Music: Twilight Zone
かぎろひの大宇陀・阿騎野へ再び



奈良県榛原町・大宇陀町 2004.5.29(土)歴史倶楽部 第84回例会

		大阪なんばから近鉄電車に乗って「榛原(はいばら)」駅で降りる。前回は、榛原駅前から奈良交通バスで終点の「大宇陀(おお
		うだ)」まで乗ったが、今回は榛原駅から即歩きである。大宇陀の町まで6,7kmある。榛原駅の1階に、もう20年ほどここ
		で饅頭を売っているというおばちゃんがいて、もう孫がいるというのに結構綺麗で30代後半にも見える。前回の例会の時橋本さ
		んはこのおばちゃんと仲良くなって以来、ちょくちょくこの駅に来ているようだ。今日も早くに来て、一人このおばちゃんと話し
		込んでいた。錦織さんはホームで我々大阪組を待っていたというのに、全く。


		前回は、「古事記」「日本書紀」に記された「神武東征」の面影をもとめてここへ来たのだが、一日中振っていた雨のせいで最後
		に風呂に入ったのもみんな覚えていないくらいだったが、今回は「八咫烏(ヤタガラス)神社」を訪問できるので楽しみだった。
		しかし、榛原駅から延々と歩きみんなバテぎみで、大宇陀の町に着いたときには「かぎろひの丘」など「前回見たからパスパス」
		と一目散にスパーランド「あきのの湯」を目指した。
 
ビ−ル・弁当を仕入れていざ出発! 上右は榛原町役場。

		(注:ここでの解説のいくつかは、前回の「大宇陀・あきる野の旅」のレポートから「COPY・貼り付け」したので一部重複し
		 ているが、復習と言うことでお許し頂きたい。)

		
		<宇太水分(みくまり)神社上社> 宇陀郡榛原町大字下井足635番地



				主祭神 
		 		 天水分神 (あめのみくまりのかみ)
		 		 国水分神 (くにのみくまりのかみ)
		 		 天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
		 		 品陀別命 (ほんだわけのみこと)

				末社
				 石神神社 (磐長比資命)
				 稲荷神社 (宇迦之御魂神)
				 金刀比羅神社 (大名牟遙神)


		近鉄大阪線・榛原駅から真っ直ぐ南へ抜け、国道を榛原町役場の方へ向かう。役場の先で、宇陀川にかかる「丹切橋」を渡る。
		田舎道をしばらく川に沿って西へ行くと「宇陀水分神社」がある。創祀は古く貞観元年(859)には風雨祈願のため、勅使が遣わさ
		れている。当神社の創記は、第10代崇神天皇7年2月の勅祭とも伝えられる。「延喜式」神明帳では、葛城、都祁、吉野の各水
		分と共に大和4水分の大社とされ、応保年間(1160年頃)芳野川(ほうのがわ)に沿って「上社」、菟田野町の「中社」、「下社」
		の三所三座に祀られたようだ。大和国4所水分は大和朝廷支配地域の東西南北にあり、東は当社、西は葛城水分神社、南は吉野水
		分神社、北は都祁水分神社とされる。本殿は現在神明造りであるが、明治初期までは本殿をはじめ附属の建物はすべて春日造りだ
		ったようで、明治11年、県社の指定を受け現在の姿になった。



		「一間社春日造檜皮葺」の社殿はさほどには大きいものではないが、厳粛である。森も杉、檜、欅、銀杏が並び、静かで落ち着い
		た雰囲気を漂わせている。頼朝が植えた杉というのもあって、二代目の頼朝杉が樹齢400年という。林間には山茶花、椿、榊が
		多い。大木はいずれも樹齢数百年を重ねていると思われ、見上げる巨木である。帰りがけ、ちょうど神社のおばさんがバイクで帰
		ってきたが、背後の丘陵には円墳があるそうだ。







		ここは古代から朝廷の崇敬篤く、平城天皇の大同元年(806)に神封一戸が奉られており、貞観元年(859)9月には先述の奉幣使
		を派遺して風雨を祈らせている(三代実録)。醍醐天皇の御代に編纂された「延喜式」には、臨時祭式には、祈雨神祭85座の1
		座に列せられ、座別絹5尺、五色薄各1尺、絲1、綿1屯、木綿2両、麻5両、白馬等が献上されたと明記されている。中世に入
		ると朝廷からの賜物の記録は見られなくなるが、南北朝時代の正平6年(1351)5月、後村上天皇は唐招提寺より三輪を経て宇太
		水分宮に移り、さらに吉野に遷幸したと興福寺金蔵院實厳の日記「細々要記」にある。また、後村上天皇皇孫堯成親王が応永18
		年(1411)当杜に梵鐘を寄進している。その後、近代になると大正11年(1922)5月19日に、伏見宮文秀女王が御榊を奉り、
		黒松を植樹した。また、昭和天皇の御代には、高松宮殿下が昭和35年(1955)5月12日に参拝し玉串料を奉り、銀杏を植樹し
		ている。一見、田舎の古くさい神社に見えるが、相当な格式を持っていたらしいことが窺える。

 










		<三十八(さんじゅうはち)神社> 宇陀郡榛原町上井足(かみいだに)2051

		「宇陀水分神社」境内の長い参道から鳥居をくぐり坂を右(西)へ下りて、県道31号「榛原宇陀野御杖線」を芳野川沿いに南へ
		下ると、川向こうに神社らしき建物が見えてくる。三十八神社である。橋を渡って左へ曲がり、緩やかな坂を登ると神社の建物が
		見えてくる。






				祭神  弥都波能売命(やつはのめのかみ)
 

 


		「三十八神社由来記」
		当地は、柿本人麿の歌で名高い阿騎野の近くで古くから開けた所です。水を司る神である宇太水分社や伊勢神宮系の神戸社(阿紀
		神社などが、大きな勢力を持っていました。上井足村も宇太水分社とかかわりがありました。
		当社は、伝承によると応保2年(1162)6月18日に創建された由伝えられています。おそらく井足村がひとつのまとまった村と
		して成り立った時に、村人の信仰から造られたものでしょう。祭神は弥都波能売命(やつはのめのかみ)で、水を司る五穀豊穣の
		神様です。平安時代の末頃にはすでに井足庄という庄園があって、興福寺領でした。まもなく上井足と下井足が分かれたようで室
		町時代頃の古文書によると、井足下庄と井足上庄の名前を見ることができます。しかし二つの庄園は兄弟のようなもので当社はそ
		れぞれの庄の鎮守社でした。当地は戦国時代には近くの領主秋山氏の知行分で、実際には土豪井足氏が支配していました。当社も
		井足氏の氏神となっていた事でしょう。この地は大和から伊勢へ行く街道になっており、井足関という関所が置かれていました。
		関所からあがる通行料は禁裏(皇室)へ収められていましたが、関所の代官は井足氏が勤めていました。

		豊臣政権ができた頃には秋山氏や井足氏などの武士はいなくなりました。文禄4年(1595)にこの地方では新たに検地が行われ、
		すべての土地に年貢がかけられることになりました。三十八神社は、由緒ある神社でしたので境内は除地(免税地)となりました。
		境内山林1町3反7畝29歩、境外田2反2畝12歩が神社の土地として除地になったのです。神社には別当寺である真言宗の善
		福寺があり、社僧という神に仕える僧侶がひとりいました。長谷寺で修行をした僧侶が住職をしていた場合が多く、江戸時代初期
		の貞享の頃は権律師与俊という人でした。社人はいず、村人が社役を勤めていました。神社に残されている造営や屋根葦替の棟札
		によりますと、元和6年(1620)、正保4年(1647)、寛文9年(1669)にそれぞれ屋根の葦替をしており、貞享3年(1686)に
		は神社の造営をしています。以後の棟札を見るとだいたい20年に一度屋根の葦替をしています。
		寛政8年(1796)8月26日には、境内にあった神宮寺である善福寺の太師堂が造営されています。ともに上下の両井足村が共同
		で普請を行っております。普請が終わると、祝祭が行われますが、その時も善福寺の社僧が導師となり、仏式の法要がなされまし
		た。最近まであった太師堂は善福寺のなごりです。

		明治維新になり、神仏分離が行われ、善福寺も廃寺となりました。明治6年(1873)4月には全国の神社が社格を付けられること
		になり、当社は村社に列せられました。



何で三十八というのかは由来にも書いていない。他にも三十八神社というのがあるが、一体どうしてなんだろう?





 




		<八咫烏(やたがらす)神社> 宇陀郡榛原町高塚42

			祭神 : 建角身神 (たけつのみノみこと)
 




		三十八神社を出て県道31号へもどり、芳野川沿いにさらに南へ辿ると、「八咫烏神社」の大きな鳥居が立っている。鳥居をくぐ
		って田んぼの中の道を行くと、八咫烏神社が鎮座している。祭神は3本足の八咫烏(武角身命、たけつのみノみこと)で、彼は初
		代神武天皇が日向(宮崎県)から東征の時、皇軍を熊野から大和まで道案内した。神武天皇が大和に入ろうとして熊野山中で迷っ
		た時、鴨建津見命がさながら烏に化して先導した功によって八咫烏の称号を賜られたとされている。また、神武天皇が伊那佐山に
		登ろうとした時、この土地の豪族、偉丈夫の武角身命が黒い衣装を身にまとい木から木へ飛び移りながら天皇を宮城に先導したの
		で、その称号を賜ったともいわれ 、その功績を讃え、慶雲2年(705)9月、第40代天武天皇が武角身命を祭神として、鳥居越
		しに伊那佐山の見える当地に八咫烏神社を創建した。なお、山城国(京都)の下賀茂神社は、武角身命の苗裔(びょうえい)で、
		故に両社の神紋は共に葵(あおい)とされている。(説明書き)



 

 


		八咫烏神社略縁起−境内由緒より−

		皇祖神武天皇熊野より賊軍を御東征の御砌り、道なき峻険の山々をかきわけ宮居を定めんと、たたなめて伊那佐の山にお登りされ
		んとした時、この土地の豪族で偉丈夫の武角身命が全身真黒い衣をまとい高い木より木へと飛び移って宮居の方に天皇をご先導申
		し上げた。その姿が恰かも八尺もあるような大烏の様であったので、天皇はその勲功を賞でて八咫烏の称号をお与えになった。慶
		雲二年九月天武天皇が武角身命を祭神として、当社と指呼の間にある伊那佐山麓のここ高塚(鷹塚)に八咫烏神社を創建して祭る。
		三足の烏を当社の絵様としまた山城国下加茂神社の旧神宮は鴨の県主で祭神武角身命の苗裔である。従って葵を以て両社の神紋と
		された由緒はここにある。以上。 












		八咫烏は三本足の烏である。三本足の鳥の話は広く東南アジアにも分布し、つい先日も同じ図柄がキトラ古墳にも描かれていたと
		報道されていたし、中国の壁画に書かれた図柄がその源流ではないかという記事が載っていた。これは初期の大和朝廷の出自がそ
		のあたりにあるのではないかという憶測を生む。社殿は新しく、山の中腹に本殿が鎮座している。現社地は、もともと伊那佐山の
		山頂に祀られていた八咫烏神社、即ち都賀那木神社(貴船社に改称)の遥拝所であったとも伝えられている。



 

ワールドカップ時のマスコットになった、ヤタちゃん。「荒鷲少年」はこの年代は殆ど知っていた。



 

吉野の地酒「ヤタガラス」。例会で吉野へ行った時買って飲んだことがある。あの時もエライ雨だったなぁ。

 


		熊野から奈良を目指した神倭伊波礼毘古命(神武天皇)に、高御産巣日神は天から八咫烏(ヤタガラス)を遣わし、その先導で大
		台ヶ原山中を進軍した。吉野川下流で国津神の贄持之子(ニエモツノコ)が加わり、井戸で井氷鹿(イヒカ)が、またその先で石
		押分之子(イワオシワクノコ)が神武軍に参加する。そして、一行は山中を踏み分け宇陀(奈良県宇陀郡)へと出る。宇陀は、兄
		宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウカシ)という兄弟の土地だった。兄宇迦斯は反抗したが、弟宇迦斯は恭順の意を示し、兄
		宇迦斯の謀略を神倭伊波礼毘古命に告げた。そこで、神倭伊波礼毘古命の家来、道臣命(ミチノオミノミコト)と大久米命(オオ
		クメノミコト)は兄宇迦斯を脅し、御殿の中へ追い込んでこれを殺した。そして宇陀を後にし、忍坂(奈良県桜井市)から畝傍
		(奈良県橿原市)へと進軍して橿原宮に即位するのである。神武天皇が実在の人物かどうかについては、戦前は勿論史実として、
		戦後はその反動で虚構であるとされてきた。しかし近年、記紀に載っている記事のいくつかが事実であった事を立証するような考
		古学の成果が続いている。この宇陀をはじめとして、この地方には記紀に書かれている多くの事跡が残っているが、これは果たし
		て何故なのだろうか。後世の人たちが記紀を読んで、其の足跡をたどりながら「神武石」や「八咫烏神社」を建てていったとはと
		ても思えない。神武の東征を、それに近い事跡が古代にあったのだろうと考えた方が、より歴史の真実に迫れそうな気がする。こ
		う書くと、進歩的な知識人達の中には「皇国史観の復活である。」とか「時代錯誤もはなはだしい。」などと反論する人たちがい
		るが、もうそろそろイデオロギーを離れて、純粋に科学的な立場から歴史を考えてもいい頃ではないかという気がする。







 

境内は広かった。ここで日陰を選んで昼食にした。









		<榛原町高塚の「高塚遺跡」>



		八咫烏神社を出て、溝のような禊川に架かる朱色の葵橋を渡り、また「一の鳥居」をくぐって県道31号線へ戻り、南へわずか2,
		30m行くとバス停「高塚」があり、その直ぐ先、四つ角の南西角にこんもりとした「高塚遺跡」がある。ちょっと見には遺跡と
		はわからない。歩いていた若いお姉ちゃんにあまり期待せずに聞くと、「あの先の田んぼの中にあるこじんまりとした部分を高塚
		遺跡と呼んでます。」というしっかりした返事が返ってきた。どこへ行っても殆ど土地の人は縄文・弥生遺跡など知りもしないの
		で、このお姉ちゃんの答えは意外だった。みんな感心することしきり。ここは昭和12年道路工事によって、多くの弥生式土器、
		石器、木製品などが出土し、大字名から「高塚遺跡」と呼ばれるようになった。昭和46年以降の発掘調査では、溝や穴、弥生式
		土器、ガラス玉、銅鏃(どうぞく)、木製品(脚付盤、木包丁)、古式土師器、須恵器、土師器などが見つかり、これまでの調査
		結果等から、約1700年前頃の弥生後期の集落跡と考えられている。しかし遺跡はそんな説明板もなく、並んで立っている石柱
		や石碑はまるで墓のようにも見える。榛原町では少ない弥生遺跡だろうに、教育委員会は説明板くらい立ててもよさそうなものだ。
 

 







		臨済宗大徳寺の末寺、長泉山「徳源寺」
 


		「松山西口関門」から西へ行って、宇陀川を渡り、更に国道166号線を横切って、バス停「西山」の所から西へ向かって、三叉
		路の角に建つ近畿自然歩道の標識に従って北へ進むと「徳源寺」へ至る。織田出雲守高長が、寛永9年(1632)亡父織田常真公信
		雄(のぶかつ、織田信長の次男)菩提のため京都北野の古寝殿を移築したものを本堂として創建され、開山は天祐仏海祖燈禅師。
		境内奥の木立の中には藩祖織田信雄から、高長、長瀬、信武まで4代の五輪塔が家臣および歴代住職の碑を配した中に建っている。
		なお、昔の本堂は今ないが、創建当時の豪華な唐門は、犬山市の「有楽苑」に移転されて残っている。

 

 



 

 


		徳源寺境内奥の五輪塔(織田公墓所)

		織田信雄は、安土桃山時代永禄元年(1558)織田信長の次男として生まれ、天正10年(1582)6月2日父信長が本能寺の変で明智
		光秀に打たれると、6月15日織田信雄は明智秀満の守る安土城を攻め、明智の残党狩りを行い安土城天守を焼いてしまった。
		その後、信雄は清洲や、伊勢長島の城主となり、天正12年(1584)徳川家康と結び小牧・長久手で豊臣秀吉と戦ったが、勝敗は
		決せず和睦して、秀吉の政権下では大納言、内大臣に昇進し、入道して常真。具豊、信意、信勝とも名乗った。大阪夏の陣後に宇
		陀松山藩5万石城主となり、寛永7年(1630)4月30日に72歳で世を去った。。 

 





 



 

 




		<史跡 旧松山城西口門>

		元和元年(1615)から元禄8年(1695)までの80年間、織田氏の城下町として栄えたその名残りをとどめる唯一の史跡である。
		正面の柱間4.1m、軒の高さ3.7m、両門開きの左右に袖垣をつけた薬医門。本瓦葺きの切妻屋根をもつ簡素な門で、壁を除
		いてすべて黒塗りにされていることから、黒門とも呼ばれている。昭和6年に国史蹟に指定された。

 

 


		大宇陀の町へ入って、幅4m程の国道370号線を北上し、バス停「大宇陀茶町」辺りから西へ行くと、宇陀川の手前に、旧松山
		城大手筋の西口関門だった、史跡「松山西口関門」がある。建てられたのは江戸時代初期、正面の柱間十三尺五寸、兩内開きにな
		っていて左右に袖垣をつけた薬医門の形をとっている。また、門を含む地域は桝形になって、旧位置に現存する城下町の門として
		は珍しい門である。なお、松山城は初め秋山氏が築城して旧名を秋山城と呼び、後に福島掃部頭が居城として次第にその形を整え、
		慶長年間頃城郭の完成を見た。 

 

 


		大宇陀は伊勢と大阪を結ぶ要衝だったために、古くから城下町として発展してきた。近世初めには五家による城主交替があった。
		市街地の東、城山山頂附近には宇陀松山城(秋山城)跡が残っている。宇陀松山城(秋山城)は、宇陀に勢力を持つ秋山氏の本城
		で、南北朝争乱の天平元年(1346)秋山親直が築城したと伝えられている。秋山氏は清和源氏と称し伊勢北畠氏に属し、以後南朝
		に尽くしたが天正13年(1585)大和大納言秀長に滅ぼされた。同年、秋山氏が伊賀に追放になった後、相次いで入封してきた豊
		臣系大名の居城となり、城下町が整備されるとともに、大規模な改修が加えられた。しかし、元和元年(1615)の福島掃部頭孝治
		(福島政則の弟)が改易されたことにより城は破却された。平成7年より行われた発掘調査により、大規模な石垣作りの山城であ
		ったことが確認され、我が国での中世の山城から近世城郭への移り変わりを知る上で重要な城跡である事が判明した。








		元和元年、織田信長の次男信雄(常真公)がこの地に封ぜられて以来高長、長瀬、信武の4代80年間織田氏3万1千石の城下町
		として栄えた。元禄の頃には、人口3700余りと奈良、郡山につぐ大きな町として発達した。大宇陀には片岡邸、笹岡邸など数
		百年を経た庄屋屋敷が残されており、重要文化財に指定されている。秋山城跡の麓にある森野旧薬園は今から230年ほど前に徳
		川幕府の採薬使、植村佐平次が紀和方面に来た時、森野さい郭が同行して宇陀、吉野地方を4ヶ月にわたって採薬した。幕府はそ
		の功により漢種草木の苗数十品を与え、以来森野薬園は幕府の補助機関として発展した。現在は人口11、000人余りの大宇陀
		町として、林業と農業を中心にした山村で、ご多分に漏れずやや過疎化の傾向にある。


 



万葉公園・人麻呂公園の先に大宇陀温泉がある。




大宇陀温泉あきののゆ


 




		歴史倶楽部の皆様へ
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		先日の例会で、殆どの人が、前回「あきのの湯」に入った覚えがないと仰っていましたので調べましたら、ちゃんと入っていまし
		たよ。HPの、前回の大宇陀散策の最後に、以下のように書いていました。今回のHP作成のために見直して知ったのですが、実
		は私も皆さんがあまり覚えがないと仰るので、「まてよ、風呂には入らずに引き返したんかな?」と自信が薄らいでいたところで
		した。

		「一日中雨の中を歩き回りうっとうしかったので、すべて脱ぎ捨てて入った温泉は最高だった。施設の正式な名称は「大宇陀町心
		の森、多世代交流プラザ」。入浴料金は800円。無色無臭でビックリするほどヌルヌルした湯だ。「泉温:34.11度、沸出量:
		日量230u、泉質:アルカリ性単純泉」と案内にある。売店やら食堂やら中にはいろんな施設があり、温泉の廻りにもいくつか
		建物が建っていた。下駄箱、ロッカー、貴重品ロッカーなど4つも5つも鍵をもったまま湯に入る。車でバスで、大勢の人がこの
		温泉に入りに来ていた。」

		河内さん、どうです、やっぱり入ってましたやろ。頭鍛えとかんと、そのうち夜中徘徊するようになりまっせ。

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		疲れていたので一目さんに風呂へ来たが、錦織さん、松田さんたちは前回こなかったので、じゃ帰りに寄っていこうと人麻呂公園
		に寄った。




		阿騎野・人麻呂公園」の人麻呂の騎馬像

		「かぎろひの丘・万葉公園」から南側へ下りると、「阿騎野・人麻呂公園」で、公園内に中山正實画伯の壁画「阿騎野の朝」をも
		とに製作された柿本人麻呂の騎馬像や、復元された掘立柱の建物等が建っている。平成7年の発掘調査により、この遺跡から掘立
		柱建物跡等が発掘され、この地に古代の狩(薬猟)場であった「阿騎野」の中心施設が置かれていたことが判明し、現在は遺跡公
		園として保存されている。



 




		推古19年(611)薬狩りをした記述が日本書紀にあり、男は鹿を狩って角をとり、女は薬草をつむ日本で最初の薬猟の里であった
		という。672年6月に壬申の乱が勃発すると、大海人皇子の一行は奈良県吉野町宮滝に所在した吉野宮を脱出し、宇陀の地を抜けて、
		美濃の不破にいたっている。





 

 



		また万葉集巻一に登場する、柿本人麻呂の詠んだ、

		「東(ひむかし)の 野にかき(ぎ)ろひの 立つ見えて かへりみすれば 月西渡(つき、かたぶ)きぬ」

		の舞台としても、ここ宇陀は有名である。軽皇子(かるのみこ:683〜707)が阿騎野で狩りをした際、供をした時に作ったとされ
		る歌であるが、柿本人麻呂は生没年は不詳である。しかし天武・持統・文武三代の天皇の御代に活躍した事から7世紀末から8世
		紀始めの人物とされている。軽皇子は後に文武天皇として即位する。草壁皇子の子で、聖武天皇の父である。14歳で即位し、24歳
		で崩御している。阿騎野は、現在の大宇陀町役場南西の一帯を言い、古代には阿騎の大野と呼ばれて大宮人の狩猟の地であった。
		ここは飛鳥から伊勢へ抜ける途中で、長谷寺や室生寺などの南にあたる。この歌の現代語訳は、「東方の山に朝の光が射すのが見
		え始め、振り返れば、月は西の山に沈みかけている。」というもので、雄大な光景を詠んでいるのだが、その美しい風光は1300年
		後の今も面影を伝えており、全国からこの「かぎろひ」を撮影しようと多くのカメラマン達が訪れている。「かぎろひ」とは、冬
		の日の朝、山の端に出てくる太陽光が、まるで炎のように赤く天空を照らす様をいうらしく、毎年12月にはここ宇陀町で「かぎ
		ろひを見る会」が盛大に催されている。人麻呂は、登り来る太陽に軽皇子(かるのみこ)の将来を、降りゆく月に持統の行き方を
		見ていたのかもしれない。

 







 


		なお、故中山正實画伯作の壁画「阿騎野の朝」は、「かぎろひの丘・万葉公園」東側の丘の下にある国道166号線沿いの、大宇
		陀町役場隣の「中央公民館」に所蔵され、一般公開されているそうだが、今回もまた見逃してしまった。

 

犬を連れて散歩しているお姉ちゃんを見つけ、戯れる犬好きなメンバー。犬と戯れたいのではないような人も。

 





大宇陀の「道の家」。ここから榛原や櫻井行きのバスが出ている。観光バスもここには必ず寄る。







榛原へ向かうバスの中。今日の温泉は気持ちよかった。橋本さんは元気が
戻ってきて、「もう一編、今日のコース歩こ思たら歩けまっせ。」なんて行ってる。

		神武天皇にゆかりの宇賀志は、大宇陀町ではなく菟田野町にある。谷の奥まった所に宇賀神社があり、兄宇迦斯が自らの罠にはま
		って死に、その流れる血があふれ出た事から「宇陀の血原」と名づけられたという血原橋も、宇賀志川にかかっている。ここも是
		非とも尋ねてみたい場所なので、「神武の歩いた宇陀の道」を極めるには、さらにもう一度訪れる必要がありそうだ。





		住民投票 大宇陀町 合併に賛成  2005.2.28 Yomiuri online
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		反対を上回る 市移行に弾み

		菟田野、榛原両町と室生村との合併の是非を問う大宇陀町の住民投票が二十七日行われた。賛否両派が激しい舌戦を繰り広げたが、
		即日開票の結果、合併賛成票が反対票を上回った。四町村の協議ではすでに、二〇〇六年一月一日に新市「宇陀市」への移行を確
		認しており、今回の結果を受け、合併特例法適用期限内での合意手続きを急ぐ。当日有権者は永住外国人五人を含む七千百八十九
		人で、投票率は66・28%だった。 
		町議会が住民団体の直接請求に基づく今月八日、住民投票条例案を可決したのを受け、それぞれ賛否両派の議員が中心となり住民
		グループを結成、運動を展開した。 
		賛成派は、町議OBや行財政に詳しい元町幹部職員らを動員。各地域でミニ集会を開き、町財政の危機と合併の必要性を訴え、じ
		りじりと支持を広げた。 
		町民が「合併」を選択した背景には「他町村から取り残される不安感」があるとみられる。今回の住民投票でも、その意識が票と
		なって表れた。 
		合併促進を訴えた「宇陀市を実現する会」の西岡清会長は「わずか二年足らずで町財政が行き詰まるという、危機感の訴えが理解
		された。今後、住民間のしこりが残らないよう配慮しながら四町村が団結して、これまでの協議で積み重ねてきた町づくり構想の
		実現に取り組んでほしい」と新市誕生に期待していた。 
		一方の反対派は、議会定数の削減や議員報酬のカットなど、具体的な財政改革案を示して訴えたが、票に結びつかなかった。「大
		宇陀町の未来を考える会」の藤本勝也会長は「性急な合併の動きを止め、時間をかけて町の将来を考えようとの訴えが認められず、
		残念な結果になった。力不足だった」と肩を落とした。 
		開票結果について、芳岡一夫町長は「この結果を受け、議会とも十分に協議しながら、今後の対応を考えていきたい」と話した。 

		<住民投票開票結果>  菟田野、榛原、室生と 

		合併賛成  2,527 
		合併反対  2,180  (選管確定) 



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