Music: beachboy




2004.7.31(土曜)台風10号通過の日


		<近江八幡市>
		滋賀県の琵琶湖畔は、太古から人々が住み着くには格好の土地だったようである。日本最大の湖、琵琶湖を
		かかえて、狩猟に漁猟に穀物栽培にと、縄文時代から開けていたことがわかる。縄文時代全般を通じて、琵
		琶湖の水位は絶えず変化していたようで、弥生時代になってもそれは続いていたようだ。現在湖底になって
		いる所からの遺跡、粟津遺跡や、大中の湖や宮ヶ浜などの湖辺部から縄文時代の遺物が、また各地から弥生
		時代の遺物が出土し、古墳も数多く発見されている。

		近江八幡は、大化の改新後の条里制の施行により、条は東西に走る線で区切られ北から順に、里は各条ごと
		に山手から湖岸へ向かって数えられ、現在も小字名にその名を残している。また、郷制が施行され各地に郷
		が出現する。律令制が衰退するにつれて数多くの庄園が現れ、中世には足利尊氏と楠木正成・新田義貞の戦
		場ともなるが、現在の近江八幡の基礎を気づいたのはなんと言っても豊臣秀次である。
		1585年、18歳にして近江43万石の領主に任ぜられた豊臣秀吉の甥・秀次は、信長亡き後の安土城下
		の民を近江八幡に移し城下町の建設を始めた。八幡山下町中へ13カ条の掟を下し、自由商業都市としての
		発展を目指して楽市楽座を施行、城の防御である八幡堀を琵琶湖とつなぎ、往来する船を寄港させるなど、
		秀次はわずか5年の八幡山城在城の間に、商いのまちとしての繁栄の基盤を築いたのである。
		しかし秀頼が生まれて秀次がうとましくなった秀吉は、秀次を高野山に蟄居させ、代わって京極高次が八幡
		山城に封ぜられるが、高野山での秀次自害によって八幡山城は廃城となった。
		若くして悲運の最期を遂げた秀次だが、近江八幡の開町の祖として今でも市民に慕われており、彼の町づく
		りにかけた情熱は、今日、八幡堀や町並み保存運動をはじめとする歴史を活かした近江八幡のまちづくりに
		受け継がれている。平成16年6月末現在の人口は、24,200世帯、68,658人である。

		私はここには二三度来たことがあるが、倶楽部のメンバーには行ったことがないという人がいたので、今回
		の例会は、水郷めぐりを楽しんで暑さを乗り切ろうという事になったが、数日前から台風10号が近畿を直
		撃しそうな勢いだったので、当日朝までその開催は危ぶまれた。





		私ははこれまでに、福岡の柳川堀めぐりや、島根松江城下の水郷めぐりなどを体験したことがあるが、ここ
		の水郷めぐりは最高である。エンジン付の船もあるが、絶対に手漕ぎ船に乗るべきだ。自然の葦原に覆われ
		た水路を行く1,2時間の旅は、これこそ「舟遊び」である。シラサギ、アオサギが宙に舞い、カイツブリ
		の親子が魚やザリガニを銜(くわ)えて船の周りに、水中からポコッと顔を出す。台風のせいばかりではな
		いと思うが、川風は気持ちが良く爽やかだった。途中5分ばかり猛烈な風雨に見舞われて、船頭さんも若干
		焦っていたが、幸いすぐに治まって事なきを得た。

		JR大阪駅に8:00集合して、新快速で1時間ちょっと。近江八幡駅前からバスに乗って「豊年橋」で降
		りる。約10分。10時過ぎに着いたらもう結構乗船客が集まっていた。




団体客は次々に出発してしまい、我々は予約しておいた弁当の到着を20分ばかり待たされた。(↑)

待合所の壁には船に乗った芸能人の写真がズラリ。京都に近いせいか時代劇の役者が多かった。(↓)











		船賃は一人1400円ちょっとなのに、弁当は2100円。これでも中クラスだ。800〜3500円のラ
		ンクがある。10時40分頃に出発したが、船が出るなり「もう食おうぜ!」
		朝からビールと特上幕の内で早くも気分は観光旅行。鮎の塩焼きと近江牛がうまかった!

 



短いコースの船が戻ってくる。我々は一周するので同じ水路は通らない。船着き場を
出てしばらくは、両岸に桜の木が植わっていて、春には見事な花の水路だそうである。





安土城の麓に西湖(さいこ)がある。あそこまで廻るコースは2時間コースだそうだ。我々は80分コース。

このあたりから船は葦の原を突き抜けて行く。





 



上右橋桁の石積みは、坂本の有名な石積み集団、「穴太衆」(あのうしゅう)が積んだものだそうである。











上をクリックして貰えば、大龍神附近のパノラマ写真が見れます。






		
		楽市楽座の自由商業主義のもと、活発に活動を続けた八幡商人たちは、秀次没後まもなく天領となった近江
		八幡の町から、天秤棒を肩に全国に活動を広げる。北は北海道から南ははるか安南(ベトナム)やシャム
		(タイ)まで進出し、当時まだ発展途上であった江戸にもいち早く店を出した。明治以降、社会が大きく変
		転する中で日本経済の近代化にも八幡商人をはじめとする近江商人たちが大きく貢献した。彼らは、買い手
		よし、売り手よし、世間よし、という三方よしの理念を商売の基本とし、自らの利益のみを追求することな
		く、社会事業に大きく寄与した。

 


		<日牟礼八幡宮>
		八幡山の南麓に建つ旧八幡町の総社で、近江商人の信仰を集めていた。江戸初期に海外貿易で活躍した西村
		太郎右衛門が寄進した「安南渡海船額」(重要文化財)が納められている。
		社の由緒書きによれば、
		「31年、第13代成務天皇が高穴穂の宮に即位の折に、武内宿禰に命じ、現在のこの地に大嶋大神(地主
		神)を祀られたのが、社の鎮座の始めとされています。
		應神天皇6(275)年、天皇が近江に行幸されました。その際奥津島神社に参詣され、還幸の折に宇津野
		々辺(社の近辺と見られる)にて御少憩になり、当地に御座所が設けられました。年を経た後、その御仮屋
		跡に日輪の形を2つ見るとの奇端があり、祠を建てて「日群之社八幡宮」と名付けられました。持統天皇5
		(691)年には藤原不比等が参拝し、詠んだ和歌に因んで比牟礼社と改められた旨も伝えられています。
		そもそも日牟礼社の社名は、日觸の転とする説があり、和珥・日觸使主に由来します。日觸使主を始めとす
		る和珥氏は、應神天皇に深い縁故を有し、同族の櫟井氏とともに江州(=現在の滋賀県地方)土着の氏族で
		す。古来わが国の各地に分布していた氏族の多くは、その祖神あるいは紙祇を奉祀していました。この一般
		例に鑑みると、当社は同族の人びとがその祖神を祀る斎場に、縁故深い八幡大神を合祀したものと考えられ
		ます。」とある。

 

 








		<八幡山と八幡山城址>
		鶴が羽を広げたような姿に見えることから鶴翼山とも呼ばれる八幡山。1585年、この山に築かれた八幡
		山城は秀次の没後まもなく廃城となり、当時を物語るものは、石垣のみとなっている。

 

 


		<村雲御所瑞龍寺>
		八幡山城本丸跡にある日蓮宗唯一の門跡寺院。1596年、秀次の生母・瑞龍院日秀尼が、秀次の菩提を弔
		うため、後陽成天皇から京都の村雲の地と、瑞龍寺の寺号を賜り、その地に村雲御所を創建した。昭和37
		年、京都よりその主用建物が八幡山に移築された。秀次ゆかりのこの場所へ移されたのである。門跡は現在
		十三世日鳳尼公。

 


		豊臣秀次(1568〜1595)

		豊臣秀吉の姉・ともの子。秀吉の養子となり関白職を継ぐが、後に秀頼が生まれ、秀吉により自害させられ
		た。八幡山山麓の八幡公園には開町の祖・秀次の銅像が建てられている。 
		18歳で八幡山城を築き、「八幡山下町掟書」を公布し第一条に織田信長の安土のように、楽市楽座を定め、
		自由商業の町にした。琵琶湖をわたる湖上交通に目をつけて、八幡堀と琵琶湖を結び町の発展を生み出した。
		秀次がこの町にいたのは5年だったが、町民本位のまちづくりが大きな遺産となり、八幡商人の発展の足が
		かりとなった。秀次は、おじの秀吉に高野山青厳寺で切腹させられ、一族は京の三条河原で皆殺しにされた。
		太閣記などの歴史物語では、殺生関白、役立たずなど、悪人として描かれているが、本当に秀次は悪人だっ
		たのだろうか? 秀次が抹殺された後は、八幡山城を含め、すべてのものが消えていった。そしてそのこと
		で秀吉は、自分自身と豊臣家をも滅ぼしたのだろうと思われる。


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		戦国時代、織田信長に小物(こもの)として仕えた木下藤吉郎は、貧しい農村の生まれながら、持ち前の頭の
		良さと行動力でみるみるうちに出世した。治兵衛(じへえ:後の豊臣秀次)は、尾張の国の大高村(名古屋
		市)の農村に生まれ、秀吉の姉「とも」の子で、秀吉は叔父にあたる。秀吉は世継ぎがなかったため、宮部
		継潤に養子(人質)を出さなくてはならなくなった時、治兵衛を養子に出した。四国の三好康長のもとにも
		養子に出され、まもなく秀吉の跡継ぎとして彼の養子になり、羽柴孫七郎秀次と名前を改めた。
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		「本能寺の変」の時秀吉は岡山にいたが、ただちに秀次と共に引き返し、明智光秀を討ち天下取りにのり出
		した。秀次は秀吉軍の半分をまかされて、伊勢の滝川軍、亀山城・越前の柴田軍、北之庄城を攻め勝利を治
		め、秀吉に戦功をみとめられる。1584年3月、徳川家康・織田信雄連合軍攻撃の総大将を秀吉から任命される
		が、しかし、失敗し大垣城で謹慎を命じられる。
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		ほとばりがさめてようやく許しを得た秀次は、根来衆を討つため秀長(秀吉の弟、秀次の叔父)とともに紀
		州(和歌山)に向かい、大勝利を収めた。また、雑賀一揆・四国の長宗我部元親攻めにも勝利した。
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		1585年8月、秀吉が関白となり、勢力と名声を手中にする。秀吉は、秀次に近江の国・神崎・蒲生・野洲43
		万石を与え、八幡城の建設がはじまった。 縦12筋、横4筋(一部6筋)の町は、職人町、商人町、仲介
		商人町などと筋々を決めて整然とした碁盤の目状に整えられた。通常この時代の城下町は、戦さに備えて町
		を迷路化するのが普通だが秀次はそれをせず、水陸の交通を利用するものはすべて八幡の町に入ることを定
		め、近江八幡には多くの人々が立ち寄り、色々な物資や情報が集まるようになった。また、街の周囲に神社
		を配置し、塀を高くして戦争時には砦になるよう作られた。1585年10月 、八幡城下町がほぼ完成し、秀次
		は八幡山下町中掟書十三カ条を出した。
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		1590年、秀次が慕っていた秀長が死に、2年後朝鮮侵略(文禄の役)がはじまった。7月大政所(秀次の祖母)
		が亡くなり、9月朝鮮に出兵した秀次の弟、小吉秀勝が戦死する。秀次が朝鮮侵略を反対しても秀吉は聞き
		入れない。1594年4月、秀吉と淀殿の間に拾(ひろい:秀頼)が生まれた。秀吉はわが子をかわいがるあまり、
		秀次に関白を譲ったことを悔い始める。秀吉の秀次に対する態度が目に見えて変わっていった。
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		1595年6月、ポルトガルの宣教師が聚楽第を訪れる。宣教師の豊臣の跡継ぎについての質問に、秀次は「世
		継ぎは私だ」と答えたことが曲解され、秀吉より詰問状が届く。「宣教師に拾が実の子ではない、と言った
		のか」などといわれのない内容にすぐさま秀次は手紙を返すが、秀吉は読まずに破り捨てた。
		1595年7月8日、聚楽第は秀吉に完全に包囲され、秀次は秀吉に呼ばれ伏見城へ向かうが、しかし秀吉は秀次
		を城に入れず、待つこと4時間、秀吉より「豊臣家追放・関白取り上げ・聚楽第取り上げ・尾張、伊勢百万
		石召し上げ・紀州高野山入り」の命令が下りた。高野山入りは、二度と下山できないということを意味して
		いた。7月12日、秀次は高野山へ向かい、そして3日後、秀吉より切腹の命令が出る。
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		7月15日、高野山の金剛峰寺にて豊臣秀次切腹。
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		1595年8月2日、秀吉は、秀次の側室・乳母・子ら49名全員を京都三条河原で処刑した。その中には数日前
		に輿入りした姫も含まれていた。幼い子らは、槍で串刺しにされた。後年、高瀬川を掘削していた角倉了以
		が、三条河原に転がるおびただしい白骨を集めて、そこに「瑞泉寺」を建てた。
		実父・一路浄閑は讃岐(香川県)へ流罪、母ともは尼になり、1595年京都の村雲に瑞龍寺を建て、一族を弔
		らった。
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		1598年、秀吉、伏見城で病死。
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クリックして貰えれば山上からの大パノラマ写真が御覧になれます。






		<八幡堀遊歩道>
		かつて湖上交通の要所であった八幡堀も、桜や花菖蒲が植えられ、市民や観光客の憩いのプロムナードとなっ
		ている。季節ごとに変わる岸辺の光景を楽しみながら、のんびりと往時の風情を感じることができる。秀次が
		八幡山のふもとに城下町を開いたとき、当時の交通幹線であった琵琶湖を往来する荷船をすべて八幡に寄港さ
		せるために設けられた運河が八幡堀である。かつて帆を立てた商船が往来し、商人らの熱気に満ちあふれてい
		た。そんな八幡堀も一時期は荒れ果て埋め立ての計画まで進められていたが、青年会議所を始めとする地元有
		志の運動により、ようやく今日の姿を取り戻すまでに至り、現在では、町の代表的な観光名所として位置づけ
		られ、時代劇は年間30本以上のロケが行われているという。

 



ヴォーリズに花(傘?)をささげるチセちゃん。






		<郷土資料館・歴史民俗資料館>
		近江商人の代表的な人物である西村太郎府右衛門の宅地跡にある郷土資料館には、市内の考古・民俗・美術
		工芸・文書などの資料が展示されている。八幡商人の往時をしのぶ帳場風景や生活様式をそのまま残し、そ
		のほか多くの民俗資料を公開展示している。裏庭には、民具・農具などが展示され、水郷地帯の農村の生活
		を知ることができる。 
 
		<重要文化財 旧西川家住宅>
		江戸時代の大商人・西川利右衛門の旧宅は、国の重要文化財に指定された商家である。利右衛門は屋号を大
		文字屋と称し、畳表や蚊帳を取り扱っていた。今は市立資料館として一般公開されている。永原町通りや新
		町通りなどの市内に残る古い商家の町並みは、県下で初めて重要伝統的建造物群保存地区に指定された。
		その新町通りの江戸末期から明治にかけて建てられた家々は、屋根に防火用の壁である「うだつ」をあげて
		いる。豪商の邸宅では家を火災から守るために、屋根にうだつを」あげた。
		西川家二代甚五郎(1582〜1675)は、八幡蚊帳の特色とされる萌黄蚊帳を創案した人物で、経済界
		で今も大きな役割を果たす西川産業(ふとんの西川)の祖でもある。その邸宅は内部は非公開だが、通りから
		見る外観に往時を偲ぶことができる。

 





 

 







 






















		<朝鮮人街道>
		近江は、湖国といわれるとともに、古来、道の国でもあった。京の都へ続く天下の要所であり、「近江を制
		す者は天下を制す」とまで言われた。近江八幡もまた、多くの道が交差する街道のまちだった。その中でも
		中心となったのが中山道と朝鮮人街道である。天正年間に織田信長が開いた脇(浜)街道を、関ヶ原の戦い
		で勝利をおさめた徳川家康が京都上洛時に用い、天下支配の吉道とした。後に、朝鮮通信使が江戸へ向かう
		道となり、朝鮮人街道と呼ばれるようになった。1607年から1811年までの約200年間に、徳川将
		軍の代替りの際、慶賀のため朝鮮国王より派遣された通信使が通った。吉例の道を賓客の通行用に選んだと
		言われ、街道沿いの休憩所や宿舎には付近の文人たちが来訪し、筆談でもって文学や学問について語り合っ
		たといわれる。この資料館の前の道が「朝鮮人街道」である。























朝鮮通信使は、各地でものすごい接待・饗応を受けているが、この御膳はどうだ、こりゃとても食い切れまい。





雨も降り出して少々疲れてきたので、酒蔵を改良したレストラン喫茶に入った。









 


		キリスト教伝道のため1905年(明治38年)に来日したウィリアム・メレル・ヴォーリズは、全国で教会や学
		校、ホテルなど1600件にものぼる建物を設計した。その活動分野は幅広く、建築から医療、教育、社会事業
		までおよび、近江兄弟社を設立して販売したメンソレータム(現メンターム)は全国的に有名。
		終生近江八幡に住み、後にはアメリカから親兄弟をも呼び寄せ、一族で近江八幡に移り住んだ。
		昭和32年(1957)8月、軽井沢でクモ膜下出血のため倒れ、近江八幡の自宅に帰り療養生活に入るが、昭
		和39年5月8日、7年間の無言の病床生活のまま昇天した。5月16日、近江八幡市民葬と、近江兄弟社
		葬との合同葬となり、遺骨は恒春園に眠る。正五位勲三等瑞宝章を受ける。

 

上下はいずれもヴォーリズが設計した教会や郵便局。この町は、古くからの商人の家と西洋建築が、ほどよくマッチする。




		<ヴォーリズ記念館>
		伝道や建築、医療、教育、社会事業と幅広い分野で活躍した近江八幡市の名誉市民第1号「ウイリアム・メ
		レル・ヴォーリズ氏」の記念館。彼が生前に生活していた住宅で、彼の建築精神を見ることができる。
		市内に点在する洋風建築物の多くは彼の設計によるもの。内部では遺品や資料を展示しているが、見学には
		予約が必要。

 




		彼の偉業は、なし得たさまざまな事業や社会福祉活動にも勿論あるが、深い感銘を受けるのは、遠くアメリ
		カから渡ってきて、一族を挙げて近江八幡に尽くしたその社会愛であろう。何の事業を興しても、自らは報
		酬・財産はビタ一文受け取らず、貰っていればおそらくは手にしていたであろう膨大な資産は、全て近江八
		幡市民のために使われたのである。名誉市民第1号はもっともだ。






		<アートギャラリー NO-MA>
		錦織さんの娘さんが働いているギャラリーが近江八幡にあった。驚いてしまった。錦織さんが「帰りに一寸
		寄りたいところがあるんだけど・・・」と云うので聞いてみると、なんと娘さんが近江八幡で働いていると
		云う。これまた町屋を改造して作った変わった美術館だ。なかなか高尚そうな作品が並んでいた。

 

 

 

 

 

 



 

 


		今回は、上右の「近江八幡ワンデーパスポート」という一日クーポン券を利用してまわった。JRの往復券
		に、ロープウェイや各資料館の入場券などがセットになったクーポンだが、市内移動のバス料金も無料とあ
		ったのはいいが、路線によっては一日2,3便しかバスが来ないルートもあって、「これで乗り放題言われ
		てもなぁ。」





邪馬台国大研究/歴史倶楽部ホームページ/ 水郷めぐり・近江八幡