Music: across the universe
堺ウォーキング
2001.6.24(日)




		南宗寺(なんしゅうじ) 

		龍興山と称し臨済宗大徳寺派に属す。大永6年(1526)、京都大徳寺の住職古嶽宗旦が堺の一小院を南宗院と改称し
		たのが始まりと言われる。その後、弘治3年(1557)三好長慶が父の菩提を弔うため南宗院を移転して壮大な寺院を
		造営し、南宗寺とした。
		天正2年(1574)の松永久秀の乱、及び慶長20年(1615)の大坂夏の陣で焼失したが、元和5年(1619)、当時の住職
		沢庵和尚と堺奉行喜多見若狭守勝重により再建された。茶人・千利休が若いころ禅の修業をした寺で、境内には
		国の名勝指定枯山水の庭、利休遺愛の手水鉢、千家一門の供養塔、茶室実相庵などがある。 





 

 


			甘露門(山門)
	
			三間一戸楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で、禅宗様と和様の折衷様式になっており、棟札により、正保4年
			(1647)の建立であることがわかる。(下)
 

 

甘露門(上左)と鐘楼(上右)、鐘楼は焼失して明治の再建となっていた。

 

南宗寺境内には、また別の寺もある。境内にあるのか隣接して立っているのかよくわからないが、寺が密集している。

 





下左が千家一門の碑。中央に利休居士の碑。下右はなんと「徳川家康の墓」である。一堂揃って、「え、なんで」

 

 

本堂の縁側に腰掛けて、方丈枯山水の庭園を眺めるメンバー。(下)





 

		下は重要文化財の仏殿である。大雄宝殿とも言われ、方三間の主室の周囲に裳階をまわした方五間本瓦葺きの
		建物で、小規模ながら純粋な禅宗様仏殿である。棟札により、承応元年(1652)の建立とわかる。
		上はこの仏殿の天井に描かれた、狩野信政筆の「八方睨みの龍である。仏間の何処から見ても、自分を見ている
		ように見えるところからこう呼ばれる。
 


おい宏美! 何だその手は?



仏殿の前にて全員で記念撮影。暑かったねぇ−。朝は土砂降りだったのにねぇ。





堺奉行所跡

		歩いている途中にあった堺奉行所の跡。泉陽高校の西隣。堺に奉行所を置いていたのは信長であるが、以後、秀吉
		家康とその政策は続けられ、江戸時代には幕府直轄地として、旗本が総計64名堺奉行に任ぜられた。
		昭和19年までは堺市役所もここにあった。

 

何もない。道路の脇に短い石碑が立つのみ。黄金の、中世自治都市、「堺」を取り締まった役所も今は電信柱の影である。



堺の町「周濠」の跡



 




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