【平等院(びょうどういん)】 平安時代後期、栄華の頂点にあって「この世をば 我が世とぞ思う望月の 欠けたることの無しと思えば」と詠じた藤原道長が、この 地に営んだ別業(別荘)宇治院を譲り受けた息子の関白藤原頼道は、永承7年(1052)の春、この別業を寺に改めて平等院と名付けた。 国宝の阿弥陀堂(鳳凰堂)は、平安貴族たちが憧れた極楽浄土をこの世に実現しようとした宮殿と言われ、創建当時のものとしては唯 一現存している建物で平安時代後期の建造。鳳凰堂の前には阿字池を配した庭園(史跡・名勝)があるが、創建当初は宇治川や対岸の 山並みも取り入れて、平等院全体で西方極楽浄土を現そうとしたといわれ、新しく立てられた平等院の資料館である「鳳翔館」に残っ ている12世紀頃の平等院全体図を見ると、恐ろしく広大な敷地を誇っていたようである。この建造方式はその後の各地の寺院造営に 影響を与えた。 現在、宇治上神社と共に世界文化遺産に指定され、宇治の観光目玉である。鳳凰堂は10円硬貨のデザインとしても有名だ
ここは元々は、時の権力者関白藤原道長が、左大臣源重信の女から譲り受けた別業である。その子頼通がこれを仏寺に改め平等院とし た永承7年は、仏教に言う末法初年に当たるとされ、末法思想が貴族や僧侶らの心をとらえ、極楽往生を願う浄土信仰が社会の各層に 広く流行していた。その翌年の天喜元年(1053)には阿弥陀堂(鳳凰堂)が落成し、堂内には、平安時代の最高の仏師定朝によって作 成された、丈六の阿弥陀如来坐像が安置され、華やかさを極めていたものと思われる。この世に極楽を生み出そうとした、 頼通ら平安貴族たちの考えた極楽浄土を具現化したものとして、この平等院は非常に興味深い。しかし、広大な敷地に浄土を再現し、 多くの堂舎・伽藍が林立していた平等院だが、1336年の足利・楠の合戦によりほとんどが焼失してしまい、現在は鳳凰堂、観音堂、鐘 楼のみが残っている。
この美しさはどうだろう。勿論写真の撮り方だが、これこそ極楽浄土ではないか。藤原一族の栄華は、道長が「この世をば」と詠った あたりを頂点にして、後は坂道を転がるようにその権勢は失われていく。そして武士集団が台頭し、やがては地方の豪族達が京の貴族 達に取って代わり、貴族にとっての極楽浄土は、以後数百年間再現しない。
鳳凰堂を取り巻く阿字池には、朱塗の平橋と反り橋が復元され、境内には桜、藤、ツツジ、睡蓮などが四季それぞれに彩りを添え、庭 園(の一隅には三名鐘の1つとされる梵鐘や、観音堂、浄土院、不動院等々多くの建物がある。鳳凰堂はもともと阿弥陀堂と呼ばれて いたが、建物の屋根に鳳凰が飾られている事と、建物自体が羽根を広げた鳳凰の姿に似ているところから鳳凰堂と呼ばれるようになっ たと言う。 平等院庭園は史跡名勝庭園に指定されており、現在、長い年月の中で変化してしまった庭園を、創建当時のものに再現するための発掘 調査・再現工事がおこなわれている。
【阿弥陀堂(鳳凰堂:国宝)】 極楽浄土の建築を模したという阿弥陀堂はその翌年2月に完工し、一般には鳳凰堂と呼ばれて絢爛たる内部の荘厳、極彩色の扉絵、壁 面に架かる雲中供養菩薩など、創建当所の姿を現在に伝えている。頼通が、父道長の別荘を寺院に改めた翌年に阿弥陀堂として建てら れ、仏師定朝の作になる阿弥陀如来像が安置されている中堂と、左右の翼廊、背面の尾廊で成り立っている。大屋根には鳳凰が飾られ、 内部は絢爛な宝相華文様や極彩色の扉絵で装飾されている。鳳翔館に展示されている、二重の天蓋や雲中供養菩薩は、間近に実物が見 れて感激するが、その彫刻の微細さは目を釘付けにする。雲中供養菩薩は文字通り雲に乗った菩薩で、あるものは歌いあるものは踊り と、極楽浄土での歌舞有様を描いてあり、52体の菩薩がもっている楽器も様々である。現代のアコーディオンに似たものや、笛や太 鼓など千差万別で、一体一体が国宝だという。
雲中供養菩薩の一部(上左)と、発掘調査で出土した阿弥陀堂の瓦。平等院ではこれまで何次にもわたる発掘調査を実施しており、多 くの成果を挙げている。その報告書はこの鳳翔館で販売されているが、完璧に学術報告書で一般受けはしないのだろう、あまり売れて はいないようである。