新たに確認した五−八基の古墳とみられる高まりの一部を九月中旬
	から試掘した。
	その結果、直径二十−二十五メートルの円墳か前方後円墳の後円部で割竹形木棺(長さ約六メートル、幅約〇・八メートル)の痕跡を確
	認。国産とみられる画文帯神獣鏡一面(直径十六センチ)、鉄製刀剣七点、槍(やり)の穂先とみられるものと鉄斧(てっぷ)各一点、
	碧玉(へきぎょく)と滑石製の勾(まが)玉、管玉、臼(うす)玉の玉類約百六十点などの副葬品が出土。前期古墳に典型的な副葬品が
	すべてそろい、整った埋葬形式と判明。画文帯神獣鏡が完全な形で見つかったのは宇陀地域で初。
	「日本書紀」などに神武天皇東征の際、この一帯に「兄猾(えうかし)」「弟猾(おとうかし)」という豪族がいたと記される。
	また古代で重要視された水銀朱の産地で、同研究所は「こうした伝承や経済力が築造の背景にあるのでは」と推測している。
	1号墳は教材用に保存を検討中。来年度、本調査を予定している。二十二日午後一時から町役場で報告会を開く。

	河上邦彦・県立橿原考古学研究所副所長の話「被葬者は平時は農業などをし、有事の際には武器をとって駆けつける、後の鎌倉武士のよ
	うな武人集団の一員だろう。ヤマト政権周辺部の地域社会を復元できる好資料だ。

鏡、刀剣、玉など豊富な副葬品が出土した 副葬品の配置から頭を木棺の両端に向けて 古宮谷1号墳(県立橿原考古学研究所提供) 二、三体が埋葬されていたらしい。





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