Music: Please please me
第38回歴史倶楽部例会 南九州/神話・遺跡の旅 2000.9.14(木)〜 17(日) −宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡−





		【南九州 縄文・弥生・古墳の遺跡を訪ねて】 −日本神話の源流−
		今回の歴史倶楽部例会は、日本神話の源「日向」の古墳群と、「ニニギノ尊」が降(くだ)ってきたという「高千穂」を訪ね、最近
		発掘された鹿児島の二大遺跡、「上野原遺跡」と「水迫遺跡」を訪ねた。鹿児島では「橋牟礼川遺跡」も訪問し、大いに有意義な例
		会となったが、時間の関係から霧島・えびの高原の「霧島神社」並びに「高千穂の峰」を見逃したのは残念だった。宮崎県の「高千
		穂町」を訪問し「神楽」も見学したが、霧島に寄れなかったのはどうも片手落ちのような気がしてスッキリしない。再度訪れる機会
		があればいいのだが。
		
		【お断り:このHPの中で、西都原古墳群、上野原遺跡、橋牟礼川遺跡、水迫遺跡については「遺跡・旧蹟案内」からリンクされて
		います。従って、この旅行記のページへ戻ってくる場合には、ブラウザの「戻るボタン」を使用して下さい。】



		
		14日木曜日19:30分発、大阪南港タ−ミナルから宮崎港行きのフェリーに乗り込んだ、服部さん、栗本さん、河原さん、橋本さん、
		松田さん、井上の6人組。当初10名だった参加者は、一人欠け、二人欠けしてとうとう6人になってしまった。でも船も、飛行
		機も、車も、6人というのはすこぶる都合がよい。飛行機も6枚クーポンでいいし、車も10人乗りと6人乗りは値段が変わらず、
		10人乗りにゆったり座れた。船も6人1室のゆったりした部屋だった。どでかい船だった。出発前、南九州は台風14号の影響
		もあって大雨の予報がでていたので一同心配しながら向かったのだが、幸い、着いた1日目のみがパラパラの小雨で、後はカラリ
		と晴れた2日間で、一同口々に「何と善人ばかりなんだろう!」。実際、今回で38回目の例会であるが、雨にたたられたのは今
		回と、山辺の道を歩き出した30分間位である。いずれもパラパラの小振りで、我が倶楽部の活動はほんとに好天に恵まれている。



新会員橋本さんを真ん中にビールで乾杯。



みんな船の旅は久しぶりとあってウキウキ。夜中に甲板に登っては月を見たり、雨風をよけながら波を見たり。













		【宮崎神宮】
		宮崎市内のやや北方にあり、初代天皇「神武天皇」を祭神とする。神武天皇の両親、「ウガヤフキアエズの尊」(ウガヤフキアエズ:
		現代の WORD-PRO では打ち出せない文字を含んでいる。)と「玉依姫」(タマヨリヒメ)も同時に祀られているが、その由来は日本
		神話に言う「神武東征」の故事に依っている。以下「神社年鑑」による。

		<由緒沿革> 此の地は古史の所謂高千穂宮の霊地であって神武天皇の御遺跡である、社伝によると神武天皇の皇子神八井耳命の
		御子建磐竜命が筑紫の鎮守となられ此の地即ち神武天皇の都せられた跡に天皇の神霊を鎮祭し給うたのに創まると云う。建久八年
		(1197)地頭土持太郎信綱が社殿を造替し、文明五年(1473)伊東祐国は蓮ケ池、下北方の両地より社領を、更に永禄五年(1562)伊東
		義祐下北方及江平の地にて神地を奉献した。献進の事あり、次いで天正五年(1577)島津義久が米穀及び御祓料を献進、寛永二一年
		(1644)領主有馬康純が社殿造営を行った。武将の崇敬深い古社である。明治六年(1873)県社に列し宮埼神社と改称、次いで同八
		年(1875)国幣中社に、同一一年(1878)宮崎宮と改め、同一八年(1884)官幣大社に昇格した。大正二年(1913)宮崎神宮と改称
		す。(神社本庁別表神社) 



 

  
昭和天皇・皇后も宮崎神宮を訪れて参拝した。

 
  境内はクスノ木や松,杉にかこまれた宮崎神宮。社殿は狭野杉(さのすぎ)で造った流造り。


		
		地元では「神武さま」と呼ばれ親しまれているようだが、毎年秋には神武大祭も開かれ、この大祭は宮崎の秋に風物詩になっている
		そうである。
		天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に
		渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代
		史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっ
		ていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話
		そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、この後訪ねた「西都原
		(さいとばる)古墳群」を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここ
		にあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研
		究がなされてもいいような気もする。(こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったも
		のである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。)


		【宮崎県埋蔵文化財センター】
		宮崎県総合博物館が、たまたま今日(〜9月15日)まで「薫蒸」(くんじょう:「博物館めぐり」の吹田博物館を参照され
		たし。)期間で閉館中だった。う〜っ残念。廻りには県内の各地から移転された民家が点在していたが、その一角に宮崎県
		埋蔵文化財センターがあったので、そこを見学した。






		【平和公園】
		
		富国強兵・軍備増強・大東亜共栄圏の行き着いた果てが敗戦である。そんな戦時機運真たっだなかの昭和15年に、皇紀2,600
		年を記念して建てられた高さ37mの「平和の塔」がある。「八紘一宇」(はっこういちう)と書かれた文字は戦後いったん
		削られたが、また復活している。この文字そのものは「皇国支配」をイメージさせるものは無いが(あるという人もいる。)、
		戦時中に建てられたという事で、戦後一時削除されたのである。

 

 
平和の塔の下に行って中に入れないかと調べる松ちゃん。当然鍵が掛かっているのだが。このバチあたりめ。



		【ハニワ公園】
		塔の裏手には、木立に囲まれた苔むす広場があり、全国各地から出土した有名な埴輪を集めた「ハニワ園」がある。代史ファンなら
		一目みて何処のものかがわかるような埴輪ばかりだ。勿論、西都原古墳から出土した「子持ち家型埴輪」や「舟形埴輪]も当然ある。

 

 

 



		
		宮崎市を出て国道10号線を北上、一路西都市をめざす。ここの一大古墳群「西都原(さいとばる)古墳群」を見るのだ。途中、西都
		市の手前で昼食をとる。800円也で、大阪で食べたら3,000円はしそうな「昼の定食」。刺身、天ぷら、肉、アサリの味噌汁、茶碗蒸
		しまであった。感激したので、写真にとった。割烹のおばちゃんは、「2,000円の定食ならもっとすごいよ」と言ったが、いやいやもう
		これで十分とみんなの声。



西都市を出て北上し、いよいよ神話の里「高千穂町」を目指す。今夜の宿だ。








		北の高千穂から南の高千穂へは遠かった。えびの高原に寄っていたら「上野原遺跡」を見に行く時間がなくなりそうだったので、断腸
		の思いで、「高千穂峰」「霧島神社」「鹿児島神社」「隼人塚」等々は割愛した。うぅーん、残念無念。やはりスケジュール的に無理
		であったか。なんか南の高千穂にすまない気がする。でも「上野原遺跡」はみたいもんな、やっぱ。







		
		姶良郡の「サンピアあいら」を出て一路開聞岳をめざす。ここで池田湖の大ウナギを見て、今日は「橋牟礼川遺跡」「水迫遺跡」
		「鹿児島市内」から空港へという予定。今日で南九州の旅も終わりだ。




		
		指宿スカイラインの途中から見た開聞(かいもん)岳。その昔、高校2年生の時クラブの合宿でここに来た。山麓の開聞町公民館に
		1週間居た。その時知り合った1年後輩の女の子と、その後2年間ほど付き合った。昨年故郷でばったりあったらいいオバサンにな
		っていた。





		【鹿児島にて】
		松ちゃんは鹿児島大卒だ。「なつかしい」と言ってはあっちこっち鹿児島市内をうろうろした。時間もあまりないけど、と最後に立
		ち寄った、西郷隆盛終焉の地。西郷は「西南の役」に破れ、落ち延びてここまで来た。この洞窟で「晋どん、晋どん、もうここでよ
		か。」と割腹して果てた。涙が出そうな場所だ。





 
鹿児島空港から一路大阪伊丹空港へ。皆さんお疲れさまでした。誰かこの紀行を次回の会報誌に書いてね。


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