Music: Anna
ガヤノキ遺跡
平成15年10月11日(土曜日)



対馬の遺跡地図



	
	【謝 辞】上記遺跡地図は、長崎県教育委員会の安楽さんから送って頂いた、「原始古代の長崎県(通史編T)
		  安楽勉執筆」から転載しました。記して深く感謝の意を表します。

	
	今までの所、対馬においては旧石器文化の痕跡はないようである。昭和27年(1952)に、対馬を訪れた明治大学の大塚
	初重が、対馬高校にあった石器を見て旧石器ではないかと言ったことがあるそうだが、由来も石器そのものも不明である。
	更新世末期の寒冷期(約22,000年前)から、氷河が溶けて対馬海峡が出現するウルム氷期の最終氷期(約12,0
	00年前)の間、この頃生息していたナウマン象の化石は本土でも壱岐でも発見されているし、朝鮮半島南岸でも壱岐で
	も旧石器は確認されているので、通り道だった対馬に全くその痕跡がないというのは妙である。地元研究者たちはその内
	出現するものと期待しているようだが、私見では、現在の対馬は当時にあっては殆どが山岳地帯だったのではないかと言
	う気がする。そのためナウマン象やヒトの群れは、もっと低地である場所(現在は海の底だが)を通っていたのではない
	だろうか。もし対馬で、今後旧石器文化の痕跡が発見されるとしたら、それは海の底からのような気がする。

	縄文土器が出土する遺跡は、北は北海道から南は沖縄、西は対馬まで分布している。対馬における縄文時代の代表的な遺
	跡としては、8体の人骨が発掘された志多留貝塚(上県町)や,人骨のほか建物跡や腕輪,装飾具が同時に発見された佐
	賀貝塚(峰町)などがある。大正4年(1915)釜山から来島した鳥居龍蔵が、仁田湾の奥部に位置する志多留貝塚に、遺
	物含有層を確認したのが、対馬における縄文遺跡の最初の発見である。以来16ケ所の遺跡が確認されており、その半分
	が発掘調査されている。縄文早期の土器は、上県町越高(こしだか)遺跡・同町久原(くばら)遺跡・豊玉町西加藤遺跡
	などから出土しているが、西加藤遺跡からの土器が対馬での一番古い土器とされる。昭和49年(1974)に調査され、海
	底2mの深さから出土した。口縁部が外反し胴が張り出した、鈍い尖底深鉢の田村式系統の土器である。久原遺跡出土の
	土器は、貝殻による押し引き紋であることから南九州系の早期末の土器と考えられている。
	調査された遺跡の内、6ケ所から朝鮮半島系の遺物が確認されている。東海岸にある佐賀貝塚以外は5ケ所が西海岸なの
	で、直接半島と向き合っている地の利が影響しているのだろう。朝鮮半島南部の貝塚では、北九州本土との交流を示唆す
	る土器も出現しているし非常に興味深い。土器とともに、石器もまた、朝鮮−対馬−北九州の交流を示している。朝鮮半
	島南岸一帯の貝塚や、西北九州の遺跡から出土する石器や骨格器類も、驚くほどの類似性を見ることができる。組み合わ
	せ式の石鋸の先端および歯の部分は、西北九州や五島列島から多く出土しているが、佐賀貝塚を中継する形で、韓国の煙
	台島貝塚や上老大島貝塚からも確認されている。石器の供給元は佐賀県伊万里市腰岳の良質な黒曜石であることは確認さ
	れているので、松浦地方−壱岐−対馬−韓国南岸地帯の交流ルートが確立していて、日本の縄文文化と韓国の新石器文化
	の交流が活発に行われていたことは間違いない。

	考古学的に見ると、対馬の中心地は各時代で少しずつ移動したように見える。

	・縄文時代 … 上県町〜峰町 → 越高遺跡、志多留貝塚、佐賀貝塚など
	・弥生時代 … 峰町〜豊玉町 → 三根川流域の井手壇、高松壇、浅海湾岸のシゲノダン遺跡など
	・古墳時代 … 鶏知周辺 → 根曽古墳や出井塚古墳などの前方後円墳
	・古  代 … 国府(厳原)

	時代が下がるにつれて中心地は、ずっと南下して来ていることがわかる。

	縄文時代の後に出現した農耕文化の弥生時代は、青銅器とともに鉄器をあわせもっている特色を持ち、遺跡や遺物は島内
	各地で発見されるが、現在発掘調査中の、峰町の山辺(ヤンベ)遺跡は豊富な遺物と大規模な集落跡が出現し、大陸との
	文化の交流が如実に示されている。弥生時代の代表的遺跡としては、青銅の鉾や腕飾りが発掘された塔ノ首遺跡(上対馬
	町)や、縄文末期から弥生初期に連続した住吉平貝塚(豊玉町)などがある。埋葬遺跡は、自然石を利用した平板な石の
	箱式石棺が多く、北部九州などでみられる甕棺は殆どない。また銅矛の出土が異常に多いのも対馬の弥生遺跡の特徴であ
	る。
	遺跡の多くは「浦」と呼ばれる良好な入り江に面し、その奥に農耕地が拡がっている場所にまとまって見られる。これは
	その後も同じ傾向をたどり、中世でも近世でも人は同じような場所に生活の居を構えている。今でこそ対馬には道路が走
	り山が切り崩されているが、このような状況は昭和の後半になってからのことである。延々と2千年に渡って対馬の人々
	は農耕に適した僅かな土地に集落を作ってきたのである。魏志倭人伝には、3世紀頃(弥生時代末期)の対馬の模様が記
	述されている。

 

	
	和多都美神社を見た後、峰町へ入った。ここには上図で見ていただくように弥生時代の遺跡が点在している。ここの遺跡
	を何カ所か見る予定で、この町で昼食をとる事にした。食堂の前を三根川が流れており、国道に面していた。食事の後、
	みんなで遺跡を探した。町の人に聞いたり、附近を歩き回ったりしたが、食堂のすぐ横と裏にあったガヤノキ遺跡しか発
	見できなかった。資料館に行けばと思っていたが、今日は土曜日半ドンで、しかも峰町の体育祭が明日だそうで、今日は
	文化財担当者もその準備や練習に行ってしまって誰もいなかった。





新しく発見された「上」ガヤノキ遺跡は、上住宅の横にあり、背後の尾根の左突端に、従来から知られる「下」ガヤノキ遺跡がある。



	
	朝鮮の青銅器時代に流行した磨製石剣が、対馬から20例ほど出土しているが、半数以上が有柄式石剣であり、そのうち
	9例は無節の一段式で、有節のものは4例しか無い。ガヤノキ出土のものは折れていて剣身は不明だが、柄部は2段式に
	なっている。このような有柄式石剣は福岡県でも多く出土しているが、その分布の中心は朝鮮半島南部と見られる。

	大陸性の細形銅剣は、三根のガヤノキ、サカドウ、タカマツノダン遺跡、同町櫛のエーガ崎遺跡、豊玉町の仁井東の浜な
	どから出土している。また、青銅器の破片と見られるものもこれらの遺跡、および対馬内の他の遺跡からも数多く出土し
	ており、青銅器が半島と北九州を行き交っていたことがわかる。対馬・壱岐にはその途中でもたらされたものだろう。
	しかしながら、青銅器を対馬島内で製造していた可能性もある。上県町の志多留貝塚が発見されたとき、黒曜石や窪み石
	などに混じって弥生時代の遺物も出土する貝塚の上層から、砂岩に丸い円を穿った鋳型の口らしい物が出土し、口縁に溶
	けた銅が付着していた。また、貝塚から50mほど行った古谷川の岸辺で(ここはかって鳥居龍蔵博士が遺物含有層を認
	めた所であるが。)、溶鉱炉の跡が発見され、溶けた銅の屑も出土している。しかしその後の分析・解明は進んでいない。
	従って、対馬で青銅器製造が行われていた可能性は高いが、ここから出土した細形銅剣や対馬に多い広形銅矛の製造に結
	びつくかどうかは不明である。

 
上ガヤノキ遺跡の説明板の後ろに金網で囲まれた一画があって、
そこに古墳の石室の蓋のようなものがあった。馬野さんが覗きこんでいる。
	
	「こりゃ石棺の蓋かいな。」「うぅ〜ん、でも蓋だとしたらなんか古墳時代の蓋みたいですねぇ。」「こりゃコンクリで
	作った現在のもんやで。」「えぇーっ、ほんま」「なんやろ、これ?」「そういえば弥生の石室にはこんな蓋はないです
	ね。」「やろ、やろ。そもそも弥生墳墓には石室もないで。」さんざん推測したが、結局これが何であるかは判明しなか
	った。




「遺跡やったら裏にもあるでぇ。」という食堂の人の話で、食堂の裏へ廻ってみる。ガヤノキ遺跡は2つに分かれているのだった。

 



	
	考古学的には「下ガヤノキ遺跡F地点」と呼ばれるこの遺跡の、箱式石棺の中から弥生後期前半の内行花文鏡2面、年代
	形式不明の鏡2面が出土している。いずれも断片である。ガヤノキの内行花文鏡の断片は、前漢の中国鏡である。同町櫛
	のエーガ崎遺跡からも漢式鏡が出土しているが、これも内行花文鏡である。ガヤノキ遺跡には、弥生時代中期から古墳時
	代前期にかけての墳墓が密集していたが、多くは盗掘にあっているので、鏡出土時の状況は不明である。しかし附近から
	弥生中期の土器片が出土しているし、福岡では前漢鏡が出土するのは多くが弥生中期の地層なので、ガヤノキの鏡もおそ
	らくその頃にもたらされたものであろう。

 

これが残されている唯一の箱式石棺。ここから2面の鏡が出土した。



ここも、対馬の他の多くの弥生遺跡同様、尾根の突端に作られている。

 

	
	島内には弥生時代の遺跡が多い。遺跡として確認はされていないが、石器や土器片が採集されたところもいれると、約1
	50程ある対馬の部落のうち、ほぼ半数で弥生の足跡を見いだすことが出来る。対馬の弥生遺跡はその殆どが埋葬遺跡で、
	それも箱式石棺である。北九州や壱岐に多い甕棺がほとんどない。対馬で甕棺による埋葬墓は上対馬町の泉と美津島町の
	樽ケ浜の2例しかない。



この尾根の上にガヤノキ遺跡群があった。

	
	箱式石棺から出土する遺物としてはまず土器がある。壺形が多く、小形の甕、高杯がそれに次ぐ。ついで剣がある。前期
	から中期前半までは磨製石剣で、中期後半から後期初頭にかけて細形銅剣、そして後期全般で鉄剣、および鉄刀が出てい
	る。昭和6年(1931)に対島を訪れた中山平次郎は、三根の松村文次郎氏宅に所蔵されていたガヤノキ出土の石剣、銅剣、
	金銅釧、鉄剣、鉄斧等に珠類を含む遺物群を調査して、「銅剣鉄剣石剣の共伴を示せる組合石棺」という論文を「考古学
	雑誌」36巻3号に発表したが、その後、昭和45年の夏に行われた調査で、石剣だけは同じ棺からでたのではなく、同
	地内の別の遺跡から出土したものであることが判明した。
	ガヤノキの丘には、少なくとも8基(おそらくは10基以上と推測される。)の箱式石棺があったと見られ、今となって
	は混在した遺物の出土状況を正確に把握するのははなはだ困難である。この時の事例は、たまたま40年前に松村氏とと
	もにガヤノキ遺跡を掘ったという老人が調査団を訪れ、その証言から石剣が鉄剣・銅剣と一緒に出土したのではない事が
	判明したのである。我が国初の「銅剣鉄剣石剣の共伴」はこうして消え去った。












	
	「居る所絶島,方四百余里ばかり,土地は山険しく,深林多く,道路は禽鹿の径の如し。千余戸有り,良田無く,海物
	を食して自活し,船に乗りて南北に市糴(してき)す。」
	
	訪れた印象では、まさしくその通りと言いたいほど、この文章は対馬の特色をよく描写している。居る所絶島、土地は山
	険しく、深林多し。こんな所では、特に古代はロクなものは栽培出来なかったのではないかと思われる。壱岐に比べると
	殆ど平野らしき所はないが、しかし、古代から対馬人は海洋を利用して大陸や九州本土間を往来し,物資のみならず文化
	をも伝えて大陸とのかけ橋の役目を果していたことは確かである。あまりの急峻さの故に、馬野さんは「こんな所には魏
	使の使いは絶対寄っていない。魏使は対馬は避けて行ったはずですよ。」と主張する。



	
	弥生時代に於いては、大陸からの流入品には土器や青銅製品が多く、特に後者に見るべきものが多い。舶載青銅器には楽
	浪郡経由と見られる前漢鏡・貸泉・太身金銅製銅釧・把頭飾・銅復などの中国製品があるが、かがり松鼻遺跡からは洛陽
	を中心とした黄河中・下流域で流行したと考えられる流雪型花文を施した把頭飾や、シゲノダン遺跡からは、遠くスキタ
	イ文化に紀元を持つと考えられる双獣十字形把頭飾が出土し注目されている。朝鮮半島産の細形銅剣・中細形銅矛や馬具
	・装身具などもあるが、これらは韓国慶尚道の遺跡の出土品と関連が深い。
	九州本土からは、奴国からと思われる国産青銅器ももたらされ、主流は銅矛と銅鏡である。銅矛は壱岐島で3ケ所計5本
	が確認されているが、対馬全島では中広・広形あわせて120本が確認されており、これは九州本土と比較しても突出し
	た数である。日本全土でも銅矛の出土数は400本強なので、約3分の一が対馬1島から出土している勘定になる。一体
	何故対馬でこんなにも銅矛の出土例が多いのであろうか。これらの銅矛は近畿圏における「埋納」と同じく墓地や集落以
	外の場所に埋められた形で出土することから、祭祀道具であろうという考えには異論がないようである。



	
	では何のための祭祀なのだろう。(1).航海安全の祈願、(2).社会的な力の誇示、(3).共同体の結束を図るための宗教
	祭祀、(4).悪霊・魔霊除去のためのムラの守り神、など諸説あるが、魏志倭人伝の内容に鑑みれば、(1).の航海安全の
	為というのが一番相応しいような気がする。



	
	魏志倭人伝等文献による資料と、考古学上の発見からすると、対馬が邪馬台国を中心とする倭国連合に参加していたのは
	ほぼ間違いないようである。官吏もおそらくはこの連合国家から派遣されていたものと思われる。しかしその地理的な生
	産性の規模からみると、壱岐と違って魏使が長逗留出来る場所ではなかったようである。おそらくは、対馬海峡を乗り切
	ったほっとした気分で、航海の疲れをいやす一時的な休息所のような役目を担っていたのではないだろうか。疲れをいや
	した魏使たちは、ここからさらなる一海を目指して大海原へこぎ出していったのだ。


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