Music: Anna
万松院・金石城跡
平成15年10月12日(日曜日)






	万松院
	対馬藩主宗家十万石の菩提寺。元和元年(1615)義智(宗家第19代)が死ぬとその子義成は、父の冥福を祈り万松院
	を創立した。石灯籠に導かれ、百雁木と呼ばれる石段を登ると、大杉に囲まれて歴代藩主の墓碑が幽玄に佇む。本堂に
	は将軍家代々の位牌が並び、幕府の後ろ盾を得た宗家の栄華が偲ばれる。その後数度の火災により焼失したが、今の堂
	宇は明治12年(1879)に建造され、昔の面影を留めるものとしては、寺門と仁王のみとなった。万松院墓地には、義
	智以降歴代藩主の墓があり、金沢の前田家、萩の毛利家の墓地とともに日本の三大墓地といわれている。対馬藩は10
	万石の格式であったが、壮大な墓地は数10万石の大藩なみといわれる。墓地は、桃山様式を残す山門のわきから、百
	雁木とよばれる123段の自然石の大石段を登った所にある。

 

 

	
	対馬は鎌倉時代から宗家の支配するところだったが、豊臣、徳川体制下でも、そのまま所領安堵されている。関ヶ原で
	は西軍につくが、家康は許している。江戸時代には、対馬国全体と肥前国田代(現在の鳥栖市東部と基山町)を治め、
	対馬府中藩と称した。厳原に城があった事から別名厳原藩(いづはらはん)とも呼ぶ。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、
	従四位下を与えられ、対馬守と称した。土地柄、稲作がほとんど不可能であった為、肥前国の飛び地をのぞくと実質的
	には無高に近い。対馬国と朝鮮の釜山に屋敷(倭館)をもち、朝鮮との貿易を生業としていたため、実質的な収入は多か
	った。当初は肥前一万石を併せて二万石格であったが、幕府は朝鮮との重要な外交窓口として重視し、初代義智以来、
	対馬府中藩を国主10万石格として遇した。大広間詰め、歴代藩主は四品侍従まで進み、国名と同じ対馬守を称するの
	が通例となった。

	歴代短命の藩主が多く、四代から七代まで、宗義真の子の四人の兄弟が継いだり、八代宗義如も短命で、すぐ弟が継ぐ
	など、長く影響力のある治世を行える藩主がなかなか現れなかった。第11代と第12代が同名だが、これは第11代
	義功(幼名猪三郎)が将軍目通り前に急逝し、藩を承継させるため身代わりに、弟の幼名富寿を義功として立てたため
	である。幕府もうすうす承知の上だったと言われ、対馬藩の対朝鮮貿易による幕府への権益を考えると、宗家を改易と
	いうわけにはいかなかったのだろう。
	対馬藩は釜山にも屋敷を持っていて、琉球政府も清国の福州に倭館を持っていたが、琉球王朝は公式な徳川政権の管轄
	下とは言えず、対馬藩の釜山屋敷は、徳川幕府時代の、日本の唯一の在外公館であった。

	版籍奉還の後、1869年8月7日に改称して厳原藩となり、1871年7月14日、廃藩置県により厳原県となった。

 



	
		対馬府中藩(厳原藩) 宗家 外様 大広間 国主格 10万石格
		--------------------------------------------------------------------------------
		歴代藩主   	藩主  		官位・通称  		出自(実父・嫡出関係) 
		--------------------------------------------------------------------------------
		初代	宗 義智(よしとも) 	従四位下 対馬守 	宗 将盛の四男 
		二代	宗 義成(よしなり) 	従四位下 対馬守 	宗 義智の長男 
		三代	宗 義真(よしざね) 	従四位下 対馬守 	宗 義成の長男 
		四代	宗 義倫(よしつぐ) 	従四位下 右京大夫 	宗 義真の二男 
		五代	宗 義方(よしみち) 	従四位下 対馬守 	宗 義真の四男 
		六代	宗 義誠(よしのぶ) 	従四位下 対馬守		宗 義真の七男 
		七代	宗 方熈(みちひろ) 	従四位下 対馬守		宗 義真の九男 
		八代	宗 義如(よしゆき) 	従四位下 対馬守		宗 義誠の長男 
		九代	宗 義蕃(よしあり) 	従四位下 対馬守 	宗 義誠の二男 
		十代	宗 義暢(よしなが) 	従四位下 対馬守 	宗 義如の二男 
		十一代	宗 義功(よしかつ) 	なし 			宗 義暢の四男(幼名:猪三郎) 
		十二代	宗 義功(よしかつ)	従四位下 対馬守 	宗 義暢の六男 (幼名:富寿)
		十三代	宗 義質(よしかた) 	従四位下 対馬守		12代宗 義功の長男 
		十四代	宗 義章(よしあや) 	従四位下 対馬守 	宗 義質の長男 
		十五代	宗 義和(よしより) 	従四位下 対馬守		宗 義質の二男 
		十六代 	宗 義達(よしあきら) 	従四位下 対馬守		宗 義和の三男 


 

	

	対馬の歴史・概要

	対馬島は古くから大陸との交流があり、魏志倭人伝にも記述が見られる。建国神話である「古事記」では、最初に生ま
	れた島々の1つと記されている。歴史的に朝鮮半島に近い地理的関係から両国の中継地として日本と大陸との接点とな
	った。663年の白村江の戦い以後は、倭国は金田城を築いて防人を配置し国境要塞となる。このため国府や、多くの
	神社などがおかれていた。対馬国は、かつて日本の地方行政区分だった国の一つである。西海道に含まれ、その領域は
	現在の長崎県の対馬島である。対州と呼ばれることもある。
	魏志倭人伝には「対海国」と記され、それによれば、対海国は山が険しく、深い森が多く、道路は禽鹿の徑のようであ
	った。千余戸があり、良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南北と交易した、となっている。
	平安時代には女真族の侵攻である刀伊の入寇を受け、一時新羅の侵攻も受ける。平安・鎌倉時代を通じて、阿比留氏な
	どの在庁官人が対馬を支配し、その後、大宰府少弐氏の被官宗氏が全島を統一した。二度に渡って元寇の襲来を受け、
	住民は虐待を受けた。
	室町・戦国・安土桃山時代(13世紀頃)、少弐氏が大内氏によって大宰府を追われると、少弐氏の家人であった宗貞
	盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡し、九州にあった宗家の領地も失ったので対馬へ戻った。
	一方で倭寇の根拠地の一つであり、李氏朝鮮の倭寇征伐である応永の外寇(注)では尾崎浦を焼かれ、朝鮮軍と対馬宗
	氏の軍が戦っている。
	豊臣秀吉の朝鮮出兵では中継基地として利用され、宗氏も出兵した。江戸時代には宗氏が支配し、鎖国体制の中、朝鮮
	通信使を迎える体外的な窓であった。江戸時代後期の1859年にはロシアの軍艦が浅矛湾に投錨し、対抗したイギリ
	ス軍も測量を名目に、同じく吹崎沖に停泊して一時占拠する事件が起こる。
	第二次世界大戦後、韓国の李承晩政権は竹島だけでなく対馬についても日本に対し領有権を主張した。現在でもごく一
	部の韓国国民は領有権を主張しているが、日本国民・政府は無視している。朝鮮語ではテマド(対馬島)と呼ばれる。
	現在の対馬の行政区は長崎県に属しているが、これはどう見てもおかしい。位置的にも歴史的にも、福岡県との関係が
	一番濃厚なのは誰が見てもわかる。何故こういう事になってしまったのか。現在対馬に住んでいる人たちも、大多数は
	長崎ではなく福岡県に所属することを望んでいると言われる。県庁へ行くのに、壱岐対馬からは船で福岡へ行き、福岡
	・佐賀県を通って行かなければならないのだ。ちなみに、2004年から、対馬にあった5町は平成の大合併で1つの
	「対馬市」となり、4町があった壱岐は1つの「壱岐市」となった。

 

 

	

	宗氏のはじまり
 
	宗氏というのは、元々太宰府の官人で、それが後に武士化したものである。当時の本拠は筑前の宗像郡で、さらにその
	ルーツは、惟宗(これむね)氏で、平氏一族の平知盛を祖とすると言われる。事実かどうかは今や確認できないが、惟
	宗という姓は平氏系に多い。この惟宗氏が、対馬守護・地頭の少弐氏の代官として対馬に赴任し、次第に島での実権を
	にぎる。元寇の際には、若干19才の少年守護・少弐資時(しょうにすけとき)とともに、宗資国(すけくに)が戦死
	している。元寇に前後して、姓を「惟宗」から「宗」に変えたようである。
	続いて宗貞茂(?〜1418)が、対馬を支配していた宗家の支流を倒し、対馬を宗家の本拠とする。貞茂は倭寇を鎮圧し
	た功績により、朝鮮から対日貿易の窓口となることを承認される。そして嘉吉3年(1443)、息子の宗貞盛は朝鮮と嘉
	吉条約を締結し、ほぼ日朝貿易を独占することに成功した。倭寇に悩む朝鮮にとって、それを追い払ってくれた宗氏は
	非常にありがたかったと見える。
	貞盛はまた、朝鮮に渡航する際には宗氏の発行する許可証を必要とする文引制度を作り、ますます対朝鮮関係の窓口と
	して勢力を拡大していった。貞茂・貞盛の頃は九州にも領地があり、主家の少弐氏と共に、周防の国を支配した大内家
	と抗争したが、これに敗北して九州内の領土を失い、対馬のみに定着する事になる。

 

 

	
	豊臣・徳川政権下での宗氏
 
	宗義智(よしとし)の時、豊臣秀吉が九州を平定すると、宗氏もこれに帰順する事になる。そして、秀吉が朝鮮を侵略し
	た際には先頭を切って戦う一方、講和交渉に奔走し、秀吉の無理難題な要求と、朝鮮の主国であった明からの講和条件
	との間の板挟みになって苦悩する。
	やがて秀吉が死亡し、朝鮮から日本は撤退する。義智の跡を継いだ宗義成は、家康からの強い要望もあって、慶長10
	年(1605)、朝鮮侵略で途絶えていた朝鮮との国交回復を成功させ、4年後には己酉約条(条約ではない。約条。)を
	結ぶことに成功し、貿易を再開する。
	再開にあたっては、通交者を日本国王(=徳川将軍)と、宗氏および朝鮮官職をあたえられた対馬の者に限定すること、
	対馬からの船数を年20隻に減らし、寄港地も釜山だけとすることが定められ、今までより厳しい内容となったが、と
	もかくこの取り決めによって、宗氏は朝鮮外交の実務と貿易を再び独占する。

	その課程で、国書偽造事件などが発覚するが、これについては別リンク(後段)を参照されたし。

	対馬藩となった宗氏の藩経営の基礎を築いたのは、3代藩主の宗義真(よしざね)である。彼は朝鮮貿易の振興、新田
	開発、銀山の開発などを行い、また幕府からは肥前での分領も与えられ、最終的に12万石の格式をもって優遇される
	など、朝鮮との窓口として徳川幕府に手厚く保護される。

 

 

	
	幕末・明治維新下の宗氏
 
	江戸時代も幕末近くになると、対馬藩でも次第に朝鮮貿易は不振となり、財政の悪化が深刻になる。幕府からの上納金
	の負担も払えなくなり、とうとう対馬藩は大老井伊直弼に、対馬ではもう立ちゆかないので、畿内に移封させて欲しい
	と願いでる。井伊直弼もこれを承諾したが、1860年、桜田門外の変で井伊直弼は暗殺され移封話はご和算となった。
	翌年、ロシア軍艦ボサドニヅク号(艦長ピリレョフ 乗員360名)が対馬の浅茅(あさじ)湾に上陸し、勝手に小屋
	を建て、古里浦に井戸を掘って長滞留の姿勢を見せ、さらに湾内をあちこち移動し、牛や野菜などの食料品を掠奪する
	という事件が発生した。幕府は外国奉行・小粟忠順(ただまさ)を派遣するが、ポサドニヅク号はさらに半年にわたっ
	て停泊し、数々の事件を引き起こした。
	結局ボサドニヅク号は退去するが、これによって島内で尊皇攘夷の声が高まり、一部の藩士達は、幕府と移封交渉を行
	っていた江戸詰家老・佐須伊織を殺害し、長州藩の尊皇攘夷派と同盟を結び、孝明天皇から攘夷勅書を得る。
	これに反して保守派は、1864年、藩主・宗義達(重正:当時18歳)の叔父で、奥家老の勝井五八郎がクーデター
	を決行する。攘夷派を一掃するため、家老大浦教之助が筆頭の攘夷派をことごとく捕まえ、獄門・暗殺・切腹などで百
	名余を粛清した。他藩と違って対馬藩の場合には、尊王攘夷派が上位の藩士にも多く、京都家老平田大江を中心に京都
	で尽義隊が結成された。泥沼の争いに、藩主宗義達はどちらの派閥を支援するかの選択を迫られた。
	この時義達のとった行動も、他藩にはあまり例がない。まずクーデターの首謀者・勝井五八郎を斬殺。これに満足した
	平田大江達が帰国すると、この平田一派も斬殺し、一連の騒動にケリをつけたのである。これを、勝井騒動と言う。
	そして、慶応4年(1868)に王政復古の大号令が出されると、新政府の命令で家老・樋口鉄四郎が朝鮮に派遣され、こ
	の王政復古を通告した。そして版籍奉還を迎え、対馬藩は厳原藩になり、宗氏は伯爵に任命された。その後、厳原県は
	廃藩置県で佐賀県と合流し伊万里県となり、さらに伊万里県は唐津県などを統合するが、佐賀県と改称になり、さらに
	対馬・壱岐だけ長崎県へ移るという、不思議なことになってしまう。

 

	
	錦織さん、馬野さん、小川さんが上まで登ってデジカメも撮してきてくれたのだが、私はしんどくて上まで登るのをや
	めた。「日本の墓石の中でここはおそらく最大の規模ですよ。登ったほうが良かったのに、井上さん。残念やね。」と
	降りてきた馬野さんに言われた。後になって、後悔した。

 

 

 

 

	
	(注)

	応永の外寇 出典: フリー百科事典『ウィキペディア (Wikipedia)』
	応永の外寇(朝鮮では己亥東征と称す)とは、日本史の時代区分では室町時代の1419年(応永26年)におきた、李氏朝鮮
	軍による対馬襲撃をさす。己亥東征。対馬の糠岳(ぬかだけ)で激戦が行われた事から糠岳戦争とも。当時、対馬は中国
	人や朝鮮人を中心とする倭寇(前期倭寇)の主要な根拠地とされ、倭寇による海賊行為により甚大な被害を受けていたとす
	る李氏朝鮮は、対馬の実質的な支配者である宗貞茂に倭寇および私貿易の取締りを要求した。しかし積極的に取締りを行
	っていた宗貞茂が病没し、幼少の宗貞盛が跡目を継ぐと倭寇は再び活発化し、日本および朝鮮で被害が出た。
	李氏朝鮮では世宗が即位していたが、実権は太宗が握っており、太宗は倭寇撃退を大義名分にして対馬への軍事侵攻を決
	め、227隻17,285名からなる大軍を李従茂に率いさせ対馬に侵攻させた。朝鮮軍は6月に対馬へ上陸、一般民衆の船舶を奪
	い、民家を焼き払った。また104の民衆を虐殺したとされる。しかしその後、対馬側の伏兵に遭い損害を受けた。
	朝鮮軍は対馬側の猛反撃により戦況は極めて劣勢にたたされ、対馬側の和平提案を受け入れ7月3日巨済島に全面撤退した。
	しかしこの事件により倭寇は沈静化し、結果的に日本との間の修交関係を修復出来たことになった。回礼施として宋希m
	が派遣される。なお、この事件の報が日本本土に伝わった際、元寇の再来との憶測が流れた。その為室町幕府は事実究明
	のため朝鮮へ使者を送りその真偽を確かめさせた。









対馬藩のお城、万松院側の金石城跡は発掘の最中だった。





 



 


  邪馬台国大研究・ホームページ / 歴史倶楽部 /邪馬台国への道