年 | 年齢 | 年表 | 廻りの情勢 |
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1835 天保6 | 1歳 | 11月15日郷士坂本長兵衛(のち八平と改める)直足の 次男として、高知城下本丁筋に誕生。 | 美濃で一揆。能代で打ち壊し起きる。 調所広郷による薩摩藩財政改革。 |
1846 弘化3 | 12歳 | この年、小高坂の楠山塾に入門。まもなく退塾。 | 米使節ビッドル浦賀に来航。 仏使節セシュ長崎に来航。英鑑那覇に来航。 |
1848 嘉永1 | 14歳 | 城下築屋敷の日根野弁治道場で、小栗流剣術を学ぶ。 | 佐久間象山、洋式大砲を鋳造。 外国船、対馬・津軽海峡をしきりに航行。 山之内容堂、土佐藩主となる。 |
1853 嘉永6 | 19歳 | 3月「小栗流和兵法事目録」一巻を伝授される。 剣術修行の為15ヶ月の國暇(くにいとま)を得て、 溝淵広之丞と江戸へ出立する。 | 浦賀に黒船来航。米のペリー提督、開国を迫る。 12代将軍家慶病死。家定13代将軍となる。 |
1854 安政1 | 20歳 | 6月江戸より帰国。河田小龍の記した、 ジョン万次郎の見聞録に啓発される。 | 幕府、日米和親条約を締結。 吉田松陰密航に失敗。下田で捕縛さる。 |
1858 安政5 | 24歳 | 1月千葉定吉より「北辰一刀流長刀兵法目録」を受ける。 | 13代将軍家定逝去。14代家茂が将軍に。 日米修好通商条約調印。 井伊直弼大老による安政の大獄始まる。 |
1859 安政6 | 25歳 | 一橋慶喜擁立派への大弾圧で 土佐藩主山之内容堂隠居させらる。 長崎、神奈川、函館3港開港。 | |
1860 万延1 | 26歳 | 井伊直弼大老桜田門外にて暗殺さる。 山之内容堂謹慎を解かれる。 | |
1861 文久1 | 27歳 | 8月武市半平太「土佐勤王党」を結成、 9月龍馬もこれに加盟。 | 露鑑対馬を占拠。英鑑対馬で露鑑に退去を要請。 露鑑対馬より退去。清河八郎浪士隊を結成。 |
1862 文久2 | 28歳 | 3月、沢村惣之丞とともに土佐を脱藩、下関へ。 4月、土佐勤王党、吉田東洋を暗殺。 10月、龍馬勝海舟の門下生となる。 | 将軍家茂皇女和宮と結婚。 水戸浪士、老中安藤信正を襲う。 生麦事件起きる。 |
1863 文久3 | 29歳 | 2月脱藩の罪を放免される。10月神戸の勝塾塾頭となる。 12月土佐藩よりの帰藩命令に応じず、再び脱藩。 | 徳川慶喜、将軍後見役として入京。 三条実美ら七卿落ち。薩英戦争起きる。 |
1864 元治1 | 30歳 | 勝海舟との関係で東奔西走。薩摩で西郷隆盛、 横井小楠らと会談。 | 神戸海軍操練所解散。勝海舟江戸へ召還。 幕府、第一次長州征伐。 米英仏蘭の連合艦隊、下関を砲撃。 |
1865 慶応1 | 31歳 | 5月長崎で「亀山社中」を設立。 この年、土方楠左衛門、三条実美、桂小五郎らに会う。 | 武市半平太切腹。長州、薩摩よりユニオン号購入。 (龍馬の世話) |
1866 慶応2 | 32歳 | 1月薩長同盟成立。伏見の寺田屋で幕吏に 襲われるが、無事脱出。お龍を伴い鹿児島へ旅行。 これが日本初の新婚旅行となる。 | 江戸・大阪など全国で一揆・打ち壊し続出。 幕府第二次長州征伐。幕府軍各地で惨敗。 将軍家茂大阪城にて逝去。徳川慶喜第15代将軍となる。 |
1867 慶応3 | 33歳 | ・4月脱藩の罪を再び放免される。 ・「亀山社中」を海援隊に改組し、隊長となる。 ・6月、後藤象二郎・長岡謙吉らと夕顔丸で長崎を出港。 船中で「船中八策」成る。薩摩土佐盟約を結ぶ。 ・7月英軍艦イカルス号の水夫殺害事件、9月の 英米人殺傷事件の処理に龍馬活躍。 ・9月、オランダ商人より銃1,300丁を購入、 内1,000丁を土佐藩に売却。 ・6年ぶりに実家に帰り、家族・同士と歓談。 ・10月、後藤と福岡、老中板倉伊賀の守 に大政奉還建白書を提出する。 ・11月15日京都近江屋で、中岡慎太郎と共に 刺客に襲われ悶死。 中岡は2日後に死亡。 | ・中岡慎太郎の仲介により、薩摩・土佐 (西郷隆盛・板垣退助)倒幕の密約を交わす。 ・いろは丸沈没事件起きる。紀州藩に軍配。 ・10月徳川慶喜山之内容堂よりの建白を受け、 大政奉還の決意を表明。上奏。同日薩摩・ 長州に倒幕の勅命降る。 ・12月王政復古令。同夜の小御所会議で、木戸・大久保・ 岩倉は、慶喜に辞官納地を命令。 ・全国に一揆発生。「ええじゃないか。」大流行。 |
1868 明治1 | ・鳥羽・伏見の戦い。慶喜征討の勅令が降り 慶喜大阪城から江戸へ逃走。 ・3月、新政府、「船中八策」を元にした 「五箇条の御誓文」を発表。 ・4月、江戸城開場。(西郷・勝会談) ・江戸を東京と改名。 ・榎本武揚・土方歳蔵ら軍艦を率いて函館へ脱出。 |
メンバー:服部・東江・平・井上 メンバーの一人東江(あがりえ)氏が探してきたツアーだったが、よくよく聞いてみると2泊3日の2泊とも船中泊 だった。つまり、大阪を夜出て土佐を夜出るわけで、ホテル旅館の類には一切お世話にならない旅だった。どうりで 安いわけだ。一体どんな旅になるのやら。
おっさん4人が船の中でする事といったらこれしかない。宴会ですよ、宴会! 大阪湾天保山波止場からフェリーが出てしばらくは大阪の夜景で盛り上がっていたが、その内夜景も見えなくなり どこがどこやら。真っ暗で海も見えず、後はただ飲むだけ。難波恋しぐれ、雨の御堂筋、大阪ラプソディーと、酔 うほどに飲むほどにアホなおっさんになってしまい、とうとうパーサーが様子を見に来た。一同揃って「すんまへ ん。」
坂本龍馬は、文久2年(1862年)3月、28才の時沢村惣之丞と共に土佐を脱藩、下関へ向かう。それからの話 は龍馬ファンなら言うまでもない。慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋で中岡慎太郎と共に暗殺され るまでの5年間は、まさに疾風怒濤と言っていいだろう。今回の旅は、龍馬が高知城下を抜け出し長浜から船に乗る までの、山越えルートの一部を実際に足で歩こうというもので、参加者はほぼ全員が龍馬ファンであった。若いアベ ックから、山歩き大丈夫かいな? というようなお爺さんまで約20名のツアーだ。 午前6時、船は高知港に入る。
朝6時すぎに高知港に着き、黒潮市場で朝食。朝一番の買い物をしてバスで一路佐川町まで向かう。途中龍馬の銅像 を見たり、買い物をしたりしながら川の内という所まで来る。ここから歩きで、約1時間で朽木峠、又約1時間で葉 山村という事だ。
先に土佐を脱藩していた沢村惣之丞が土佐へ戻って来て案内役となり、文久2年3月24日の夜龍馬は高知城下を出 奔する。その後、伊野、佐川、朽木峠を経て葉山村へ入った、というのが一般的。確かな足取りとしては、25日夕 刻、梼原町の那須俊平・伸吾邸に泊まったという記述が唯一伸吾の手紙にある。
佐川町から葉山村へ抜ける朽木峠には番所があり、龍馬もこの付近から葉山藩へ入ったと考えられている。葉山村では、 村の有志の方々から龍馬に関する話を聞かせて貰った。公民館で昼食をとりながら葉山村の面白い話を聞く。毎年龍馬 仮装トレッキング大会をやっているそうだ。つまり、龍馬にゆかりの格好をして、脱藩ルートを歩くのである。去年は、 龍馬とお龍さんの格好をした中年二人組が優勝したそうである。村の青年団の方々が製作した龍馬年表絵巻が欲しかっ た。
葉山村から四万十川源流地点までは迎えに来たバスで移動した。とても徒歩では移動できないスケジュールだったのだ。
四万十川源流碑のある所まではバスが入る。ここから又20分ほど歩くと源流らしき所に到達する。らしき、と言う のはもっと奥に水があるからなのだが、添乗員の話だと危ないので先には行けないと言う事だった。
龍馬がこの源流の水を飲んだかどうかは、定かでない。3月25日夜、龍馬と惣之丞は、勤王の志士那須俊平・伸吾宅 に1泊し、翌朝那須親子の道案内で宮野々番所から松が峠、韮が峠へと急峻な坂道を行き遂に脱藩。 那須親子の墓は今も梼原町にある。脱藩後、天誅組を率いて幕府軍と戦い、奈良で27才の生涯を閉じた吉村虎太郎の 生家・銅像も梼原街道沿いに佇んでいる。
幼くして母を亡くした龍馬は、乙女、千鶴、栄の3人の姉が母代わりとなって育てられたが、脱藩時龍馬に刀を渡した 事から姉の栄は自刃したと伝えられている。
上左は桂浜の夜。真っ暗で写真は写らなかったが、月の夜の桂浜海岸はなかなか情緒があった。帰りの船もどでかい 船で、夜高知を出航して、朝5時過ぎに大阪南港に到着した。