市街地の北、新宮(熊野)川を背にした高台にあり、東に河口をこえて太平洋を一望でき、沖見城とも称された平山城跡。 浅野家一代・
水野家十代と続いた新宮藩の居城である。城そのものは、17世紀初め、浅野氏の代に築造され始め、17世紀半ば、水野氏の代に完成をみた
ものであるが、明治8(1975)年に建物が全部取り払われて以来、城跡だけとなっている。
関ケ原役後は、徳川三百年御三家筋の家格を持った紀州徳川家付家老水野家三万五千石の城下町として、栄えた。現在では公園として整備
され、石塁の残る城址に立って新宮川を眺めれば、その眺望は実に素晴らしい。新宮駅から徒歩8分。
新宮市教育委員会社会教育課行、「発掘調査報告書・現地説明会資料」から抜粋
ツツジが雨に濡れて妖艶ですらある。この花ほど雨に似合う花はない。
1600年 安土桃山 関ヶ原の戦の後、浅野忠吉が新宮の領主となる(2万8000石余)
1619年 江戸 紀州に徳川頼宣が入国。新宮には付家老の水野重仲が入国。(3万5000石余)
1633年 この頃、丹鶴山の新宮城が完成する
1871年 明治 廃藩置県の令により、新宮藩を廃して新宮県を置く。 その後、新宮県は廃止され、
新宮川(熊野川)を境に和歌山県と度会県(三重県)に分けられた。
新宮領主 ・ 水野家
徳川家康のいとこ筋にあたるといわれる水野家は、 紀州藩の付家老で江戸に詰め、新宮領三万五千石を拝したが、熊野に産する木材、
木炭等を支配して繁栄し、 その実力は十万石以上であったといわれる。紀州特産の備長炭を江戸へ出荷し、江戸の年間消費量 100万俵中、
10 〜 30万俵の備長炭をまかなって、水野藩主は江戸で一時 “炭屋” とあだ名されていたと言われるが、近年の発掘調査により、新宮川
沿いに大掛かりな炭納屋群が発見されたことによってそれが裏付けられた。 この城は水野家の活発な経済活動の拠点になっていたのである。
幕末、 大老 ・ 井伊直弼と結んで暗躍、 幕政に権力をふるおうとした水野忠央(ただなか)は、博学でまた進取の気性に富み、水戸光圀の
「大日本史」 、 塙保己一の 「群書類從」 と並び称され、 校訂が厳密で版刻が精美なことで有名な 「丹鶴叢書」 171巻を刊行した。
また、洋式軍隊を編成し、 わが国ではきわめて早く洋式の船 「丹鶴丸」 を作ったことでも知られる。
与謝野寛の歌碑 (下左) 「高く立ち秋の熊野の海を見て誰ぞ涙すや城のゆふべに」
明治 39年 11月、 与謝野寛が (北原白秋、 吉井勇、 茅野蕭々を同伴して) 初めて新宮を訪れた時、詠んだ歌が刻まれている。
丹鶴姫の碑(上右)
保元の乱のとき崇徳上皇方に立って敗れ、 1156年 殺された 12世紀半ばの武将 ・ 源為義には新宮に2人の子がいた。 丹鶴姫と新宮十郎行家の
姉弟がそれで、 2人はお城山の南麓にもあった熊野別当の屋敷で育った。為義は、崇徳院の御幸警護で熊野に来た時に子をなした、と伝えられ、
二人は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の叔母、 叔父にあたる。丹鶴姫は別当 ・ 行範の妻となって、 その邸がここに(いまの新宮郵便局あたりか?)
あったことから、田鶴原の女房と呼ばれた。丹鶴姫にまつわる言い伝えについて、 佐藤春夫は 『わが生い立ち』 (1924年) の中でこう述べて
いる。
「丹鶴城主の姫君の丹鶴姫は子供が好きださうで、 夕方、 子供がひとりでそのあたりを通つてゐると、 緋の袴の姿で丘の上へ現れて来て扇で
子供をまねく。 招かれた子供は次の日の朝になると死んでゐるといふのである。 その丹鶴姫の使いが黒い兎で、 子供の通る道の前をひよいと
横切ることがある。 やつぱりそれを見た子供は死ななけりやならないともいふ。 黒い兎なら暗がりのなかでは見えないかも知れない。
自分の見ないつもりのうちに、 もしや黒い兎をみたのぢやないだらうか 私はそんな空想に怯えたこともあつた。 丹鶴姫といふのはどんな
人だか知らないが、 城山の向ふの丘には一つの小さな社があつて、 そこを皆が丹鶴姫の祠だと言つてゐる・・・・・・」
上右、下ともに「出丸」と呼ばれた、一種の見張り台のような建物の跡。この下の熊野川に面した小さな入り江に、「水の手」と呼ばれる、
領主水野家の財政を助けた、大規模な炭納屋群があった。沖見城ともいわれるのは、この出丸から熊野川を経て 海上へ至る交通の監視を行って
いた事による。
下図2枚は、上右の、新宮市教育委員会社会教育課が発行した「発掘調査報告書・現地説明会資料」から抜粋した。この城についてはあまり
詳細な情報が無いらしく、新宮市は市のHPで丹鶴城に関する情報提供を呼びかけている。
これを絶景と言わずして何をや絶景と言うか、まさにそんな光景。雨に煙る熊野川と、その背後の山並みは正(まさ)しく「幽玄」と言うほか無い。
上の写真の、最下段中央やや左寄りに、現在発掘中の炭納屋跡がある。現場に被(かぶ)された青いビニールシートが見える。現場を見ようと
降りていったのだが、ヤブと雑草で近寄れなかった。後で新宮歴史民俗資料館の人に聞いたが、「あぁ、あすこはちょっと普通の人は行けん
なぁ」との事だった。
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