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豊臣秀次が開いた八幡山麓の城下町 2003.5.4



旧西川家住宅


	【重要文化財 旧西川家住宅】

	江戸時代の大商人・西川利右衛門の旧宅は、国の重要文化財に指定された商家である。築約300年経っている。利右衛門
	は屋号を大文字屋と称し、畳表や蚊帳を取り扱っていた。現在住居内は自由に見学でき、かっての近江商人の生活ぶりを偲
	ぶことが出来る。西河家は昭和の初めに子孫が絶え、現在この家は近江八幡市の所有となっている。今は市立資料館として
	一般公開されている。永原町通りや新町通りなどの市内に残る古い商家の町並みは、県下で初めて重要伝統的建造物群保存
	地区に指定された。その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた家々は、屋根に防火用の壁である「うだつ」をあ
	げている。豪商の邸宅では家を火災から守るために、屋根にうだつをあげた。西川家二代甚五郎(1582〜1675)は、
	八幡蚊帳の特色とされる萌黄蚊帳を創案した人物で、経済界で今も大きな役割を果たす西川産業(ふとんの西川)の祖でもあ
	る。その邸宅は内部は非公開だが、通りから見る外観に往時を偲ぶことができる。

  

 

 

 

 

 





 





 







郷土資料館


	【市立郷土資料館】

	郷土資料館は近江商人の代表的な人物である西村太郎右衛門の宅地跡にあり、かつては、近江八幡警察署の建物であった。
	外観を見るといかにも、という感じがする。館内には、市内の考古・民族・美術工芸、文書などの資料が展示されており、
	毎年春と秋には特別展が開催される。またこの郷土館の前の道が、いわゆる「朝鮮人街道」で、その資料も展示してある。 
 
	入館料 : 旧西川家住宅・歴史民俗資料館・郷土資料館の3館共通券
		  一般300円 小・中学生200円(30人以上で50円引き)
	開館時間: 9:00〜16:30(入館は16:00まで)
	休館日 : 月曜日(月曜が祝祭日の場合は開館) 祝日の翌日、年末年始
	電話番号: 0748−32−7048
	所在地 : 滋賀県近江八幡市新町2丁目 

 



 

 

 









 



 




	【近江八幡へのアクセス】

	★電車利用  新幹線京都駅からJR琵琶湖線米原方面行き乗り換え(新快速で約30分) 
	★新幹線   米原駅からJR琵琶湖線京都方面行き乗り換え(新快速で約20分) 
	★車利用   名神高速竜王インターから約15分、八日市インターから約20分 





朝鮮人街道

	5月連休の中日、滋賀県近江八幡市の朝鮮人街道へ行った。市立資料館の前にその道はあって、今片方は商店街へ続いてい
	る。京街道、浜街道とも呼ばれるが、街道そのものは狭い道である。こんな所を500人もが行列していたのかと、驚く。

 

上左が近江八幡市立歴史資料館。元はきっと公的な建物だったに違いないと思って受付の女の子に聞いたら、「警察署です。」

 


	江戸時代、江戸を中心に五街道が発達するが、その一つに中山道がある。江戸の板橋宿から近江国(滋賀県)の草津宿まで
	69次、516kmで、部分的に美濃路、木曽路とも呼ばれた。朝鮮通信使は京都から東海道を江戸へ向かい、草津から中山
	道へ入る。多くの朝鮮通信使は、往時に中山道を行き、復路に東海道を帰ってきたようで、その理由は琵琶湖を見たかった
	からだという。
	朝鮮通信使が日本訪問でいちばん見たがったのは、琵琶湖と富士山だそうだ。いずれも、朝鮮半島には同規模のものが存在
	しないからだろう。亨保年間(1719年)、第9回の通信使一行に混じって来日した、使節の製述官(筆談による外交担当)で
	ある「申維翰」の残した「海游録」には、雨にけむる琵琶湖の広さが描かれ、中国の洞庭湖とどちらが美しいだろうかと記
	録されている。



以下は近江八幡市立歴史館の「朝鮮通信使」関係資料。




	京都を出て草津より中山道へ入った一行は、守山で一泊した後、野洲町の行畑から中山道を離れて道を左にとった。これが
	いわゆる「朝鮮人街道」と呼ばれる道である。中山道よりもずっと湖岸に寄ったこの脇街道は、野洲町の行畑を起点に、近
	江八幡、安土、彦根を経由して、先の鳥居本でふたたび中山道と合流する。その間が41kmあり、特別に「朝鮮人街道」と
	名づけられて、現在でもかっての異国行列の面影を偲んで歩く人たちが絶えない。しかし41kmをまるまる1日では歩けな
	いのでガイドブック等を見ると2回に分けてあったり、途中で1泊したりのコースになっている。




	近江八幡では往路・復路ともに、正使・副使および主要な使節達が本願寺別院(金台寺)で、その他の随行員達は朝鮮人街
	道筋(京街道筋)の町屋の家々で昼食をとった事が記録されている。「宝暦十四申年正月朝鮮人来朝の節下行請取目録」と
	題した古記録には、献立以外に、使節随行員の数、部屋割り、接待した役人の名前などが詳細に記録されており、接待に使
	用する器に信楽焼一式を準備したと書かれている。数百人分である。まさに官民一体となった接待で、朝鮮通信使一行はこ
	ういう饗応を行く先々で受けており、それが8ケ月〜1年に渡って続くのである。一回の来日に掛かる総費用が百万両とい
	うのもうなずける。

 

 


	朝鮮通信使の日本滞在は、途中の行程も含んで長い時には1年以上に及んでいる。12回の来日で10回は江戸まで来てお
	り、その一行は全て同じようなコースを通っているのに、なぜ近江の琵琶湖畔を通る道だけを朝鮮人街道と呼ぶのだろうか。
	朝鮮人街道は、元々は安土城築城の時に資材を運ぶ道として、それまでの農道を繋げて拡げて作った道で、安土城ができて
	からは商人達が通る道になり、安土城炎上後は商人達が安土から八幡へ移って来て、宿も多く往来の多い道だった。
	徳川家康が上洛した時もここを通行したので、以後「吉例の道」となり、そのため朝鮮通信使の大行列を受入れる道に指定
	されたのだろうと思われる。この招聘が始まって、特に通信使通行のため新たに整備されたので、ことさら「朝鮮人街道」
	と呼んだのかもしれない。

 

 
	ガラス張りの陳列棚に収まる朝鮮通信使の瓦人形。寺社仏閣入り口の仁王を思わせる。
 
	
	朝鮮人街道はここから安土へとつづいている。通信使一行は荒涼とした安土城址を左手に見て、一路彦根へ向かった。




2004.7.31(土曜)台風10号通過の日






	<郷土資料館・歴史民俗資料館>
	近江商人の代表的な人物である西村太郎府右衛門の宅地跡にある郷土資料館には、市内の考古・民俗・美術工芸・文書など
	の資料が展示されている。八幡商人の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そのほか多くの民俗資料を公開展
	示している。裏庭には、民具・農具などが展示され、水郷地帯の農村の生活を知ることができる。 
 
 





 

 







 






















	<朝鮮人街道>
	近江は、湖国といわれるとともに、古来、道の国でもあった。京の都へ続く天下の要所であり、「近江を制す者は天下を制
	す」とまで言われた。近江八幡もまた、多くの道が交差する街道のまちだった。その中でも中心となったのが中山道と朝鮮
	人街道である。天正年間に織田信長が開いた脇(浜)街道を、関ヶ原の戦いで勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、
	天下支配の吉道とした。後に、朝鮮通信使が江戸へ向かう道となり、朝鮮人街道と呼ばれるようになった。1607年から
	1811年までの約200年間に、徳川将軍の代替りの際、慶賀のため朝鮮国王より派遣された通信使が通った。吉例の道
	を賓客の通行用に選んだと言われ、街道沿いの休憩所や宿舎には付近の文人たちが来訪し、筆談でもって文学や学問につい
	て語り合ったといわれる。この資料館の前の道が「朝鮮人街道」である。























朝鮮通信使は、各地でものすごい接待・饗応を受けているが、この御膳はどうだ、こりゃとても食い切れまい。







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