Music: Unchained Melody
大阪府泉南郡岬町・淡輪
2002.2.10(日曜) 郷土の文化財を見学する会







	平成14年2月10日(日曜日)大阪は岬町の淡輪(たんのわ)へ古墳巡りに行った。平成13年度の「郷土の文化財を見学
	する会」としての活動は本日で終了となる。4月からまた14年度が始まる。今回は栗本さんと服部さんを誘って参加した。
	他にも何人か声をかけたのだが、3連休の中日だからか誰も来なかった。
	岬町の中心地は深日(ふけ)地区だそうだが、ここは遊園地の「みさき公園」と「みさきゴルフ場」が有名で、釣りファンに
	は良好な漁場でもある。深日港、淡輪港も健在である。
	淡輪(たんのわ)という地名は、私は初めて知った。岬町は知っていたが、ここにこんな大きな古墳群があったとは。岬町の
	文化財として各地区に寺社等はいくつかあるのだが、古代の遺跡はほぼこの淡輪地区に集中している。地図をごらんいただけ
	ばわかるが、岬町は、紀ノ川を挟んで和歌山県と接している。川を渡ればもう和歌山市である。そのため古墳の被葬者も「紀」
	氏とゆかりの人物ではないかと推測されることが多いようだ。
	今回訪問した中での2大古墳、すなわち「宇度墓古墳」と「西陵古墳」は、いずれも大きさで河内や奈良の大王墓にも匹敵す
	るもので、「どうしてこんな所に?」というのが正直な感想だった。




	上の写真を見ると、渡来人達が海からやってきてまず海岸縁に居を構え、そこに覇を唱えたのがよくわかる。朝鮮半島からの
	渡来人達は、瀬戸内海を東進し、大阪湾岸南部、泉南部、そして紀州北部へと根付いていったのだ。あの山の向こう側には大
	谷古墳があり、そのずっと南には広大な山肌におびただしい数で造られた岩橋千塚(いわせせんづか)古墳群がある。いずれ
	も朝鮮半島からの渡来を窺わせる出土品が出ている。大谷古墳の馬兜は、昨年秋釜山の福泉洞古墳で見たものとそっくり同じ
	ものであるし、宇度墓古墳が、ほんとに垂仁天皇の皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の墓だとすれば、古事記
	・日本書紀にかかれた古代天皇達の物語は、その多くが渡来人達の物語なのではないだろうか。



淡輪ニサンザイ古墳(宇度墓古墳)


 

	宇度墓古墳1号陪冢(上右)
	淡輪駅北側に隣接する2段築成の円墳で、高さ9m前後を測る。南側に周濠の跡が見受けられる。

 




	
	宇度墓(うどはか)古墳
	南海本線「淡輪駅」より徒歩5分。番川の形成する沖積平野の傾斜面に位置し、全長200m・前方部幅120m・後円部経110mを測
	る3段築成の前方後円墳で、5世紀後期の築造とされている。南側くびれ部に方形の造りだしを持ち、本来北側にもあったと
	推定される。
	別名淡輪ニサンザイ古墳とも呼ばれ、垂仁天皇第2皇子五十瓊敷入彦命(いにしきりひこのみこと)の陵墓とされ、宮内庁の
	管轄下にある「陵墓参考地」である。
	周濠には満々と水を蓄え、堂々たる前方後円墳だ。周濠は盾形で外堤がめぐり、南側では浅い外堀の存在が確認されている。
	周濠の外側に、後円部を取り囲むように7基の円墳と方墳の陪冢が巡っており、これらの内の1基から刀剣が発見されたと伝
	えられるほか、埴輪の散布もみられるが、内部構造や副葬品はほとんど解っていない。この古墳は西陵古墳に続いて築造され
	たと考えられ、被葬者は紀伊を本貫地とする人物が葬られているのではないかと想定されている。







 


	宇度墓古墳2号陪冢(上)
	南海電車南側に位置し、墳丘の下部は急な傾斜で、葺石が露出している。

 


	宇度墓古墳3号陪冢(上右)
	宇度墓古墳後円部の真東に位置し、この古墳も葺石が露出している。周囲が削られて小さくなって方墳状になっているが、
	元々は円墳だったようだ。


	宇度墓古墳4号陪冢(上左、下)
	この古墳も元々のものから削られて、南北に長い形状を示しており本来の形状は不明である。






	宇度墓古墳5号陪冢(上、下右)
	4号陪冢の南西に位置していて、道路を隔てて残存する。墳丘は2段築成で高さ5.4mを測る。昔この塚を掘り、中から剣等
	を出土したが、祟りがあったので再び元の所に埋め戻したという伝承がある。


	宇度墓古墳6号陪冢(下左)
	5号陪冢の南側にあって、地元では小山と呼ばれている。早くから開墾されたため高さ1.5mほどが残存している。もう一つ
	の陪冢らしきものは、5号陪冢のやや離れた南側にあって、わずかに墳丘の残骸らしきものが残っているのみである。











鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群


 

	鴻ノ巣山(こうのすやま)古墳群(上右の立杭に「鴻ノ巣山一號墳」と書いてある。)

	この古墳群は番川の右岸、淡輪遺跡の背後、鴻ノ巣山丘陵尾根筋にある。2つの尾根筋の北側の尾根に4基、南側尾根に5
	基の計9基の、経8m〜10mの円墳からなる。1970年の大阪府教育委員会の調査によって4基の古墳が調査され、横穴式石室
	を持っていることが確認されている。1号憤の石室は、玄室長2.5m、玄室幅1.4〜1.5m、玄門幅0.95m、羨道幅1.2m、羨道長
	1mを測る。玄門の石材を内側に突出される構造は、8号、9号憤にも見られ、閾石(シキイいし)の使用が9号憤に見られ、
	これらは紀ノ川流域の影響が窺える。また1号憤の天井はアーチ型になっており、須恵器・土師器・金銅環・滑石製紡錘車
	などを出土している。
	6世紀後葉に築造が始まり、7世紀前葉には使用されなくなったらしい。現在、復元された石室が残り、1976年に大阪府指
	定の史跡になっている。

  





 






	淡輪遺跡
	淡輪地域で縄文時代後期の遺物が出土したのが、この地方における最古の遺跡である。淡輪で一番広い平野部の中央を流れ
	る番川の右岸にこの遺跡は存在している。1970年にサヌカイト製石鏃が発見されて以降、現在までに縄文式土器、弥生式土
	器、土師器、須恵器、埴輪、瓦器、陶器などの破片とともに、石鏃、石錘、石槍、石包丁などサヌカイト製石器類が約 500
	点発見されている。
	現在はこれらの遺跡の上には民家や建物が建ち並び、ここが淡輪遺跡だということを示す看板も案内もない。言われなけれ
	ば、そんな昔の人々が暮らしていた場所だと言うことはわからない。当日配布の資料には、詳しい発掘経過や各調査区域ご
	との出土物についての詳細が記されているが、それは割愛する。
	
	この遺跡は1969年石鏃の発見によって遺跡として認識されて、1970年の電電公社淡輪電話中継所敷地内の調査で、溝や弥生
	式土器が発見されています。1976年には住宅建設に伴う調査が行われて、溝状遺構と多量の縄文式土器が発見されています。
	この遺跡の範囲は、西側は番川まで、南側は山麓にある鴻ノ巣山古墳群の所在する丘陵の縁辺まで、北側は宇土墓まで広が
	っていないがその周辺までと理解されています。縄文時代から弥生時代にかけての遺跡と認識されています。そして以後の
	土師器、須恵器、埴輪、瓦器などが出土していることから、長期にわたる遺跡と考えられています。(以下略:当日配布の
	資料より)
	
	以下、建物・住居の建ち並ぶその下が「淡輪遺跡」である。










	宇土墓古墳とその陪冢、鴻ノ巣山古墳群、淡輪遺跡を見て、宇土墓古墳の前方部へ来た。ここを通って岬町淡輪公民館へ行
	く。ここもきっちり「宮内庁」が管理している。天皇は今125代目なのに、「陵墓参考地」として宮内庁が管轄下に置い
	ている古墳は 500近くになる。もしかするとここ(陵墓参考地)が天皇陵かもしらんから、皆の者触ってはいかんぞ! と
	言う訳だ。

 

 



 
	あたご山
	海を望む丘陵地に、5万本のツツジと800本の桜が植えられている。4月には桜が、4月下旬から5月上旬にはツツジの満開
	時期を迎える。この山の麓にある「岬町淡輪公民館」(上左)を借用しての昼食となった。





	西小山(にしこやま)古墳
	この古墳も尾根筋の先端部分を利用して築造された、経40〜50m、高さ5mの円憤と言うことになっているが、現状はとても古
	墳には見えない。北西部に造りだしを持っていて、 周濠を持っていた可能性もあるとのことだが、今の現場は材木置き場の
	ようなただの空き地である。どう見ても古墳ではない。 相当ほったらかしにされていたものと思われる。過去の調査も含め
	た資料によれば以下のようになる。
 

	
	この古墳は葺石を持ち、円筒埴輪、朝顔形埴輪、蓋(きぬがさ)形埴輪とともに、陶質土器と考えられる長頸壺、須恵器の
	器台、瓶の破片が出土しています。また埴輪には須恵器に見られる製作技法がみられます。1930年に末永雅雄が発掘調査を
	行い、1980年に大阪府教育委員会が憤丘の調査を行っています。石室内部は和泉砂岩の扁平な割石で築かれた長さ3.3m、幅
	0.7m、高さ 0.76mの竪穴式石室でした。側壁は上部へ行くに従い内側へ傾斜し、石室底面には河原石の厚いものを敷き、天
	井には花崗岩の扁平な6枚の大石を乗せています。出土品には、金銅装堅矧細板鋲留眉庇付冑1、三角板鋲留短甲1、三角
	板横矧板併用鋲留短甲1、頸甲・肩甲1組、桂甲小札800余、篠籠手小札、鉄刀33以上、鉄鉾2、鉄鏃107、絞具1、異形鉄製
	品・不明鉄製品、滑石製勾玉16個が出土しています。
	被葬者は遺骨を全く残していませんでしたが、石室内中央に安置されていたものと思われます。副葬品の大半が武器・武具
	類で占められ、古鏡が全く見られず、玉類が少ないことが特徴です。5世紀中葉から後葉にかけて築造されたと見られる、
	泉南地方の代表的な古墳時代中期の古墳です。(以下略:当日配布の資料より)







	
	西小山古墳から海側を見る(上)。右が宇土墓古墳で、左が西陵古墳である。ここは2つの古墳のちょうど真ん中に位置し
	ている。


	国道からこの古墳を見たところ(下)。平坦にならされてとてもここが古墳だとは思えない。









西陵古墳群


 




	西陵(さいりょう)古墳
	南海本線「みさき公園駅」から徒歩15分。この古墳は、淡輪平野に突出した尾根を利用して築造されており、全長210m・
	前方部幅100m・後円部経115mを測る。岬町のみならず泉南部でも最大の前方後円墳で、葺石・円筒埴輪列の存在が知られて
	いる。
	3段築成で、西側くびれ部に方形造りだしを持ち、周囲には盾形の周濠を持つが溜池と利用されてきたため現在では変形し
	てしまっている。1921年に、後円部墳頂から凝灰岩製長持ち形石棺の蓋石が出土し、周囲に砂岩の石材がみられることから、
	竪穴式石室内に凝灰岩製長持形石棺を納めた構造と推測されている。この石棺の位置は後円部憤頂西側に偏ったところに、
	主軸を南北方向に置いて、憤丘主軸と少し異なっている。露出した石蓋の長さが約2.35mをはかり、周囲からわずかに板石
	が認められていることから、竪穴式石室に長持形石棺が安置されていたと推測されるが、確認はされていない。
	憤頂部から円筒・鰭付き円筒埴輪がでて、形象埴輪では蓋形、盾形が多数採取されている。この古墳は5世紀前葉から中葉
	に築造されたと推測でき、1921年に国史跡に指定されている。



 


	前方部から後円部へと古墳に登る。鬱蒼とした木々で歩くのも難儀するほどだ。全く植物という奴の繁殖力には恐れ入る。
	歩いていく途中、大小の礫(れき)がごろごろしている(下左)。築造時の葺石だ。そこらじゅうに散らばっている。

 


	「日本書紀」雄略天皇九年三月の条に、雄略天皇の命により朝鮮半島で新羅を攻める際、病没した紀小弓宿弥が「田身輪村」
	に葬られたとあることから紀小弓の墓と伝えられているが、「朝野群載」に記載があることと、淡輪集落内に船守神社があ
	ることから、紀船守の墓という説もある。

 




	上の、礫で囲まれた一画が「造りだし」である。築造時にはもちろんこれらの木々は生えてなく、葬送者の為の儀式が執り
	行われたことだろう。

 












	真鍋山(まなべやま)古墳(上)
	この古墳は、西陵古墳を築造した同じ尾根上にあって、直径40mの周濠を持つ円墳である。1971年に大阪府教育委員会によっ
	て調査が実施され、憤丘直下に横穴式石室があることが判明している。古墳時代後期の築造とみられる。工事現場の隅にあり、
	古墳はぼろぼろで今はもう登れないそうで、歩きながら見てとおるだけ。



白峠山古墳


 


	この古墳は、独立丘陵の頂部を利用した経 20mの円墳だが、頂部に国民宿舎「みさき荘」が建っていて、古墳は頂上部だけ
	を残して崖状に削られてしまっている。山頂には展望台が作られ、その直下に石室が現存している。上右はその展望台から
	の眺め。大阪湾に関空が浮かんでいる。



	白峠山(しらとやま)古墳
	石室は和泉砂岩の割石を用いた横穴式石室で、全長6m、玄室長2.72m、玄室幅2.07m、羨道長3.3m、羨道幅0.9−0.95mを測る。
	羨道の前には地山を利用した長さ5.2mの墓道を設けている。玄室内には小礫を敷き詰め、中央には排水溝も設けられている
	が、天井はコンクリート板で覆われている。方形に近い玄室内形状、シキミ石の使用などに紀州の影響が見られる。
	1967年の帝塚山大学考古学研究室による調査で、須恵器、耳環、瑪瑙(めのう)製勾玉、緑泥岩製勾玉、琥珀製とう玉、ガ
	ラス製小玉、水晶製切り子玉、金銅環、杯に流し込んで作った鉄塊が出土している。6世紀中葉から7世紀前葉にかけて築
	造されたと見られており、1972年に大阪府指定史跡になった。

 

 


	普段この石室は施錠されていて一般には見学は出来ない。この日は特別に明けてくれて電気まで点いていた。

	古墳から降りてきて見上げた白峠山古墳(下左)。見えている建物が国民宿舎だがもう営業はしていないようだ。あの建物
	の左に石室がある。下右は、今年度の締めくくりに挨拶する(財)大阪府文化財調査研究センターの入江さん。私は2年お
	世話になったが、ほんとによくやってくれる。彼のためにはどうだかわからないが、会員としては来年度も彼に世話役をや
	ってほしい。

 




	(*)
	ここでの解説と資料の多くは、(財)大阪府文化財調査研究センター普及資料課作成の、当日配布の見学資料と、岬町が発
	行している「岬町案内資料」から転載しました。記して謝意を表明します。




邪馬台国大研究・ホームページ /わが町の文化財/ 岬町・淡輪